書かれざるルール
学院の正門前に、ポルシェ・パナメーラ・ターボSが静かに停車した。
運転手が先に降り、ほとんど儀式のように正確な動作で後部座席のドアを開ける。
一人の少年が車から降りた。
年の頃は十八前後。背が高く、整った顔立ち。着ているのは主張しすぎないが、一目で高級だとわかる服装だった。
それでも、ちょうど登校してきた数人の女子生徒が歩調を緩め、興味なさそうに装いながら横目で彼を盗み見る。
――彼は、見返さなかった。
その表情は冷静で抑制されており、必要以上の感情を見せないよう、長年訓練されてきたかのようだった。
傲慢さではない。距離だ。
言葉を使わない警告。
彼の名は――アドリアン・ヴァルモン。
そして、機嫌は最悪だった。
それも無理はない。
昨日起きた出来事は、彼の立場にある人間にとって、到底受け入れられるものではなかった。
この学院には、誰も口にしない暗黙の了解がある。
成績下位――いわゆる「鶴の尾」と呼ばれる者たちは、自分の立場をわきまえるべきだ、というルールだ。
アドリアンは、それを誰かに教えられたわけではない。
生まれ育つ過程で、自然と理解していた。
そして昨日、そのルールを“再確認”させてやったはずだった。
三対一。
理屈の上では、争いにすらならないはずだった。
だが――理屈は裏切られた。
名もなき相手を屈服させるどころか、配下の三人が医務室送り。
しかも、完膚なきまでに。
それを思い出し、アドリアンは胸の奥に不快な圧迫感を覚える。
純粋な怒りではない。
もっと厄介な感情――理解に近い何か。
(まるで出来の悪い物語だな……)
(目立つはずのない凡人が、なぜか活躍する、あの手の)
彼は冷静に状況を整理した。
自分の立場は揺るがない。
強大な家柄。潤沢な資源。優秀な成績。
常識的な環境なら、それだけで勝敗は決まる。
だが――
差があっても、必ず勝てるとは限らない。
アドリアンは短く、乾いた笑いを漏らした。
「すべてが“あるべき形”で動くと思う方が、よほど愚かだ」
運命も奇跡も、彼は信じない。
世界は“優位の積み重ね”で動く。
より良い情報、より冷静な判断、そして他人が感情を失った瞬間でも平常を保てる力。
その土俵で、譲るつもりはなかった。
「……ボス」
背後から、緊張した声がかかる。
キャップを深くかぶった少年が、慎重に近づいてきた。
つばの影に、隠しきれない打撲の痕。
レオ・トーレス。配下の一人だ。
残りの二人――マルコ・ルイスとブルーノ・サエスは、まだ医務室から出られない。
アドリアンは数秒、何も言わずに彼を見つめた。
「他の二人は?」
「……見た目以上に、重いです」
言い訳の余地はなかった。
三対一で、なお敗北。
アドリアンは声を荒げない。
失望も見せない。
「理由を説明しろ」
レオは一瞬ためらい、口を開いた。
「あいつ……他と違うんです。焦らない。怒らない。
まるで、いつ前に出て、いつ下がるかを、全部わかってるみたいで……」
――それは、アドリアンの興味を引いた。
力でも、運でもない。
“制御”。
「その後、どうするつもりだった?」
「人数を増やそうと……十人、二十人でも」
「それが間違いだ」
遮られ、レオの肩が強張る。
「劣勢な側が、明らかな優位に挑む時、理由は二つしかない」
「状況を理解していないか……」
「理解しすぎているかだ」
レオは唾を飲み込んだ。
「聞くが」
「俺は、あいつより劣っているか?」
「いいえ」
「家柄は?」
「比べ物になりません」
「成績は?」
「……はるかに下です」
「なら条件の問題じゃない」
「問題は――思考だ」
レオは背筋に寒気を感じた。
「これからは、短絡的なチンピラの真似はやめろ」
「観察しろ。聞け。学べ」
「方向を持たない力は、他人に機会を与えるだけだ」
「……了解です、ボス」
アドリアンは学院の本館を見据えた。
あの成績最下位の生徒は、偶然ではない。
そういう人間は――必ず理由があって現れる。
自分の地位、姓、そして継承した世界を守るためには、
くだらないミスは許されない。
近道はない。
外部の助けもいらない。
必要なのは――
忍耐、計算、そして一手先を読む頭脳。
(このゲームが始まったなら……)
(ルールを決めるのは、俺だ)




