64、王子の変化
私には弟はいなかったけれど、妹はいた。
何かに怯えるように身体を折りたたみ、歯を食いしばって耐えているダリウス王子を見ていると、姉としての保護欲というか、年長者としての義務みたいなものが刺激される。
私は彼の背中をさすり、努めて穏やかに声をかけた。
「話、ちゃんと聞きますから」
「――ッ、だから、そういうのが……!」
こちらを向いたダリウス王子の瞳には、涙が溜まっていた。あと一息でも何か刺激があれば、零れ落ちてしまいそうである。
別に、プライドをズタズタに切り裂きたいわけでは無い。
私は、彼が落ち着くまで無言で背中をさすり続けた。
「……僕は」
どれくらい時間が過ぎただろうか。
数分かもしれないし、十分くらい経っていたかもしれない。
しばらくして、王子はごしごしと手の甲で目を擦った。真っ赤になった瞳は、ぼんやりと目の前にある花――リリウムブランを見つめている。
「僕は第一王子だとなっているが、僕の前に兄がいたらしい」
ぽつりと、虚空にでも語りかけるように王子が口を開く。
「物心ついた時にはもう、亡くなっていたけどな。彼はとても優秀だったらしく、僕はいつも比較されてきた……」
私は背に沿えていた手を離し、地面に置く。
王子という立場が背負う、期待と責任。彼の小さな両肩に乗ったプレッシャーが、今さらながらにどれほど大きなものだったか分かり、私は息を飲んだ。
人は、死者を美化する。
想い出は綺麗なもの。だから、記憶に残った優秀な王子の面影は、きっとどうあがいても、どんなに努力しても、人々から消える事はなかったはずだ。それと比較され続ける毎日は、私なんかでは想像も出来ないほど苦しかっただろう。
子供なら、尚更。
そう考えると、卑屈になって何もかも投げ捨ててしまわなかっただけ、ある意味凄いのかもしれない。彼も彼なりに、責任感の強い性格なのだろう。
「父上の……王の言われた通りに動いているはずなのに、何もかもうまくいかない。聖女は庇護すべき存在だと、ランバートン公爵家にとられる前に、こちらで囲えと。そう、言われていたから……僕は……父上の期待に応えられるよう、頑張っているはずなのに……ッ!」
大きすぎる期待は、時に重圧を生む。
この子は、少しずつ、少しずつ、周囲からの期待が薄れていく姿を、何を思いながら見ていたのだろう。
偉そうな態度も、周囲の意見を取り入れない頑固さも、弱みを見せられないからこその、精一杯の虚勢だったのかもしれない。
私は気付かれぬよう、そっとため息をつく。
――必死、だったのね。多分。
ただ、王の期待に応えようという気持ちが大きすぎて、自分の意見を持てない状況にある気がした。
必死に言いつけを守る、お飾りのからくり人形みたいに。
「最近では、その白の聖女すら僕とは会いたくないと言う。おかげで、もう何日も彼女には会っていない。放っておけという事か? 何なんだ。一体、僕にどうしろというんだ! 何も。何も、間違えていないはずなのに!」
「王子」
「なぁ、僕は間違っていないよな?」
地面に置いた手を、まるで助けを請うかのように握りしめられる。
話を聞くと言ったのは私だ。
この手を振りほどくわけにはいかない。いや、出来るはずがない。
「ダリウス王子、一つご質問です。慰めが必要ですか? それとも、意見が必要ですか?」
「――馬鹿にするな。慰めなどに意味はない」
「分かりました」
こんな事を言える立場ではないのは分かっている。でも――求められたからには本音を話そう。
私は一つ深呼吸をした。
「では、もし王がいなくなったら、貴方はどうするのですか?」
「何?」
「王が言ったから、王の命令だから。そうやって誰かの言葉がないと行動できなくなっていませんか? 人に従うのは楽です。何があっても責任は相手にあるんだから。自分は悪くないって、正当化できるでしょう?」
「そ、んな……事……」
間違っていない。貴方は間違っていないと、私に言ってほしかったのかもしれない。でも、そんなただ甘いだけの言葉を吐いたところで、一時の慰めにしかならない。
王子は慰めならいらないと言った。
ならば――、少しキツイ言い方になってしまうが、少しでも建設的な意見を述べる事にする。
「もっと、自分で考えて行動しても良いんじゃないですか? だって、あなたは王じゃない。たった一人のダリウス様、なんでしょう?」
王子ではなく、あえてダリウス様と言ってみる。
彼は最初、驚いたように目を瞬かせたが、ややあって、顔を赤らめながら瞳を伏せた。
「い、いきなりそんな事を言われても」
「難しいと思います。だから、ゆっくりでいいんじゃないですか? あなたが変わろうと考えたのなら、まずそう考えられた事が、凄い事だと思います。変化って思っている以上に怖い事ですもん」
「すご……い?」
「はい。凄いです!」
大袈裟かもしれないが、未だ握られたままの手を握り返し、もう片方の手でぐっと握り拳をつくって顔の近くに掲げる。いわゆるガッツポーズだ。
「お前は乗せるのが上手いな」
「残念ながら、褒めても何も出ませんよ?」
「褒美なら既に……色々貰った気がする」
王子は繋いでいた手を持ち上げ、慈しむように自分の額にくっつける。麗らかな春の日を思い起こさせる、優しげな笑顔がそこにはあった。
良かった。少しでも気が晴れたのなら幸いだ。
不敬だ何だと騒がれたら、ガルラ様を連れて逃げ出し、変装を解いて誤魔化そうと思っていたが、何事もないのならそれに越した事はない。
ダリウス王子は私をじっと見つめると、意地悪そうに微笑んで手をパッと離した。
「他には?」
「へ?」
「他に言いたい事は? この際だ、全て聞かせろ」
「あー……えっと、そうですねぇ。うーん、いくら白の聖女様との関係が悪化しているからと言って、一度手を取ったのなら手を離すべきではないと思います。たとえ、嫌われていたとしても。それが、召喚した者の責任でしょう?」
癪だけれど、白の聖女についても一つフォローを入れておく。
白の聖女に良い感情は一ミリもない。
だが、子供相手にいつまでも憤慨していては大人気ないと言うもの。この世界において彼女が子供と認識されているのかどうかは怪しい。なら、大人として少しは気にかけておくべきなのだろう。
本当に癪だけれど。
「なかなか言いたい事を言ってくれるな」
「黒の聖女様と違って、彼女はまだ子供ですし」
「子供? ああ、いや、そうか。……そうなのか」
ダリウス王子は神妙な表情で頷き、私の傍に置いてあったハンバーガーの入ったバスケットを自分の元に手繰り寄せた。
「王子? それはさっき食べないとおっしゃっていたものですが?」
「そうだ。ここで毒が入っていたら、お前は僕を甘言で惑わした悪女という事になる。お前の意見は聞き入れられない。だが、普通に食べられる物だった場合、一考の価値はあるかもしれないという事だ」
ダリウス王子なりのけじめなのかもしれない。
ただの平民、それも初めて出会った料理屋の言葉を、すんなりと受け入れるわけにはいかないのだろう。
本心から、彼のためを思って言っているのか。――それを、見極めるための儀式みたいなもの。
答えは多分、もう決まっている。
「私では意味がないかもしれませんが、毒見しましょうか?」
「良い。下手な毒では死なない身体だ。これでも王族なので、対策は練ってある」
すごい、などと感心している間に、ダリウス王子はバスケットの中を覗き込み、手を入れたり抜いたりしている。
この世界にハンバーガーは無い。しかも王子は名前の通り王族だ。手で掴んで食べるという発想がないのだろう。
「素手で大丈夫ですよ。紙が巻いてありますので、手が汚れないようそれを掴んで、かぶっと」
「が、がぶっと……?」
王子は恐る恐るハンバーガーを取り出すと、口にかからないよう紙を剥ぎ取り、ちらりと私を見る。なので「サンドイッチだと思ってください」と声をかけた。
マナー的に大口を開けて食べるのははばかられるのかな。
梓さんのためにと作ったものだから、王族の方々用には調整していない。ダリウス王子は周囲を見渡し「どうせお前しかいないもんな」と呆れたように声を出す。
そして大きく口を開け、ぱくりと噛みついた。
瞬間、じわりと肉汁が広がったのだろう。王子は瞬きをしながら、一噛み、一噛みと味わうように咀嚼していく。
パンとパテ、特製ソースにシャキシャキのレタス。全てが上手く絡み合って、雪崩のように舌を刺激する。
暫く味わった後、彼はぎゅっと目を瞑り、感じ入るかのようにほぅ、と息を吐いた。食べる前の恐る恐るといった表情は消え去り、満足そうに目尻を下げている。
「平民はこんな美味いものを食べているのか……」
ぼんやりとした口調で言う。
食べなれていないせいか、唇の端にソースがくっ付いていた。
王子もそれに気づいたらしく、ちらりと赤い舌を出してソースを舐めとってから、親指で残りをぐいと拭い去る。そして、その親指に口付けた後、ふふ、と頬を染めて笑った。
いくら私だけだとは言え、外聞捨てすぎでしょう。子供のくせになんて色っぽい食べ方をするのだ。心臓に悪い。
私はバスケットを王子から奪い返し、中に入れておいたナプキンを手に取ってスタンバイする。
次からは私が拭いてあげよう。そう思ったのだけれど、いざ「ソースがついていますよ、王子」とナプキンを近づけたら、「――っ、ちょ、ち、近い近い近い! じ、自分で出来るから!」と顔を真っ赤にしてナプキンだけ強引に奪われてしまった。
子供とは言え十八才だものね。さすがに恥ずかしいのかな。
ちなみに王子は一個目を難なく平らげた後、当たり前のように二個目を要求してきた。
準備していたハンバーガーは三つ。一つは梓さん。もう一つはライフォードさん。そして、腹ペコ王子にせがまれる可能性を考えてもう一つ。
――なのだが。目を輝かせて手を差し出してくるダリウス王子に、私はついついライフォードさん用を渡してしまった。彼にはまた別の日に届けよう。
ごめんなさい、ライフォードさん。
* * * * * * *
「例の件、僕も独自に動く。王の命令ではない、僕自身が、必要だと思ったからだ」
ハンバーガーをぺろりと二個食べきった王子は、晴れやかな笑顔でそう宣言した。
自分なりに考えて動く。
さっそく実践しようと、前を向いたらしい。彼の表情には一点の曇りもなかった。
「知らせてくれて感謝する。リィン」
僕を陥れようとしたけじめ、つけさせないとな――言ってから、不敵に笑う。
王子という立場で独自に動くのなら、騎士団では見えてこなかった部分にも踏み込める可能性がある。私は「頑張ってください」と右手を掲げて微笑む。
「それで、その、次はいつ会える?」
「え?」
「か、勘違いするなよ! 情報交換のためだ! 別にお前に会いたいからとかそういう理由ではないからな! こちらで調べた事を、伝えてやろうと思っただけだ」
「あ、でも、私は別に捜査に加わっているわけでもないですから、ライフォードさんたちにお伝えくださった方が」
私の答えに、王子はむっとして唇を尖らせた。
「……ふん、僕に会いたくないならそう言えばいい」
「誰もそんなこと言ってないじゃないですか。拗ねないでくださいよ」
「なっ、す、拗ねてない!」
どう見ても拗ねているじゃないですか。
ライフォードさんには直接言いにくい理由でもあるのだろうか。まぁ、私が間に入った方がスムーズにいくのなら、仕方がない。
わかりましたと頷いて、店の定休日をいくつか答える。
「――うん。そうか、また会ってくれるんだな」
ふわりと楽しげに笑った後、王子は私がピックアップした日付のうち、一つを選んで伝えてきた。そして、「では、そろそろ行くか」と腰を上げる。
「遅くなったがライフォードの元まで案内しよう。ほら、いくぞ。迷子」
「迷子じゃないです! 不可抗力です不可抗力!」
意地悪そうに細められた瞳。しかし、それとは裏腹に手を差し伸べてくれる。
私はお礼を言ってから、彼の手に掴まった。
「ライフォード。客だ。入るぞ」
ダリウス王子に連れられてライフォードさんの執務室にまでやってくる。
変装している私を最初こそ訝しげにしていたが、レストランテ・ハロルド専用の入城許可証を見て私だと気付いた彼は、目を丸くして言った。
「王子と一緒? ど、どういう状況です? これ……」





