伝染る駅
アカリは、駅にいた。
アルバイトからの帰りで、電車をホームで、待っていた。
白線からは離れてイスが四つ、端に座っていたが電車が来る時刻に近づくと立ち、でも手にしていたスマホからは顔を上げる事もなく、三歩四歩先にいる男の後ろに並ぶ格好で方向を変えた。辺りは暗い、二人以外は誰もいない様で、虫の声がする。七日に立秋を迎えたばかりだが秋らしくはなく、毎日は三十度を超える暑さが続いている。梅雨がやっと明けた今季で、夏が始まったばかりで、秋など遠く感じた。
夕闇も過ぎて夜の九時が近づいていた。アカリが働いている店からは歩いて最寄り駅まで二十分、既に暗かった。
(今日も暇、だったな……)
どうでもいいニュースをスマホでダラ見しながら、ふと、前を見た。
男がいる。背中しか見えていないが、白いシャツを着た、サラリーマンであろうと思われる。ゴトッ、と硬い音がした。
男の足元に何かが落ちた音であった。すぐ分かる、黒い、スマホである。
(ん……?)
男は歩き出した。かなりゆっくりとだがしかしフラついていて、止まらず、白線を越えて、まだ進もうとした。
(え? ちょっとオジサン?)
スマホが落ちましたよ、どころではない、電車の入車アナウンスが鳴り出す。まもなく来る。
男は歩みを止めない。このままでは、ホームから落ちてしまう。
「危ない!」
電車が近づいてきた。
咄嗟で、アカリは走り出した。三密は避けようとか頭にない。周りには誰もいない。自分が――。
あと一歩でという寸前、夢中で男の腕を、どこにそんな馬鹿力があるのかと問われるくらいに強く、後ろに引っ張った。勢いで二人は倒れてしまう。「あだだだ」辛い声を出したのはアカリであった。
「ちょっとオジサン!」
よく見ずに出てしまった声だが、男はまだ若そうに見えた。大学生のアカリとはそんなに離れている年でもないだろうか。髪は汗のせいか濡れてはいるが充分生えている。気絶していた。アカリは一息ついた。
「……まさかジサツとかじゃないでしょうね。やめてよキモい。どうすんのコレぇ」
困ってきょろきょろと見回し、そうこうしているうちに電車がホームに入ってきており、端で駅員の姿が見えた。見つけて俊敏にアカリは走り出す。自分ではどうにもならないし、第一関わりたくないと思っていた。
置き去りにされた、地面のスマホは画面で、こう告げた。
『落ちちゃえばよかったね』
誰からの受信か?
知らないアカリは、ただ走る。
すべてを捕まえた駅員に任せ投げて、アカリは来た電車に乗り込んだ。
気味が悪かったと肩を竦め、奥に身を寄せながら、鞄から携帯している消毒液を取り出し手につけた。全身にもかけたいくらいだと嫌な顔をする。同乗者はいない、アカリ一人であった。座らずにスマホを出して友人達とラインで会話した。今起こった事を伝えると、「怪談だよねー」や「ってか、ヤバくない? 大丈夫?」と、盛り上がったりアカリを心配する反応で、段々と冷静に包まれてきた。「平気。ビックリしたけど」と素早く打ち込む。「ほんっと、疲れたわ」溜息が出た。
次は、とアナウンスが次の停車駅を伝える。アカリは座ろうかなと、座席に寄って行った。
電車は停車し、ドアが開く。女性が一人、乗り込んできたのだが。
(うわ……)
ギョッとして目を引いたのは、女性の顔半分を隠した真っ赤なマスクであった。かなり目立つ、アカリがひるむのも当然と言える。長髪を前にも垂らしている。目は小さく見える。全身が細身、三十代、はたまた四十代、美人かどうかはマスクのせいでよく見えない。肩がむき出しになりそうな白いシャツに小豆色の薄いロングスカート、小さい手提げバッグを持っていた。
女性は席に座ると、しばらく動かなかった。アカリは座ろうとしていたがマスクに目が奪われてしまったせいで止まり、立ったままになった。女性の前で背を向けて、吊革に掴まった。窓から外が見えたが誰もいない。電車はやがて発車し、アカリはまた落ち着かないと懸命に外を見ていようとした。
だがそれも数分の事で、女性が話しかけてきた。
「私、キレイ?」
ギクッ、とアカリは寒気も同時に感じた。今、ハッキリと聞こえた、私キレイ? と……。
聞こえなかったなんて言い訳もできないとアカリは観念するかの様に振り返った。そろ~っと、警戒しながら、相手の顔を窺う。女性は立ち上がっていた。
「あなた、ツイてるわよ……」
は?
アカリは目が点になった。完全に動きが止まった。頭と耳がおかしくなったのかと自分にも相手にも確かめたい。女性は、手持ちの鞄から粉薬の袋を取り出す。「これを差し上げるわ……」加えて「お清めの砂、よ……」と説明した。
「いえあの、何なんですか」
怖くもなって怒りのように女性にぶつけた。構わず、女性がそれを前に出し、受け取れと小さな目で訴えている。「要りません、そんな、困ります」アカリは拒否したが、途端に女性が笑い出した。
「あはははは!」
電車が次の駅に停まろうとしている。そのアナウンスもアカリの耳を通過してしまって、笑う声だけが頭に残る。やめて、やめて、やめて! 聞きたくないと目を伏せた時に、女性がまた奇妙な行動に出る、袋をビリッと裂いて中の粉をアカリにまいたのであった。「きゃあぁ!」感触に悲鳴を上げた。
停まった。
プシューッとドアが開き、その音を聞いたアカリは即座に動いた。薄目でも、ドアが開いて駅に着いたんだと分かり急いでホームに飛び降りた。他に乗客はおらず、誰ともぶつかる事なく無事であった。幸いにも、アカリが降りた駅は乗り換える駅で、降りてすぐのホームの向かい、電車は待っていた。
ほとんど反射的に電車から電車へと乗り換えた訳だが、アカリは体についた砂(?)を叩いて落とし、消毒スプレーで全身を清める。気味が悪くて仕方がなかった。
(酷い目にあった……)
アカリは泣きそうになった。ただでさえ、バイトで疲れているというのに。来ない客を待ちながら、閉店まで眠気を我慢して。早く新型ウイルス騒動が終わればいいのに! マスクもガードも消毒も、面倒で、煩わしいったらない。誰がウイルスを持っているのか、私には? 家族には? 友人には? 仲間には?
伝染りたくないし、伝染したくもない!
頭の中を落ち着かせながら、席に座った。立っているのもしんどくなってきた。スマホを見れば、二十一時四分。早く帰りたい……目を閉じて、ゆらゆらと揺られながら、電車は疲れたアカリを運ぶ。さっき起こった事が全部夢であったかの様に、アカリの体は心地よく、意識を曖昧にしていく……。
アア、ツカレタ。
ツカレタネ。
翌日。昼から大学の講義、それから夜までアルバイト。昨日と同じで、だから朝はまた電車に乗って行かなくちゃ、とアカリはコンビニでパンと紅茶を買った後、いつもの駅から乗り込んで、人を避ける様に隅へ行く。パンは着いてからいつもの所で食べよう、あそこなら静かで、涼しくて、快適に一人で過ごせるから――アカリの視線は外で、窓からは工場や会社が流れて見えた。
三分位経って、飽きてくると、アカリはスマホを鞄から出して見始める。ウイルス感染者数、政府の対応、またはその見解、今後の対策、俳優の加藤さんが感染したと公表、磯の香りがする自転車……どうでもいいニュースがスクロール。その中、地元新聞で目に留まったのが、事故の記事である。
昨日にアカリが乗り換えた駅。夜の九時半頃、飛び込みによる自殺者がいたらしい。
驚いたアカリの背後で、笑い声がした。男子学生が数人、話で盛り上がっている様子である。
「出たらしいぜ、“クチサケ”さん」
クチサケ?
「本当に裂けているのか謎だけどな」
クチが、裂けて。
「兄貴がここで見た事あるって言っててさ」
「へー?」
「何でも赤いマスクをしてたとかで、砂かけられて」
赤いマスク、砂。
「砂かけババアじゃん」
「(笑)」
「何で砂?」
「ツイてるから、ウツスナ! って、叫びながらかけられたって」
「ヤバい奴だな」
「だな」
話は続く、どこまでも。
どこまで信じていいのか分からなかった。
アカリのスマホにメールが届く。見た事のない差出人から来たそれは、開けて後悔する事になる。
『あなたが落ちればよかったのにね?』
《END》
クチサケさんはいい奴だったという話。
いかん、このままでは「ダジャレ漫談」作家に進化してしまう。とうっ(変身)。
ご読了ありがとうございました。
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