視線のゲーム
その時まで、アドリアン・ヴァルモンはいつも通りキャンパスを歩いていた。
背筋は伸び、歩幅は一定。
自分がどこに立っているのかを正確に理解している者の、抑制された所作。
表面上は、何も変わっていない。
――内側では、違った。
それは声ではなかった。
突拍子もない啓示でもない。
理解だった。
初めて、アドリアンははっきりと悟った。
この世界が、自分にどんな役割を与えようとしているのかを。
そして、それが気に入らなかった。
生まれた瞬間から、明確なアドバンテージを持つ者がいる。
家柄、資源、教育、人脈。
そして、持たない者もいる。
その差が運命を決める――
少なくとも、大多数はそう信じていた。
アドリアン自身も、ずっとそう考えてきた。
人生は三つで決まる。
情報、準備、そして冷静さ。
それを多く持つ者が勝つのだ、と。
だが、前日に起きた出来事が、その論理を揺るがした。
三対一。
それでも――負けた。
力の差ではない。
運の問題でもない。
判断力だ。
成績下位に名を連ねる無名の生徒。
誰も真剣に見ていなかった存在。
彼は乱暴者のようにも、追い詰められた者のようにも戦わなかった。
距離を測り、
相手のミスを待ち、
リスクが最小になる瞬間だけ前に出た。
――普通じゃない。
アドリアンは、こめかみに微かな圧迫感を覚えた。
(……辻褄が合わない)
資源も後ろ盾もない者が前に進むとしたら、
それは偶然ではない。
他人が見落としているものを、見ているからだ。
そして、もしその存在が脅威になるのなら――
闇雲に潰すべきではない。
理解する必要がある。
「ボス……」
アドリアンは足を止めた。
「おい、義姉さん! おはよう!」
レオの声が、やけに大きく響いた。
その視線の先を追い、アドリアンは彼女を見つける。
背が高く、洗練された立ち姿。
長い黒髪が自然に肩へと流れ、
白い肌が制服越しでもはっきりと映える。
群衆の中でも、努力なく目を引く存在。
――アストリッド・ロッシュ。
学術委員会の一員。
模範生。
学院の多くから敬意を集める少女。
アドリアンは、感情を排した視線で彼女を見た。
かつてなら、
二人はお似合いだと言われただろう。
そして、少し前の自分なら、それを否定しなかったかもしれない。
――だが、今は違う。
レオの言葉を聞き、アストリッドは眉をひそめた。
周囲の生徒たちが、足取りを緩める。
囁く者、見ないふりをして失敗する者。
「レオ、変なこと言わないで」
彼女はきっぱりと言った。
「アドリアンとは同級生なだけ。そう呼ばないで」
「まあまあ、時間の問題だろ?」
レオは笑いながら続ける。
「なあ、ボス――」
「黙れ」
静かで、正確な一言。
レオは即座に口を閉ざし、視線を落とした。
アドリアンは数歩進み、アストリッドの前で止まる。
近すぎず、遠すぎない距離。
彼女は反射的に一歩下がり、身構えた。
アドリアンは、わずかに頭を下げた。
「誤解を招いてすまない」
「もう起こらない」
アストリッドは瞬きをした。
困惑が、はっきりと表情に浮かぶ。
「私たちは同級生。それだけよ」
曖昧さのない言葉。
裏の意図もない。
そう告げると、彼女は場を離れた。
まるで、この出来事自体が取るに足らないかのように。
去っていくアドリアンの背中を見つめながら、
アストリッドの胸に、奇妙な感覚が残る。
安堵でもない。
怒りでもない。
――不確かさ。
一方、アドリアンはすでに決断していた。
もし、この世界に“ゲーム”があるのなら――
他人のルールでは、遊ばない。
そして、
誰かを自分の世界の中心に据えることも、決してしない。




