84、決戦 前編
次の日の早朝。
私は大きく息を吸い込み、店から持ってきた四角い箱を抱きしめた。
中には浄化の効果が込められた特製ゼリーが入っている。
ライフォードさんと協議した結果、ハロルドさんの希望通り明日――今となっては今日なのだけど――攻め入る事となった。
ゼリーの出来には自信がある。
きっと上手くいく。いいえ、絶対に上手くやらなければいけないのだ。
バク、バク、と身体が震えるくらい高鳴る心臓。緊張を抑え込もうと、私はもう一度大きく息を吸った。
「君が作ったものだ。きっと大丈夫。俺も、微力ながら力になろう。ハロルドたちも何かあったらすぐ動けるようにと言ってある」
「はい、ありがとうございます。ジークフリードさん」
「ああ」
さらりと揺れる赤い髪から、赤褐色の瞳が優しげに細められる。
ジークフリードさんが隣にいる。それだけで、自然と心が落ち着いていくのだから不思議だ。
実動隊として私、梓さん、有栖ちゃん。そして私たちの護衛としてジークフリードさん、ライフォードさん、ダリウス王子の計六人が件の家の前に集合している。
本当はレストランテ・ハロルドから付添をお願いする予定だったのだが、昨晩、私の様子をうかがいに店まで来てくれたジークフリードさんが立候補した事で、なし崩しに彼に決まったのだ。
ハロルドさんは少し不服そうだったけど。「まぁ、僕がフリーっていうのも策としてはありだしね」としぶしぶ頷いていた。
どうせ珍しい症例だからこの目で見たかった、というのが本音だろう。
ただでさえ得体の知れない食堂メンバーが参戦するのに。これ以上、向こうに不信感を与える人間を増やせば、家に入れてもらえないかもしれない。
そう考えると、ノーマンさんの上司であるジークフリードさんが傍に居てくれるのは、これ以上なく心強かった。
ああ、そうだ。不服と言えば。
「なんでしょう?」
先ほどから不躾な視線を寄越してくるダリウス王子。
彼は居心地が悪そうに私の方をチラチラと見ては、ため息を零していた。ちょっと失礼じゃないでしょうか。
「お前が、来るとは思わなかった」
「本日は魔女の力をご所望と伺いましたが?」
「そう、だな。……ああ、その通りだ。……すまない」
彼はそっと私から視線を外すと俯いた。
リィンが働いているのはレストランテ・ハロルドだとバレている。少し、彼女が来る事を期待していたのかもしれない。
騙すような形になって本当にごめんなさい。リィンも魔女も、どっちも私。でも、リィンと魔女をイコールにするつもりはない。今回、呪詛を払うのに必要なのは魔女の力。ならば、私が出る以外に選択肢はないでしょう。
苦手意識は随分と薄らいだ。後はもう、気にしなければいいだけの事。
「リン、平気か?」
「ええ、もちろんです。心配させるような顔をしていましたか?」
「いいや、全く。護衛としては、少し寂しいがな」
ジークフリードさんは悪戯っぽく笑って、家の前で仁王立ちしているライフォードさんの隣に立った。
「さて、人目につかない早朝にしたのは良いのだが、まず奥方からの説得からだな。全く、二度目となると骨が折れそうだ」
「ライフォード、俺が行こう。この件に関しては全く役に立っていなかったからな。元上司の俺ならば話くらい聞いてくれるだろう」
「何を言っているんだ。私やアデルが動けなかった分、全てお前に負担がいっていただろう? ありがとう。そして、すまない。お前が交渉をしてくれるのなら、スムーズにいくかもしれない」
任せてくれ、とジークフリードさんは頷き、家の戸を叩いた。
さて、いつになったら部屋に入れてもらえるだろうか。
前回、家を訪問した時は本当に大変だったと聞いた。
家の中に挙げてもらうまで一時間、少女の部屋に入れてもらえるまで更に一時間、延々と母親を説き伏せたらしい。聖女と騎士団長の組み合わせと言えど、相手は罪人じゃない。強制的に押し入る事は不可能。当たり前といえば当たり前だ。
あのライフォードさんでさえ、それだけ時間がかかったのだ。さすがのジークフリードさんでも交渉は難航するだろうと予想していたのだが――。
「なんというか。驚くほどトントン拍子に話が進みましたね」
気付けば少女の部屋の前まで案内されていた。
さすがジークフリードさん。これが上官という信頼度と仁徳の成せる業か。
王子とライフォードさんが「納得はできるが、納得できない」「王子、落ち着いてください。まぁ、私も少し自信喪失です」と、二人してため息をついていた。
「良かった……んだよな?」
「勿論ですとも! お疲れ様です、ジークフリードさん」
「そう、だよな。うん。リン、気遣い感謝する」
時は金なり。スムーズに進むほうが良いに決まっている。
複雑そうな顔をしていたジークフリードさんも、私の言葉に安心したのか、照れくさそうに笑ってくれた。なぜこの世界にカメラはないのだろう。あったら連写機能を使って、コンマゼロ秒単位で記録しておくのに。
ではなくて。落ち着け私。欲望はご退場願おう。
とりあえず第一関門突破です。
問題はこの次。個々の能力はもちろん大事だけれども、ある程度の連携も必要となってくる。梓さんとなら大丈夫。でも、有栖ちゃんとは難しいだろう。周りの様子を確認しながら、私の方から合わせていく方が良いかもしれない。
「あの……」
ふいに服の裾をひっぱられる。誰だろう。
振り向くと有栖ちゃんの姿があった。
まるで叱られて反省している子犬のような表情だ。ふんわりとした茶髪に、とろりと蕩けてしまいそうな瞳。誰もが口を揃えて美少女だという可憐さはいつも通りなのだが、どこか元気がないように見えた。
「なんでしょう」
「私のためじゃないって事くらい分かってるけど、ちゃんと謝ってお礼いっときなさいって梓が言っていたから。ごめんなさい、色々嫌なこと言ったの謝る。だから、その……助けに来てくれて、ありがとうございます。最後まで、お願いします」
驚いた。
変わったのは王子だけじゃないのね。
多少話には聞いていたけれど、こうして目にするとやっぱり驚いてしまう。ただ、憔悴しきっているようにも見えるので、少し心配だ。
最初に出会った時より痩せている気もするし。この世界の料理はお世辞にも美味しくはないから、あまり食べていないのかな。
ああ、だったら。一つ良い案を思いついた。
「そうだなぁ、言葉だけっていうのも信用できないなぁ」
「うっ、……そ、そうよね。そうだよね。言葉だけの謝罪なんて」
近くにいる梓さんの眉が「あまり苛めすぎないでやってね」と言わんばかりに、八の字になる。
大丈夫ですよ。苛めるつもりはないので安心してください。
「実は私の店、よくない噂が流れていて、そこまで繁盛しているわけでもなんだよねぇ」
「わ、私、そんな噂は流してないよ!」
「あはは、分かってます。分かってます。それは身から出た錆みたいなものだから気にしてません。そうじゃなくて、ね。良かったら食べに来てくれると嬉しいなぁって」
彼女について思うことがない訳じゃない。しでかした事は、子供のいたずらなんて可愛いものじゃない事も理解している。
でも、ある程度の報いは受けていると思うし、きっとこれからも受け続けるだろう。
だから今私がやることは、追い詰めて罪悪感を植え付けることじゃないと考えた。
甘いかもしれない。
それでも私受けた実害はせいぜい暴言程度。今さらねちねち責めるのも大人げないでしょう。梓さんみたいに毎日嫌でも顔を付き合わせなくちゃいけなかったわけでもないし。
もちろん、彼女の行動で被害にあった人たちが何かアクションを起こすのなら、私は支持するだろう。でも、だからといって私が代理のように正義を振りかざすのは違うと思うのだ。
店の常連になってくれたら、動向を監視するという意味でも有用だしね。まさに一石二鳥だ。
受けた被害分くらいはビジバシ厳しく見守りますとも。ええ。
「お店ってレストランテ……えっと、ハンバーガーが美味しかったお店だよね?」
「へぇ? 美味しかったんだぁ」
意地悪そうに尋ねると、有栖ちゃんは大きなブラウンの瞳を限界まで見開いて「あ、いや、ちが……わないけどっ!」と震える声で頷いた。耳まで赤くなっている。素直になるのが恥ずかしい、みたいな感じなのかな。
うん。なんとなく梓さんが世話を焼いてしまう気持ちが分かったわ。
「お店で待っているから。約束だよ?」
「うん、約束する」
「ふふ。良かった。ちょっと元気になったみたいだね」
「え?」
「それじゃあ、皆で女の子を助けましょうか!」
私は有栖ちゃんの背をぽん、と叩いた。