争い渦巻く第六領域『ファーストプレイヤー:イオ・アガリス』4
さて、どうするべきか。
私は僅かに思い悩む。
正直な所、私がこの足跡を発見したのは、そろそろ諦めて帰ろうかと思っていた頃合いなのだ。
何せもうじき日が沈む。
まぁどの道、帰ってる最中に日は沈んでしまうのだけれど、私が魔術も併用しながら駆けたり跳んだりして全速力で山を下った場合、恐らくはソウや妙子が眠る前には屋敷に戻れる。
私がアガリスだと知ってるソウは、一日やそこら帰らずとも然して心配もしないだろうが、妙子はそうもいかないだろう。
夕飯が不要だとも告げてなかったし。
或いは吾賀里の領民達も、頼み事をした私が戻らねば、何があったのかと心配してしまうかも知れない。
しかし私がここで帰還して妖を放置した場合、一体何が起きるだろうか。
アルガラード領域、十州に出る妖と言う存在に関しての知識がない私には、その判断が難しい。
吾賀里の領民は、実際に妖が居ると確認してから領主であるソウに報告しようとしていた。
つまりこの問題をあまり大事だと捉えて居ないと言える。
だからそれに倣うならば、私は帰還してソウに見付けた足跡の話をするのが正しい筈だ。
でも万一、私がここで戻った場合に、何か取り返しのつかない事が起きてしまったら?
私は多分、その選択をずっと後悔する。
仮に何か大きな悪い出来事が進行していたとして、それを阻止出来るのがこのタイミングの私だけである可能性は、そう、万に一つ位はあるかも知れない。
勿論残りの九千九百九十九は単なる杞憂であろうけれども、そのたった一つが、決してないとは言い切れないから。
そんな風に考えてしまう程に、その足跡は得体が知れなくて不気味だったのだ。
故に私はその足跡を辿り、その先に居るだろう妖と相対する事を決めた。
だってもしも何か悪い事が起きた時、それが降りかかるのは私にじゃない。
私だったら、何が来ても切り抜けようと足掻くだろう。
切り抜けられればそれで善し。
それが叶わぬならば、私が未熟だったと諦めも付く。
しかし災いは吾賀里の領民か、妙子か、……もしかするとソウの身に対して降りかかるかも知れない。
吾賀里の領民は魚を、妙子は食事を、ソウには屋敷を宿として借りてる恩がある。
まぁ領民がくれた魚は領主であるソウに届けられた物で、妙子が食事を用意してくれるのは私がソウの客人だから。
ソウが私の世話をするのは、依頼人に頼まれてだ。
だからそのどれもが、私個人を好いてくれてるとか、そう言った理由で受けた親切ではないだろう。
だが私は魚を食べたし、毎度の食事に満足してるし、畳の部屋も布団も枕も気に入っている。
それを与えてくれる理由が何であれ、私がそれを享受して感謝の気持ちを持つ以上、彼等に恩を返さねばと思う。
足跡は山の上に向かったり、或いは急に下ってみたり、実に気儘に続いてる。
まるで迷子が彷徨っている風にも感じられるが、私はその足跡を辿るうちにその意図が少しわかった気がした。
多分この足跡の主は、水場を探しているのだろう。
それも山の上から吾賀里の領土へと、流れ込む水の源流を。
一体何の為に?
その理由はまだ不明だが、多分碌な事じゃない筈だ。
先程までは万に一つだった可能性が、五十か百位には増えただろうか。
自然と足は歩く速度を増して、やがて私は日が完全に沈み切る直前に、ソレに出会う。
ソレは丁度、目的地であろう水の源流に向かってあと数歩で辿り着く所だった。
その姿は、とても美しい女性だった。
裸身に僅かな草を巻き付けただけの、半裸とすら言えない位に煽情的な姿。
沈み掛けた日の光でも、はっきりとわかるほどにその白い肌は輝いている。
黒髪は長く豊かで、ちらりと見えた横顔の唇は朱く濡れて、凄絶な色気を放つ。
もしも私が男の性を選んでいたなら、或いは状況を忘れて魅了されたり欲情したりしたかも知れない。
それ程にその姿は美しい物だった。
しかし今の私は性に関して大して興味がないし、あんな格好で山中を歩けば草木や石で傷だらけになる筈なのに、血の一滴も流していない事の方を不気味に感じる。
そもそも既に私はそれを目にする前から完全に敵だと認識しているから、多少姿形が美しかろうが、その対応は一切変わりはしないのだ。
ソレを源流に辿り着かせてはならない。
その思いは、ソレを目の当たりにした瞬間からますます強くなり、私は制止や警告の声を発する事もなく背負った荷物を放り出し、引き絞った弓から矢を放つ。
そして放たれた矢は、狙い違わずソレの喉を貫いた。
仮にソレが人であったなら、間違いなく即死しただろう。
けれどもソレは、
「ぐげ?」
倒れる事すらなく、矢に貫かれた筈の喉から奇妙な声を発し、ぐりんとこちらを振り返る。
私はその時、既に二の矢を弓に番えて引き絞ろうとする所だった。
「ぐぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃ!」
美しい姿形からは想像も出来ない奇妙なその声は、そう、多分笑い声だったのだろう。
弓を引き絞る私を見付けたソレ、妖は笑い声を上げる。
勿論私は構わずに、次は真正面を向いたその豊かな胸、心の臓を狙って矢を放つ……、筈だったのだが。
急に私の視界はぐらりと揺れて、放った矢は狙いを外し、妖を掠めて飛んで行く。
「ぐぎゃぁ!」
更に妖は地を蹴って跳び、手指を揃えて、その長い爪で私を狙う。
不意の眩暈でまともに動けぬ私は、手の弓を捨てて、地を転がって逃げるしかない。
地を叩いた妖の手が、ドカンと音を立てて大きな穴を作ってる。
転がる勢いのままに立ち上がった私は、既に眩暈は収まっていた。
だが目の合った妖は、口を大きく開けており、そこから矢の様な勢いで舌が筒状に変形しながら伸びて来る。
試す気にもならないが、ご丁寧に返しの様な物も付いているし、もしアレが一度刺されば決して抜けず、私は妖に吸い尽されてしまうだろう。
私は大きく、何度も飛び退ってその攻撃から逃げ回る。
得体の知れぬ攻撃だ。
ギリギリで回避をするなんて余裕はない。
今は逃げながら少しでも相手を観察して、その手の内を知る必要があった。
一本しかない筈の舌がまるで雨の様に飛んで来るが、私はそれを掻い潜りながら距離を詰める。
舌の攻撃は鋭く早いが、開いた口を向けた方向にしか飛んでは来ない。
だったらギリギリまで肉薄した方が、あの手の攻撃は避け易いから。
近付いた私に、妖は舌を引っ込めて、大きく息を吸い込んだ。
また一つ、わかった事がある。
どうやら私に眩暈を起こさせたのはあの笑い声で、舌による攻撃と笑い声は併用が出来ない、或いは難しいのだろう。
だから舌による遠距離攻撃が行われていた間は眩暈が起きず、今は舌を引っ込めて、近付いて来た私を仕留める為に笑い声を発そうとしている。
でもそれがわかれば、私には笑い声の仕組みが何となくの想像が付く。
以前、常識では理解の出来ぬ現象の、およそ半分は魔力の仕業だと大魔術師は言っていた。
因みに残りの半分は、その時点での技術力、主に科学力では解析できない自然現象である。
例えば剣と魔法の世界ならば虹は不思議な物だけれど、依頼人がくれた知識によると虹は光が大気で屈折、反射して起きる現象だ。
勿論世界によっては、或いはこの融合した世界の領域によっては、虹が全くの別物である事もあるだろうけれど。
まぁさて置き、恐らく笑い声を発する瞬間を魔力視で見ればハッキリとするが、あの眩暈は笑い声に乗せられた魔力の波が、私の平衡感覚を乱して起きた物だろう。
あの眩暈の起き方は、直接作用型の魔術を掛けられた時に良く似てる。
つまりあの眩暈、笑い声に関しては、直接作用型の魔術への対抗手段がそのまま使用出来る筈。
即ち体内の魔力を強くして抵抗力を高め、平衡感覚への干渉を弾く。
またはあの笑い声が発せられると同時に私も魔力を放出し、魔力同士をぶつけ合って相殺、干渉して無害にしてしまえば良い。
故にあの笑い声による攻撃が怖いのは、不意打ちとなる初見のみで、今となっては別に恐れる程の事はなかった。
「ぐぎゃぎゃぐげぇっ?!」
妖が口を開けて笑い声を放った瞬間、それを無効化した私の蹴りが、その腹へと突き刺さる。
見た目はとても柔らかそうに見える妖の腹は、実は異常に硬くて、そしてミッチリと重い。
これなら、あんなに明瞭に足跡が残っていた事も頷けた。
しかし私もミルノーシェ領域に居た頃よりは弱体化したとは言え、それでもまだシステム力でC、英雄並の膂力を誇るのだ。
結局妖の身体は蹴りの威力に吹き飛び、地を転がる。




