第11話:ATP(アデノシン三リン酸)
「失礼ですけど、被害者は心臓麻痺で間違いないんですか?」
2人の刑事は科捜研に来て研究室長の沢口靖枝に尋ねた。某ドラマの主人公に名前こそ似ているが、ルヴァンパーティーをしている雰囲気は一切なく、身体は見た感じ小学生に近かった。しかし、それなりに落ち着いた感じの服を着て、その上に白衣をまとっているので小学生の理科の実験を思わせた。どちらかというとキッザニアの雰囲気を感じていた。
報告書は既に受け取っていたが、科捜研の人間は基本的に科学者だ。学者の言葉は一般人には分かりにくい。飯島はその内容をほとんど理解していなかった。そこで、飯島は話を聞きに行こうと思ったのだ。
「はい。間違いありません」
沢口はきっぱりと答えた。目の前には刑事課に提出した資料と同じものがテーブルの上に置かれている。沢口靖枝はなぜここに来たと言わんばかりに不満顔だった。
「ATPってなんすか?」
横から口を挟むように海苔巻あやめが訊いた。海苔巻あやめは例の科捜研の資料とは別に、央端社が提出した「文豪」の原稿を持っており、既にその内容は読んでいた。
「ATP?」
意外な質問だったらしく、沢口靖枝が聞き返したがそのまま続けて答えた。
「私が知ってるATPはアデノシン三リン酸。アデノシンのリボースに三分子のリン酸が付いてて、2個の高エネルギーリン酸結合を持つヌクレオチドです……」
「そのATPを過剰摂取した場合はどうなるんすか?」
沢口の解説はまだまだ続きそうだったが、飯島は割って入って聞きたいことだけを訊いた。解説で出てきた単語の一つも分からなかったのだ。学者と一般人とはそれほど別の言語を使っていると言っても良かった。
「それは危険です。心停止の危険性があります」
「どういうことですか?」
こういうときの飯島の渋い表情とイケボはドラマの中の刑事らしく実にかっこよかった。
「ATPは体内で生成されるものなのですが、手術では静脈に注射して一時的に心臓を停止させるのに使います。心臓の手術なんかのときですが……」
「つまり、そのATPを大量に注射したら人は死ぬってことですね!?」
「はい。心臓が停止しますので。血液が循環せず脳死します」
海苔巻あやめが持っている「文豪」の原稿によれば、3人目の被害者の死因はATPになっている。それが絵空事ではなく、現実に殺人を行える凶器であることが今ここで判明した。
「検死ではそれは見つからなかったんですか?」
「毒物検査ではATPの検査はやってません」
「?」
飯島は訳が分からなくなった。毒の検査はやったと聞いたのに、今度はやってないという。そして、その眉間にシワの入った飯島の表情を読み取って沢口が補足した。
「毒物検査はおよそ200種類の乱用薬物をスクリーニング……検査・判定します。一度に200種類トライエージ……検査する装置が導入されたので。要するに、検査した毒だけ使われた・使われないが分かるんです。他県だと手作業なのでメジャーな毒の数種類だけ調べる形のところもあります」
「メジャーな毒とは……」
初めて聞く言葉の並びについ海苔巻がツッコミを入れてしまった。沢口は飯島がどんな人間か大体分かったので、彼にも分かるように言葉を選びつつ説明した。すると、今度は海苔巻あやめの琴線に触れてしまったのだ。
「殺人で使われる毒は色々ありますけど、シアン化合物とか、テトロドトキシンとか……こういったものは検査することになってます」
「テトロドトキシンっていうとフグですか」
「はい、そうです。一方で、ATPとなると元々体内にあるので検査はしません。死後時間経過と共に減っていくものですので、死因として断定するには発見後すぐに検査する必要があります」
「なんだって!」
死体は既に遺族に戻されていた。恐らく火葬も終わっていることだろう。もし火葬がまだでも既にATPは消え、検査をしても分からない状態の可能性が高かった。
「これは大変だ……」
事の重大さを改めて理解した海苔巻あやめ。頭を抱えたい場面だ。しかし、弱気は良くないと平静を装った。なにより、刑事としてカッコ悪いと思ってしまったのだ。
「元々ATPは筋肉内に大量にあります。死後無くなると筋肉が固くなって死後硬直の原因となるものですね」
「それは簡単に手に入るもんですか?」
「薬局で売ってるようなもんじゃありせんけど、病院なら珍しくありません」
それはそうだろう。そんなものが一般人の手に簡単に手に入る世の中なら不審死はもっと増えているだろうし、小説やドラマ、マンガやアニメの探偵ものでは登場回数がもっとあるだろう。
「これはかなり厄介だぞ……。犯人は医者の知識と腕を持つやつで、しかもかなり頭がいい」
二人の刑事は説明を受け、科捜研を後にした。
「外科医を当たりますか!」
「バカ、福岡に外科医が何人いると思ってるんだ」
パトカーの中ではまた少し間の抜けたやり取りが展開されていた。
「手足をきれいに切断できて、ATPを使う医者がどれくらいいるかっすね」
「よし、行くぞ!」
「今度はどこっすか?」
「花園芽亜里の手足をつないだ医者に話を聞きにいく」
「なるほどっすね」
海苔巻あやめがパトカーのサイレンを鳴らすためのボタンに指を伸ばしたが、飯島が黙って手首を掴んで止めた。




