8、実食
「ふぅ、少し急ぎ過ぎたか」
焼けた夕空よりもなお赤い髪が、首筋に張り付いている。じっとりと肌からしみ出る汗。ジークフリードさんは、手の甲で顎にたまった雫をぬぐった。
色気が半端ない。何度でも言おう。色気が、半端ない。息が止まるかと思った。
私はジークフリードさんの元へ駆け寄り、上着とマントを受け取る。精神衛生上直視は出来ないから、「ありがとう」の台詞を背中で受け止めた。上司の接待に慣れた体は、勝手に動いてしまうのだ。
入り口近くに置いてあるハンガーラックに洋服を掛けた後、元の位置に戻る。私に続いて、ジークフリードさんも椅子に座った。
「もう板についているな。驚いた」
「そんな、これくらい普通ですよ。でも、ありがとうございます」
「相変わらず謙虚だな。ああ、そうだ。良い知らせだ。王にかけあって、リンが当面困らないだけの額は用意させた。明日くらいには届くと思うが……」
ちらり、とジークフリードさんの視線がハンバーグに注がれる。
昼間――いくらハロルドさん製とはいえ――ハンバーグを口にしたのだ。連続で食べるのは厳しいかな、と思っていたのだけれど。
「まだ余っているので、よければどうですか? 私が味付けや材料の調整を担当したので、お口に合うかどうか分かりませんが……」
「いいのか?」
「私のために身を砕いてくださったんですから。少しでもお礼になれば嬉しいです」
「ありがとう、リ――」
言い切る直前、ジークフリードさんの前にハンバーグの乗った皿が置かれる。ハロルドさんだ。「そうなると思って準備済みだよ」言ってから、彼はぱちりと片目を閉じる。
すみません、ジークフリードさん。あれは実験用の来訪者を喜んでいる顔です。昂る気持ちが滲み出ています。もう少し隠してください店長。
長年の付き合いであるジークフリードさんは、諦めたように笑っていた。
「さぁ、食べようじゃないか。冷めちゃったらもったいないしね」
ハロルドさんの前にジークフリードさん。そしてその隣に私。四角いテーブルを囲って、銘々が自分のタイミングで食事をとりはじめる。
手を合わせて、まずは一口。
大きめに切ったハンバーグを口に入れる。最初に口に広がったのはトマトの酸味。炒めた玉ねぎの香ばしさと、頬がきゅっと窄まるような酸っぱさが同時に押し寄せてくる。
ソースを舌の上で堪能した後、奥歯で肉を噛みしめる。じゅわりと広がる肉汁。甘い、溢れるうまみが口内全てに行きわたる。
はふ、と唇から熱い息が漏れた。
ああ、生きているって気分だわ。美味しい食べ物は心の栄養。その言葉を今噛みしめる。
二人はどうだろう。ちらりと様子を見る。
目の前のハロルドさんは、止まらないとばかりに次々とハンバーグを口に運んでは、はぁと幸せそうなため息をついていた。良かった。味覚が違ったらどうしようかと思っていたけれど、不評ではないみたい。
ジークフリードさんは大丈夫かしら――視線を移す。
普段はきりっと引き締まった瞳がとろりと解けて、口元にはうっすらと笑みが浮かんでいる。桜色に染まる頬。見てはいけないものを見てしまった気分だわ。
私は急いで自分のお皿に視線を戻すと、残りを食べ始めた。
「……はぁ、美味しいな」
「味の重要性かぁ。効果ばかりに目がいっていたけど、無視できない要素になりそうだ。でも――」
ハロルドさんは思案するように小さく頷いて、人差し指を空に掲げた。まるでオーケストラの指揮者のように指先で文字を綴っていく。
何かの言葉だろうか。宙に描かれているから分からないのではない。純粋に、私の知識の中に該当する文字が存在しなかったのだ。
「これくらいかな」ハロルドさんが呟く。すると突如、ジークフリードさんの手が爆炎を上げて燃え盛った。ナイフが地面に落ち、金属特有の金切り音が上がる。
「うおっ!?」
「きゃあああああ!? じ、ジークフリードさんの手が! 手がっ!?」
あの厚みがあって温かくて優しい手が燃えている!
私は完全にパニックに陥っていた。なりふり構わず体を乗り出し、ハロルドさんの胸倉を掴む。そして店長だという事も忘れて思い切り振り回した。
「何を!! 何て事をしてくれちゃっているんですかあなたはぁああ!!」
「火傷防止の料理を作ったんだよ? どれくらい効果があるか実験しないと。ああ、火傷しちゃってもすぐ僕が治すから大丈夫大丈夫。僕レベルになると跡も残らないから」
「そういう問題じゃなくて! ああもう、はやく消さないと! 水、水を! わっ!」
水がある場所は台所。急がなくては。――しかし慌てて動いたのが悪かったのか、私は椅子の脚にぶつかってバランスを崩してしまう。ああ、絶対痛い。覚悟して目をつぶったが、地面にダイブする前にジークフリードさんが受け止めてくれた。
情けない。助けようと思ったら逆に助けられてしまった。
「ああの、私、手が燃えて……だから水を!」
「大丈夫だ、リン。落ち着け」
「で、でも……!」
「ほら。大丈夫だから」
まるでハエでも払うかのように、ジークフリードさんは手首を振った。するとどうだ。あれだけ燃え盛っていた炎は揺らぎ、空気に溶けるように掻き消えた。不思議な事に、彼の皮膚は全くダメージを受けていないようだった。
「なるほど。今回の研究は火傷防止の料理か。いくらハロルドとは言え、料理に付随する程度の火傷防止に、本気など出すまい」
「慣れ過ぎてませんか……?」
あまりにも冷静沈着。一体、ジークフリードさんはどれほど彼の被害に遭っているのか。懐、広すぎでしょうに。涙が出そうよ。
私は力が抜けて、地面にへたり込んだ。
* * * * * * *
「さて、外も暗くなってくるころだ。宿まで送ろう。リン、どこに宿を取っているんだ?」
「宿……?」
異世界に召喚され、王宮ですったもんだを繰り広げた後、食堂へ。その後市場に赴き、薬屋を視察して、ハンバーグを作り、実食。思えば忙しい一日だった。宿屋を探す時間はなく、そもそも宿を取らなければ、という考えすら浮かばなかった。
「どうしよう……忘れていました……」
「寝るところがないの? だったら家にいるといいよ。二階が家になっていてね、一部屋空きがあるからさ。鍵もかかるし、問題ないでしょ」
ハロルドさんからの提案だ。
家が二階にあるのならば、実質通勤時間ゼロ分。ギリギリまで寝ていられる。日々の睡眠など気休めと言わんばかりに、疲れの抜けきらぬ体に鞭を打って、満員電車で押し潰されながら職場に通わなくても良いのだ。それだけで例え上司がアレだとしても、随分とホワイトな気持ちになるのだから社畜とは罪深い生き物である。
物凄く魅力的なお誘いに頷こうとしたその時。ジークフリードさんから待ったがかかった。
「待て。問題ないわけないだろうが。大有りだ、大有り」
「え、でもちゃんと鍵かかるよ?」
「鍵の問題ではない。リンもリンだ。もう少し自覚を持つべきだぞ」
困った。私にまで矛先が向いてしまった。
「でも、今から宿を探すのですか?」
「確かに、王都だからな。少し難しいかもしれんか……。分かった。今回は譲歩して、俺もここに泊まろう。君の警護も出来て一石二鳥だ」
「えええ!?」
待ってください。ジークフリードさんが一緒にいる方が危ないのですが。主に心臓が。
今から宿を探すのは大変だし、何より当面の生活費が届くのは明日だ。ジークフリードさんだって王宮に戻った方が良い。相手は研究バカのハロルドさんだし、鍵もかかるから問題は無い。一つ屋根の下というのなら宿屋にだって男性はいる。鍵があるなら一緒でしょう。――と、私は彼の説得を試みた。
しかし何度言葉を重ねても、ジークフリードさんは首を縦に振らなかった。く、この人意外と頑固だわ。
そして私は忘れていた。彼が恐ろしいほど弁が立つという事に。逆にあれよあれよと言いくるめられ、本日、ハロルドさん宅にジークフリードさんがお泊りする事が決定したのだった。