(三)
(フランチェスカ) 話の本題に移る前に、エレナさん、あなたは私たちに自身の結婚のことを隠していませんでした?
(エレナ) そうですね。私の結婚式は、それはもう秘かに、誰にも知られないように執り行われました。みなさんが私の結婚を知ったのは、つい最近のことでしたね、
(マリア) あんたの結婚を知った時は本当にびっくりしたね。あんたは仮にもこの街の長の娘なんだし、それなりに社会的立場のある人間じゃないか。普通はもっと大っぴらにやるもんだろう?
(ジュリア) そうね。街の有力者をたくさん呼んで、この街で一番大きな教会で式を執り行うのが筋ってものよね。エレナったら水臭いじゃない。どうして親友である私たちに隠してたのよ。
(エレナ) 色々と事情があるのですよ、ジュリア。
(フランチェスカ) おかげ様で私もマリアさんもジュリアさんもエレナさんの旦那さんについては何も知らないのですわ。一体どんなお方なのですか?きっと素敵な方なんでしょうが……。
(エレナ) 私の旦那についてすぐに話すよりも、それより私がどんな風にしてあの人と出会い、そして恋に落ちたのかを先に話した方が、今の本題に沿った話をできると思います。それでもよろしいですか、フランチェスカ?
(フランチェスカ) ええ、もちろん。存分に話してください。馴れ初めというのはとても興味をそそられる話ですわ。
(エレナ) あれはある冬の日でした。十二月の厳しい寒さの中、水っぽい雪がちらちらと舞っていて、石畳にうっすらと積もっておりました。私は夜の買い物のために外出していて、白い息を吐きつつ、暗い青に染まった街を歩いていました。買い物を済まし、家に帰る途中でした。橋のちょうど真ん中あたりで、私は橋の下から白い煙が上がっているのに気づきました。欄干に身体を預け、ゆっくりと前のめりになって下に目線を送ると、そこにはボロ布に身を包んだ男が一人、小さく丸まって震えておりました。その時、私は神の教えを思い出し、何かに取り憑かれたようにしてその人の元へ駆けつけました。そして、すぐに施しを与えました。彼は私を見ると小さく頷き、震える手でパンを食べ始めました。ああ、なんと哀れな男でしょう。まごうことなく、彼は浮浪者でした。家なき子でした。私は、この寒波の中でこの男があとどのくらい生きられるのか、思いを馳せました。クリスマスを越えられないのは明らかでした。男には食料がなく、身を守るのも薄い布一枚だけで、他には何も所有していないのです。そんな貧相な浮浪者がどうして春まで生き延びることができると思えるでしょうか?私は悲しみに包まれて、膝をつき、手を合わせて祈りました。何がどうなって欲しいというわけではなく、ただひたすら神に祈りました。すると、やはり神というものは確かにいらっしゃって、私になすべきことをご明示になりました。かつて、神の子と言われたあの方は貧しい者、苦しむ者のために愛をお与えになった。エレナよ、お前もそうするのだ、と。私は神を身近に感じ、万感に打たれて、無意識のうちに行動していました。私は目の前の小汚い男を抱き締め、接吻を与えていたのです。ああ、なんという神がかり的な憐れみでしょう!その瞬間、私の人生は全て決まったのです。私の胸は愛で溢れ、今にもこぼれてしまいそうなほどでした。私は彼を家に連れて行き、そしてお父様を相手にしてこう宣べたのです。『お父様。神の導きによって、私はこの男と結婚します』、と……。
(ジュリア) なんということなの、エレナ。あんたが浮浪者と結婚していたなんてね。
(マリア) そりゃ、式も秘かにやるしかないだろうねぇ。もし町長の娘がそんな結婚をしていたなんて知られたら、一大スキャンダルだよ。あんたのお父さんは反対しなかったのかい?
(エレナ) それはもちろん、強硬に反対しました。大事な一人娘が家の無い男と結ばれたいなんて言うんですからね。それはもう狂わんばかりでした。でも、私には神が付いていました。いくらお父様から冷たい言葉を浴びせかけられたり、いじめられたりしようとも、同じように誤解と罵倒に晒されたあの方のことを心の支えにして、ただひたすらに耐え忍んでいました。冬が去って、春が到来し、夏至になってもお父様は私の婚約を認めてくれず、私も私であの方との結婚を撤回するつもりはありませんでした。
(フランチェスカ) あんなにお優しいエレナさんでも、そこまで頑なになることもあるんですのね。
(エレナ) そうやって睨み合って、遂に夏になりました。まだ婚姻は成立していませんでしたが、そのころにはもう私はあの人の妻になった気持ちになってしまって、ある時などには、あの方と同じようにボロをまとって、一日中橋の下で物乞いの真似をしてみたこともありました。もしかしたら今回のことでお父様から勘当される可能性もあったわけですし、将来住む場所がなくなることも考えて、そんなことをしたのです。そうしたら、さすがのお父様も私に泣きついて来て、『結婚を認めるから、そんな浮浪者みたいなことはやめてくれ』と言ってきてくれたのです。私は勝ちました。いや、正しくは神の愛が勝ったと言った方がいいのかもしれませんね。そうして、私はあの方と結ばれたのです。
(ジュリア) これも全部神が計らったことだと思う、エレナ?
(エレナ) もちろん。そこに疑いを差しはさむ余地はありません。
(フランチェスカ) エレナさんったら、とても信仰のある方でいらっしゃいますのね。教会のシスターよりも敬虔であるように私には見えますわ。でも、後悔していませんか?
(エレナ) いえ、私は何も後悔していません。夫は相変わらず浮浪者じみた生活をしていますが、たまに家に帰ってきて、妻である私と言葉を交わすのです。夫は確かに財産も無ければ、知性も体力もない方ですけれども、純粋無垢で、とてもお優しいお方です。あなた方には信じられないかもしれませんけど、これでも楽しい結婚生活を送っているのですよ?さあ、フランチェスカ。ここからが本題です。あなたに愛すべき男性について話さなければなりませんね。さらには、ほんとうの愛について。
(フランチェスカ) そうです。私はそれを知りにここに来たのですわ。
(エレナ) フランチェスカ。私が思うに、愛は全てに先んじる始まりなんだと思います。愛は探し求めた終局にあるものではなく、全ての始まりなんです。私があの方を愛した時もそうでした。理由があるわけではなく、何か欲しかったわけではなく、ただ愛そうと心から思ったのです。対価は求めません。何かを得るために愛するわけではありません。ただ、全てを投げ与えるように、愛を注いだのです。
(フランチェスカ) それではまるで、何かの慈善事業のように聞こえます。
(エレナ) それでいいのです。愛とは慈悲です。それが慈悲であるからこそ、私はあの浮浪者を愛したのです。フランチェスカ、世の中にはいろいろな男性がいます。あなたの縁談相手のような、何も欠点のないような優秀な男もいるでしょうし、私や、ここにいるマリアやジュリアの夫のような、どこか欠けた男もいるでしょう。もし二つの選択肢があるならば、フランチェスカ、あなたは後者を選びなさい。無償の愛に値するような、哀れな男だけを愛するのです。これはジュリアの話にも通じることですけど、結局何かを求めるような愛は堕落し、躓きの元になります。世の中の人は何か理由をつけて男を愛するわけですけども、それはとどのつまり、愛を大義名分にして男性から旨味を搾り取ろうとする卑劣な企みに過ぎません。街を行く人を見てごらんなさい。あそこの貴婦人はさもお隣にいる紳士を愛しているように見えるけれども、実際は紳士のポケットの中にある大量の紙幣を愛しているんです。これを愛の堕落と言わずしてなんというでしょうか。つまり、フランチェスカ、男とは駄目な男であればあるほど、愛の可能性が芽生えるのです。金や、見た目の美しさや、あるいは社会的ステータスなどが全て消し飛んだ、まっさらな地平線の上に、初めて愛という陽が昇るのです。
(フランチェスカ) ああ、エレナさん、私はもう……頭がおかしくなってしまいそうですわ。
(フランチェスカは眩暈を起こしてマリアに倒れ掛かる。しかし、彼女の顔は赤く燃えていて、どこか嬉しそうですらある)
(フランチェスカ) これが真理を知った者の感じる眩暈ですのね。世の中の認識が全て変わってしまって、私の頭が追い付いていないんですわ。ああ、ほんとうの愛、これこそがほんとうの愛なんですのね……。
(エレナ) 最初はなかなか受け入れがたいでしょう。でも、いずれは理解できますよ。あなたは賢くて良い女ですから。
(ジュリア) 私たちが理解できたようにね。
(マリア) そうだよ、フランチェスカ。ほら、もう自分ひとりで立てるかい?
(フランチェスカはマリアの助けを借りながらやっとのことで立つ。彼女は背筋をまっすぐにして、目を輝かせている)