夢よりも
「はぁぁ…」
アカリは今日何度目かわからないため息をついた。静かな家には、アカリのため息だけがやけに大きく響く。
普段は彼氏と一緒にこの家に住んでいる。ケンイチ、というのがアカリの彼氏の名前で、大学のサークルで出会って付き合いはじめたのが5年前。ケンイチより2歳下のアカリが社会人になった記念に、1年前からは同棲を始めた。
そして、今朝のケンイチとの喧嘩が、今アカリがこんなにも落ち込んでいる原因だった。ここ最近はケンイチの仕事が忙しく、長い間一緒に出かけられていなかった。ようやく予定が合ってウキウキとデートの計画をしていたところに、「仕事が入った」と言われたのだ。しかもこのようなことは、今回が初めてではなかったので、ほとんど我慢の限界に達していた。そういうわけで喧嘩になり、アカリは思わずケンイチに、出てって、と言ってしまったのだ。
もちろん、本当に出て行って欲しかったわけではない。いったんひとりにしてほしい、というようなニュアンスで言ったのだが、ケンイチは家から出て行ってしまったようなのだ。
時計に目をやる。午後十二時。いつもなら、もうとっくに家に帰ってきている時間だ。仕事が長引いているだけかもしれない、とアカリは自分に言い聞かせる。しかし、今朝のことを考えると、喧嘩自体には、どちらかと言えばケンイチに非があるのに、自分を責めずにはいられなかった。
あんな言い方しなきゃよかった…
ふぅ、っと今度は意図的にため息を吐いて、頭を勉強に切り替えようとする。仕事の関係上、プログラミングを勉強しなくてはならなくなり、最近は夜中の一時ごろまで勉強をしていた。おかげでかなり寝不足だ。
しかし、勉強を始めても、十五分もしないうちにアカリはまたケンイチのことを考え始めていた。
ここはどこなんだろう…?
アカリは気づくと、どこか知らない場所にいた。あたりは仄白い霧のようなものに覆われている。
「あ…ケンイチ…!」
そこにはケンイチがいた。笑顔で手まねきしている。
「ケンイチ、ごめん!ほんとにでてって欲しかったわけじゃないんだよ!」
ケンイチは無言で、笑ったままだ。アカリは怖くなる。
すると、ケンイチはアカリを抱きしめようと腕を伸ばしてきた。アカリもそれに応え、ケンイチを抱きしめ……られなかった。
腕の中からサラサラと消えていったのだ。
「え…」
ケンイチの身体に回したはずの両腕は、何にも触れることなく交わり、アカリはそのまま自分の身体をかき抱いた。うずくまり、すすり泣く。
アカリは自分の泣き声で目を覚ました。机に突っ伏していたようだ。
「寝ちゃってたか……ひどい夢…」
涙を拭い、寝室に行こうと立ち上がった時だった。
「アカリ」
目の前にはケンイチがいた。申し訳なさそうに笑う。
デジャヴ…と感じる余裕もなく、アカリはケンイチのもとに駆け寄る。
「ケンイチ!今度こそ夢じゃないよね…」
「え?うん、夢じゃないよ。ほんとにごめんな、俺が悪かったんだ」
「ううん、あたしも、出てけなんて言っちゃってごめん!本当に出ていったんじゃないかって、あたし心配で…」
ケンイチは苦笑し、頭を撫でてくれた。
「そうだよな、心配かけたな。実は今日、今週末に仕事しなくていいように、めっちゃ残業してきたんだ。連絡もしないで、悪かった」
「え、うそ…そんな…ほんとごめん!疲れたでしょ…?」
アカリは、やっぱり自分のせいだ、と再び心の中で自分を罵倒しはじめた。ところがケンイチは首を振り、照れたように笑った。
「大丈夫、日曜のデートのこと考えたら全然平気だった!あ、明日も残業してくるよ。今日よりは早く帰れると思うけど。」
ああ、あたしは幸せものだ。こんなにも自分のために頑張ってくれる人がいるんだ。
そう思うと、涙の乾きかけた頰に新たな涙が流れた。少し顔を上げると、ケンイチが慌てている。
「え、なんで泣いてんの?俺、またなんかまずいこと言った?」
「ふふっ…ばか」
「ええ?!なんでばか?!」
「そういうとこよ、ほんとにもう」
アカリとケンイチは見つめ合うと、同時に吹き出した。そしてひとしきり笑ったあと、ふたりはお互いを抱きしめ合った。夢のときのように、消えていくことはない。
「夢よりよっぽど現実の方が素敵だね」
「ん?」
「なんでもない!」
静かな家は、ふたりの幸せな気持ちで満ちていた。
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