76、タイムリミット
本日、レストランテ・ハロルドはお休みである。
定休日以外を休みにする事はとても稀なのだが、今朝ハロルドさんの一存で臨時休業が決まった。採算度外視の個人店だからこそなせる業だ。
もっとも、ハロルドさんが休みにしなくとも、私から休業を提案していたけれど。
梓さんが、あんなにも身体を張って呪詛に立ち向かっている。ならば、私だってただ指をくわえて見守っているわけにはいかないでしょう。
聖女の力などない私では、役に立たないかもしれない。それでも――苦しんでいる少女のため、私は私のできる事をしたい。
「ハロルドさん。何か解決の糸口、見つかりましたか?」
四人掛けテーブル席の上に、古びた本が山となって積まれている。
元はハロルドさんの自室にあったものだ。
彼は「こっちの方が広いから」と、それらを上から持って降りるなり、朝からずっと読みふけっている。
パッと見、ただの古い本。
しかし、王立図書館などで厳重に保管されていてもおかしくないレベルの文献資料らしく、いくら召喚者ボーナスで翻訳機能が付与されている私でも、全く読むことが出来ない代物である。
というか、何でそんなもの大量に所持しているんですか。
私は彼の邪魔にならないよう本の間を縫って、そっと紅茶を差し入れる。
「ありがと、リン。でも駄目だね。一度読み終わってるものばかりだから、新たな発見っていうのはそうそう見つかるものじゃないさ。やっぱ、マル君が頼りかなぁ」
ハロルドさんは手に持っていた本を閉じると、片手で目頭を揉み解し、もう片方の手で紅茶のカップを持ち上げた。
現在、マル君には少女の容体を確認しに行ってもらっている。
私たちが正面から面会を希望しても、素気無く断られるだけだろう。だからハロルドさんの提案でマル君一人に任せる事にした。もちろん、魔族の影移動でそろっと少女の部屋に侵入し、様子を見てきてもらうだけだ。
でもこれ、不法侵入よね。
駄目なやつですよね。
――本当は注意の一つくらい、しておくべきなのかもしれないけど。
私は状況と良心を天秤に掛けて、口をつぐむ事にした。仕方がない。今回はやむを得ない状況だ。正攻法ばかりにこだわって手遅れになりました、なんて許されない。
大丈夫。子供ではないもの。
正しいだけが最良の選択肢ではない事くらい、理解している。
「戻ったぞ」
椅子に座って紅茶を飲んでいるハロルドさんの影。そこからずるりとマル君が這い出てきた。
何度見ても慣れない光景だ。ホラー映画のワンシーンみたいで、ちょっと心臓に悪い。夜中だったら悲鳴を上げてしまいそうだ。
対してハロルドさんは既に見慣れているのか、視線すら寄越さずに「おかえりー」と気の抜けた返事をした。
「おかえりなさい、マル君。どうでした?」
「少し待て。まずは――」
彼は机の上に積まれている本の山を一瞥すると、はぁとため息をついてハロルドさんの頬っぺたを突っつき始めた。
「ちょ、痛っ、いひゃい! にゃにすっ、マル君!」
「誰が片付けると思っているんだお前」
「えー、手伝ってくれるんでしょ?」
何の悪びれもなく満面の笑みでマル君を指差すハロルドさん。断られる可能性を一切考慮に入れていない言い方だ。
もとよりマル君に頼る気満々だったわけですね。
片付けくらい、子供じゃないんだから自分で出来るでしょうに。
しかし、当のマル君はなぜか「仕方がないな」と呆れ顔で頷いたのだった。
何も仕方なくないと思うんですけど。
断らないんですか。
「貸しだからな。後で駄賃は請求するぞ」
「あはは、マル君のそう言うとこ好きだよー」
甘いぞマル君。ちょろいぞマル君。
この人――じゃなくて魔族様、尊大で俺様なくせに世話焼きなんだから。
何ですか。
貴方は駄目人間製造機か何かですか。
まったくもう。ハロルドさんは基本面倒くさがりだから、甘やかすのは厳禁なのに。お世話無しに生きていけない人になったらどうしてくれるんですか。
まぁ、頭が良くて騎士団長たちからも頼りにされる天才魔導師様な上、基本ちゃんとお礼の言える人だから甘やかし甲斐があるのは分かるけど。
私だって何度か折れてしまっているし。
蕩けるような金色の瞳で「してくれるよね?」などという視線を向けらたら、抗いがたいのだ。世話焼き属性のある人物には殊更効くのだろう。多分。
しかし。――しかし、である。
「あれ? どうしたのリン。怖い顔して」
「今回は私事ではありませんし、必要経費だと割り切って私も片付けくらいは手伝います。で、す、が! お世話になっている人が堕落している様を、ただ黙って見ているわけにはいきません。お二人にはこの件が終わったらお話があります」
私の言葉にハロルドさんは「堕落!?」と妙にショックを受けており、逆にマル君は「なるほど。俺の好みとはかけ離れているが、こういう堕落のさせ方も……」なんて真顔で何か納得していた。
堕落勝負でもしていたのかしら。
だとしたら、既にハロルドさんの完敗だと思う。
「ともかく。今は目の前の件が最優先です。ほら、とっとと隣のテーブルに移動ですよ。本だらけでは話も出来ませんし。マル君も。報告をお願いします」
私の剣幕に押された二人は、無言で頷き隣のテーブルに移動してくれた。
ちなみに、隣も四人掛けのテーブル席なのだが、二人とも私の横に座ろうというそぶりすら見せず、仲良く私の向かい側に腰を下ろした。
もう。失礼しちゃいますね。
「では、俺の見解を述べよう」
「お願いします」
マル君は咳払いを一つ零して口を開いた。
「基本は昨日言った通りだ。聖女にまで残り香が染みついた呪詛だからな。やはり相当浸潤していた。とは言え、最初の見立てでは二、三日が峠だと予想していたが、もう少しは持ちこたえられそうだ。恐らくは一週間」
「一週間……」
「聖女のおかげで思っていたよりは進行は抑えられている。ただ、あくまで抑えているだけだ。――いや、お前ら相手に濁しても仕方がないな」
彼の言葉にハロルドさんの眉間に皺がよる。既に察しはついているのか、ガリガリと頭を掻いて盛大な溜息を吐いた。
あまり良い報告ではなさそうだ。
「相手は随分慎重な奴だ。聖女から二度目の攻勢があると踏んで、迎撃の方に力を割いていると見た。急いで侵食を進めるより、もう一度聖女の力を弾いてから、確実に全身を蝕んでやろう、という魂胆だろう」
「うっわ。意地悪ぅい」
「本音は?」
赤い目が緩やかに細まり、ハロルドさんを捕らえた。
「……手強いね。例えるなら鉄壁の城塞に一週間で攻め入ろうって事でしょ? それも、こちらの手札はほぼ全て切り終わっていて、相手は対策済みときた。普通に考えたら無理でしょ。そんなの。いくら対処時間が伸びたところで、スズメの涙さ」
「そんなっ! だって、それじゃあ……」
少女が異形のモノへと飲み込まれていく様を、ただ見つめる事しか出来ない――声に乗せることが出来ず、私はぎゅっと唇を噛んだ。
「ハロルドの言う通りだ。正攻法で攻めるのは不可能。いくら同族とはいえ、契約を結んだ呪詛に手は出せん。俺やハロルドに出来るのは、せめて人である内に――」
「マル君」
ハロルドさんの手がマル君の口を塞ぐ。
言わなくても良い事だ。ハロルドさんが首を横に振った。
気を使ってくれているのだろう。
でも、私だって能天気な楽天家ではないから分かってしまった。いざとなったら、彼らは汚れ役を引き受けるつもりなのだ。
梓さんや有栖ちゃんは当然として、騎士団長であるライフォードさんやダリウス王子に任せるべき仕事でもない。
「気を使わないでください。私は魔女ですよ? 仲間外れは嫌です。ちゃんと、道連れにしてくださいね」
「――リン。……もう、君は馬鹿だなぁ」
「ハロルドさん程じゃないですよ」
「えぇ。こんな美形で頭良くって完璧な男捕まえて、馬鹿だっていうの?」
ハロルドさんは身体を乗り出して、私の頭をわしゃわしゃと撫でまわした。
困ったように眉を寄せ、それでもどこか嬉しそうに目を細める姿は父親のようであり、兄のようでもあった。
ああ、そっか。
こんな人だから、ついつい世話を焼いちゃうんだよね。
これじゃあマル君を怒れないや。
「さて、こんな湿っぽいのはやめやめ。最終手段なんて本当は考えない方が良い。だから、ここからは建設的な話をしよう」
「まだ何か助けられる方法があるんですか!?」
「言ったはずだよ、リン。正攻法じゃあ無理だとね。正面からの突破は諦めよう。だけどまだ、一つだけ可能性が残されている。外が無理なら内側からさ」
「内側?」
私は両手を自分の胸においてみた。
外側。つまり城門や城壁を人間に当てはめると、皮膚やそれに付随するものとなる。聖女の魔力を直接皮膚に触れて浄化するのは不可能。
ならば、内側から攻め入るその内側とは――私はハッとして唇に手を当て、周囲を見回す。
そうだ。内側ならばうちの専売特許ではないか。
「さすがリン。気づいたようだね。さぁて、レストランテ・ハロルド、腕の見せ所だ。やるぞぉ、お前たちー!」