静かなる崩壊の序曲
アルマン大学は、相変わらず湿った石と古紙の匂いを漂わせていた。
何も変わっていない。
――ただ一人を除いて。
オリバーは中央庭園を通り抜ける。
時計塔も、管理棟も見ない。
目的は一つ。
先端研究棟。
廊下の奥、静寂がさらに濃くなる場所に、エレナ・ヴァンスのオフィスはあった。
ノックは一度。
「どうぞ。」
落ち着いた声。
入室した瞬間、彼女は顔を上げた。
驚きはない。
評価だけ。
「何しに来たの?帰りなさい。」
迷いのない拒絶。
オリバーはドアを閉める。
「先生。失望されているのは分かっています。ですが、最後に一度だけ機会をください。」
エレナの表情に、わずかな変化。
「何が欲しいの?」
彼は資料を机に置いた。
「これを見てください。」
彼女はすぐには手に取らない。
「ヴァルモンを攻撃するつもり?正気じゃないわ。」
「攻撃ではありません。事実の提示です。」
その言葉に、彼女は資料を開いた。
ページをめくる。
三十秒。
姿勢が変わる。
九十秒。
閉じた。
「これは……単なる告発じゃない。」
「はい。」
「問題になるわよ。」
「分かっています。」
彼女は彼を見た。
「訴えられる。居場所も失う。」
沈黙。
そして彼女は窓辺へ歩く。
黄金の光に包まれたキャンパス。
かつて最も優秀だった学生が追い出された場所。
「誰が関わってるの?」
「必要な人間だけです。」
エレナは振り返る。
「協力するなら、復讐じゃない。」
「承知しています。」
「正義のためよ。私は不正が嫌いなの。」
オリバーの目に、わずかな満足が浮かぶ。
「お願いします。」
「見るわ。」
短い答え。
だが、それで十分だった。
彼が去った後。
何も知らないまま、歯車は動き始める。
最初の亀裂が入る。
ヴァルモンという名に。
その後――
オリバーは自然とカフェへ向かっていた。
昔と同じ場所。
同じ匂い。
同じ空気。
そして――彼女。
アストリッド。
窓際に座り、笑っていた。
変わらず、美しく。
変わらず、遠い。
視線が交わりかける。
だがオリバーは逸らす。
近づかない。
声もかけない。
遠くの席に座る。
彼は理解していた。
戦略で取り戻せるものと、そうでないものがあると。
これは――後者だ。
彼女の笑い声が響く。
彼は一瞬だけ見つめる。
そして視線を落とした。
この戦いは。
計算か。
それとも勇気か。
――まだ、決めていなかった。




