72、来訪者
夜の帳が落ち、しばらく経った頃。
少し寒さが厳しくなってきたからか、日が暮れると同時に客足も鈍くなってくる。
もともと客入りの少ない店だ。店内に木霊するのは私とハロルドさん、マル君の声のみ。
今日はそろそろ締めようか、なんてため息交じりで相談し合っていた時、それは起こった。
「凛さぁぁあん……っ」
今にも倒れてしまいそうなくらいふらふらとした足取り。
掠れた声で私の名前を呼びながらレストランテ・ハロルドにやってきたのは黒の聖女――梓さんだった。
いつもならば絶対に頼らないであろうライフォードさんの肩を借り、席に着くなり倒れ伏した彼女に私は慌てて駆け寄る。
梓さんは強い人だ。
聖女パワーで大抵の魔物なら拳一本で吹き飛ばすし、騎士団長であろうが一国の王子であろうが物怖じせず自分の意見をズバズバ言ってのける。
つまるところ、物理的にも精神的にもタフな人なのだ。
それがあろうことか、ライフォードさんに寄りかかる形で入店してくるなんて。
梓さんにとってライフォードさんは、自らを護衛する騎士団長として信頼はしているものの、弱みを見せたくない人物代表。
一体何があったというのだろう。
ただ事ではないはず。
「どうしたんですか、梓さん! 大丈夫ですか!?」
「りん、さんっ……!」
「ぅえっ!? あああの!」
梓さんは駆け寄ってきた私の腰をがっちり掴むと、そのまま引き寄せ、思い切り抱きついてきた。そして私のお腹辺りに頬を擦り付け、「癒されるぅ」と呆けた声を漏らす。
困った。くすぐったい。
「私はどうしたら……!」
引き離すこともできず立ち尽くす私に、梓さんの後ろで控えていたライフォードさんが小さく頭を下げた。
「申し訳ございません、リン。聖女様も気をしっかりお持ちください。お気持ちは分かりますが、リンが困っています」
「やだ。連れて帰るの」
「無関係の方に我が儘を言わないでください」
いやいや、ちょっと待ってほしい。連れて帰るって何ですか。私はペットか何かですか。
まずはそっちにツッコんでほしかったです、ライフォードさん。
それにしても珍しい。
ライフォードさんの対応がいつもより何倍も甘い気がする。通常なら「聖女たるもの皆の手本とならねば」とかなんとか、お叱りが飛んできそうなものなのに。
「事情は後でお話ししますので、まずはこれを」
「はい。えっと、……え? メニュー?」
恭しく手渡されたものはレストランテ・ハロルドのメニュー表。
未だ私を掴んで離そうとしない梓さんの身体を、ライフォードさんは丁寧に引き剥してふぅと一息ついた。
「急ぎで何点かお願いいたします。出来れば体力回復の効力が大きいものを」
「何でも良いのですか?」
「ええ、リンにお任せいたします」
不思議そうに首を傾げる私に、彼は美しいコバルトブルーの瞳を細めて困ったように笑った。その表情に自嘲の色が見え隠れする。
いつもと様子の違う二人。
気にはなるが、料理番として注文が入ったのなら、優先すべき事項は決まっている。
今は、事情は後で話すと言ったライフォードさんの言葉を信じよう。
「わかりました。では――」
「はい! それじゃあリンとマル君は急いで厨房に。僕もすぐに手伝いに入るから、それまでお願いね」
いつに間に立っていたのか。
背後から聞こえてきたハロルドさんの声に、振り向こうと首をひねる。
しかし、彼の顔を視界に捕らえるよりも早く腕を掴まれ、私の身体は丁度イスから立ち上がったばかりだったマル君の方へと投げ出された。
気付けば、マル君に後ろから抱きしめられる形でキャッチされている私。
なんなの。ペット扱いの次はバトンか何かなの。
さすがの私だって、文句の一つくらい言いたくなります。
「ちょっと、ハロルドさん?」
「大丈夫だって。サボろうとしているんじゃないから。僕はただ――」
ピリ、と空気が張りつめた気がした。
ゆっくりと口角が持ちあがり、笑みの形になる。
「お前に聞きたい事があるんだよ、ライフォード」
いつもはふにゃふにゃと気の抜けた笑みを浮かべているハロルドさんだが、今回のは違う気がした。目が笑っていない。
魔族であるマル君が認めるくらい頭のいい人だから、私なんかが正確に感情を読み取ることは出来ないけれど。ただ、瞳の中の光が、すっと冷めた気がしたのだ。
嫌だな。
私があの目を向けられたら、耐えられなくて逃げ出してしまうかもしれない。
「……そう、でしょうね」
あのライフォードさんですら真正面から受け止めきれず、ふいと顔を逸らした。
「お前がついていながら何? どういうことなの?」
「分かっています。この件は私の落ち度。このような事態になって申し訳ないと――」
「やめなさい」
梓さんの声が遮る。
彼女はライフォードさんを庇うように、彼とハロルドさんの間に手を差し入れて、ふるふると首を横に振った。
「これはあたしの選択。あたしの意志。勝手に背負おうとしないで。子供じゃあるまいし、自分のミスを他人に押し付けたりなんてしないわ」
「へぇ。カッコいいねぇ、聖女様」
同感だ。
この場面で、この二人相手に啖呵を切れるなんて。さすが梓さんである。
ただ、伸ばした彼女の腕は少し震えている気がした。息も、最初よりだいぶ荒くなっている。
もしかして、事態は私が考えているより深刻なのかもしれない。梓さんの体調だって、ちょっと疲れた程度ではないのかも。
でも、それならまずお城で薬を飲むとか、お医者様に見てもらう方が先よね。
料理の効果でどうにかなるという判断だったとしても、相手は聖女様。デリバリーがあるのだから、わざわざ店に連れてこなくても良い。
今回は特例?
何か店でないといけない理由があるのかしら。
「よくわからないけど、急いだほうがよさそうですね。マル君」
「良い判断だ」
私は未だ支えてくれているマル君の手を取り、厨房へと足を向ける。「あ、そうだ。さっきはナイスキャッチありがとうございました」と、忘れていたお礼を述べれば、マル君は珍しく裏の無さそうな笑みでよしよしと頭を撫でてきた。
ペット、バトンときて最後は子ども扱いかぁ。
上の二つに比べれば幾分かましな気がするのだから、慣れって悲しいものだ。
「それじゃあ、あたしはゆっくり待たせてもらうわね」
「ったく、君たちの世界の女性ってみんなこうなの? リンもだけど。君も強いよね。色んな意味で。ライフォードが振り回されるわけだ。うんうん。でもさぁ」
やせ我慢は良くないかな、と付け加え、ハロルドさんは梓さんの背後に回る。そして軽い力で彼女の背を押した。
本当に触れるだけ。たったそれだけ。
たんぽぽの綿毛すら飛ばせなさそうな力だったというのに、梓さんの身体はいとも容易くテーブルの上にぺったりと倒れ伏した。
「――もう、いやね。いじわる。……意地くらい張らせてよ」
「ごめんねー。僕そう言うのよく分かんないから。甘えられるときに甘えておいた方が得じゃない?」
テーブルに投げ出されていた梓さんの手に、自分の手を乗せるハロルドさん。すると、彼の手から淡い光が溢れだす。
「ん。あったかい」
「聖女の魔力はちょっと特殊だから、こんなの気休めにしかならないけど。まぁ、料理が出来るまでの繋ぎくらいにはなるかな」
「ごめん、なさい。あたし、ちょっと……」
「うん。しばらくお休み。食べる気力も湧かなきゃ意味ないしね」
温かくて優しい声。ハロルドさんの声に誘われるように、梓さんはゆっくりと目を閉じた。
ほんと、いつもこうなら頼れる店長様なんだけど。――って、今はそんな事どうだって良い。
梓さんのあの状態。ライフォードさんの言葉。いつになく真剣なハロルドさん。そして、料理の効果。
全てが導き出す答えは――。
「まったく。ギリギリだというのに、気力で持ちこたえていたのならば大したものだ。ほら、指示をくれ、ご主人様。お前の命に従おう」
「ええ。準備はもう終わっています」
梓さんの様子を窺いながらも、手だけはちゃんと動かしていた。レストランテ・ハロルドの料理番ですもの。注文が入ったのなら全力を出す。
そんなの、当たり前でしょう。
「それじゃあマル君、超特急でいきますよ!」