欲望と理性の境界線
カフェを出た後、アドリアンは歩調を速めた。
胸の内側で、警鐘が鳴っている。
欲望と危機が、同時に渦巻く。
スマートフォンを取り出し、短くメッセージを送る。
――この街を離れなければならない。
林月は危険だ。
そして、葉辰は……もっと危険だ。
その頃。
キャサリン・スターリングのデスクに、振動が走った。
彼女は顔を上げる。
画面に表示された名前――アドリアン。
一瞬だけ、瞳が揺れる。
婚約者。
だがそれ以上の存在。
メッセージは短い。
「空港まで迎えに来てくれ」
それだけ。
彼女は即座に返信した。
「向かいます」
だが送信した瞬間。
理性が、わずかに崩れる。
思い出したのは――あの夜。
婚約の夜。
初めての時間。
月明かり。
彼の手。
触れられた瞬間の、震え。
彼といる時だけ、自分は「ただの女」になれる。
数ヶ月の間、彼女は仕事に没頭していた。
成功。成長。拡大。
すべてを手に入れていた。
だが――
空虚だった。
身体が先に反応する。
熱が内側から広がる。
彼女は立ち上がった。
もう待てない。
義務ではない。
欲望だった。
空港のVIPラウンジ。
扉が開くたびに、心臓が跳ねる。
そして――
彼が現れた。
アドリアン。
少し乱れたシャツ。
自然体の存在感。
キャサリンは、思わず笑みを浮かべる。
それは、彼女自身も知らなかった表情だった。
車の中。
外界は遮断される。
言葉はいらなかった。
距離もいらない。
彼は彼女を引き寄せる。
彼女は、それに応えた。
その瞬間。
地位も、理性も、すべてが意味を失う。
残るのは――
ただ、抗えない引力。




