幕間「白の聖女の後悔と懺悔」前編
白の聖女、伏見有栖は最近とても気分が良かった。
彼女は漆黒色の石を首からネックレスのように下げ、降り注ぐ太陽を一身に浴びながら気持ちよく外を歩いている。外、と言っても王宮内なのだが。
ちょろいものだ。
自分がおねだりすれば、人は容易く動く。この石が良い例だ。
ある人に嫌な事があったと伝えたら、この石を差し出された。どうやら願い事の叶う石らしい。有栖はそれに「自分にとっての邪魔者が不幸になりますように」と願った。
そうしたらどうだ。
すぐに第三騎士団で例の事件が起きたのだ。
願いの叶う石なんて都合の良い代物、存在するのだろうか――半信半疑だったが、効果は上々である。もしかすると聖女の力というやつが上手く働いたのかもしれない。
まぁ、どちらにせよ、願いは叶った。
有栖はその石を握りしめ、ほくそ笑んだ。
「なんか大変だったって事くらいしか知らないけど、地味な嫌がらせ程度はあったのかな? ふふっ、天は私に味方するものなのよ。いい気味! ――あ。あの人たちって確か……丁度いいわ!」
目の前に見えるのは、第三騎士団の団員だ。
一人は副団長のはず。残りの二人は記憶にないが、三人とも顔色が良くない。
彼女は彼らの会話を聞いてやろうと、近くにあった茂みにこっそりと隠れて耳をそばだてる。溜飲の下がる話題が聞けると思って。
しかし、彼女は後悔した。
何も知らなければ幸せだったのに――と。
「どういうこと。どういうことなのよ!」
彼らに気付かれぬよう茂みから抜け出し、周囲に誰もいない事を確認してから王宮の壁を蹴っ飛ばした。
「小さい子? 病? なにそれ。なんなのよ。私はそんなの願ってない!」
石に願った時は、ただただ軽い気持ちだった。つまずいて転べばいいとか、上から鳥の糞が落ちてくればいいとか、そんな、とりとめのない小さな不幸を願っていただけだ。
それなのになぜ無関係な少女が犠牲になる、という話になるのか。
そんな事、許されていいはずがない。
「ううん。違う、違う。そんなの、私が関係しているかわからないじゃない。石なんて、ただの石でしょ。こんなの!」
有栖は首にかけていた石を両手で摘まみ、ぐっと力を込める。
まるで深淵を覗くかのような、深い黒。心の中に不安が溜まっていく。気持ちが悪い。何も考えず身に着けていたが、疑念を持って目を向けると、どうしようもない不気味さがこの石からは漂っていた。
視線を感じる。
まるで、石に監視されているかのようだ。このままずっと見つめ続けていたら、ふと目玉が浮かんできそうな気がして、有栖は視線を逸らした。
「確認、しなきゃ……」
あの団員たちの話が真実とは限らない。
ふらふらとした足取りで、城壁の傍まで歩み寄る。
有栖の聖魔法は能力を強化する事。
それは、自らに掛ける事も可能だった。もっとも、戦力の低い自分を強化するより、元々戦力の高い他人を強化した方が遥かに有利なため、使う機会は滅多になかったが。
「黒の聖女様じゃないんだけど……」
門番に見つかるとややこしい事になる。
彼女は自らの足に強化魔法を施し、周囲の木々を上手く使いながら城門を飛び越えた。
* * * * * * *
「お願いです! 中に入れてください!」
目的地まではすんなり辿り着けた。
この辺りで病に臥せっている娘さんがいるご家庭をご存じないですか、と聞いて回ればすぐに見つかったのだ。城下でもかなり噂にはなっているらしい。
有栖は脳内までうるさく響いてくる心臓を服の上から叩き、意を決してドアを叩いた。
しかし――。
「ごめんなさい。娘の容体はとても悪くて、会わせられる状態ではないんです。お帰りください」
「いいえ、いいえ! 私は王宮からやってきました。きっと、きっと私ならなんとか出来る! だから、様子だけでも!」
奥さんの様子は酷いものだった。
食事もろくにとっていないのか、風が吹いたら飛ばされてしまいそうなほどやせ細っている。目には深い隈が刻まれ、唇はカサカサに乾いていた。
有栖は聖女だ。
本当に病ならばダリウスにどうにかして良い医者と薬を用意させればいい。もし魔法か何かの類なら、聖女である自分ならきっとなんとか出来る。
だって聖女だもの。聖女とは、そういうものでしょう。有栖はそう考え、必死に食らいついた。
「分かりました。そこまでおっしゃるなら」
そしてついに奥さんの方が根負けした。
ドアを全て開き、有栖を中へ迎える。心なしか、家中が薄暗い気がした。
「こちらが娘の部屋です。どうか驚かないでくださいね。それと、この事はご内密に」
小さくお辞儀をして去っていく母親の姿を、やるせない気持ちで見送る。確かに自分は王宮からきたと言った。しかしそれを全て信じ、病気の子供の傍に一人で向かわせるだろうか。普通は付き添うだろう。親ならば。
「なによ。病気なんでしょ。親なのに……」
有栖はむっと唇を尖らせたが、すぐに本来の目的を思い出し、ドアノブに手を掛けた。ゆっくりと、驚かせないよう静かに開く。
「だれ? おいしゃさん?」
透き通るほどに涼やかな少女の声が響く。ただ、やはり体調が良くないのか、少し苦しそうだ。
高価なもので溢れている有栖の部屋とは違って、さすがに簡素な様子だったが、小物や布団の柄などは少女の部屋らしく可愛らしさがあった。
壁にぴったりくっついているベッド。
布団の盛り上がりから、少女はそこに寝ていると分かり、有栖は部屋の中へ足を踏み入れる。
「えっと、こんにちは……」
「はいってこないほうがいいよ。うつっちゃうかもしれないから」
「いえ、病気くらいどうって事――ッ、え……」
呆然とした声が漏れた。
有栖はその場にへたり込み、信じられないとばかりに首を小さく横に振った。いや、信じられないのではない。信じたくなかったのだ。
「どう、して……」
一目見ただけで分かった。
これは病などではない。
そんなものより、もっと、ずっと、おぞましい何かだ。
「ごめんなさい。こわいよね」
少女は寝ころんだまま、力なく笑った。
全身が黒だった。
手も、首も、布から露出している肌の部分は、顔の正面だけを残して全て黒に染まっていた。きっと、あの布団を退けたら足の先までそうなっているのだろう、と簡単に想像がついた。
黒――有栖が首にかけている石と同じ、どこまでも深い、深い、闇の色。
「あ……ああ……ああっ!」
確証はない。
でも分かってしまった。
――これはきっと、私のせいだ。
ずるずると床を這うように少女へと近づき、黒く染まった小さな手を握りしめた。
六歳か、七歳くらいの小さな少女。
彼女は困惑した顔で有栖を見つめ「ばいばいしたほうがいいよ。ほんとうにうつっちゃうかもしれないから」と寂しそうに言った。
「おかあさんも、さいきん、あまりそばにいてくれなくて。きっと、おいしゃさまにいわれたんだよ。うつっちゃうって。だから、……えっと、えっと、ごめんなさい。わたし、もうあまりみえなくて。おねえさん? だよね?」
少女の言葉に、有栖の目から涙が零れた。