54、絶対零度
レストランテ・ハロルドは小さな食堂である。
入り口付近に四人掛けのテーブルが五卓あり、その奥にカウンター席が七つある。第三騎士団の皆は、これから昼にかけて人が来るだろうからと右奥のテーブル席を選んで腰かけた。
メニューを渡し、水の入ったコップを置く。
どうやら仕事の一環で代表として三人が店に赴いたらしい。昼食休憩に当たるので少しくらいはお邪魔していられるが、長居は出来ないとノエルさんが説明してくれた。
ならばと提供に時間のかから無さそうなものを数点ピックアップし、伝えておく。食堂なのだから、どれも手間はかけないよう工夫はしているが、それでも多少早い遅いはある。
「この料理番気まぐれパスタというのは?」
「私の気分によってソースの内容が変わるパスタです。常連さんに人気ですね」
急いで王宮に戻らなければいけないジークフリードさんも良く頼んでいるメニューだ。ノエルさんにその事を話せば「ああ。団長が昼食になると、いつも急いでどこかに消えていたのは、そういう」と言ってくすくす笑った。
「じゃあ、僕もこれにしようかな」
「はーい。ではノエルさんが気まぐれパスタですね。お二人は?」
真剣にメニューと睨めっこしていたアランさんは、私の問いかけに慌てて顔を上げる。掴んでいたメニュー表をぱたりと倒し、悩ましげに爪先でテーブルを引っ掻いた。
「全部」
「え?」
「――は、さすがに時間と胃袋が厳しいので、僕もノエルさんと同じで」
口惜しげにぎゅっと握り拳をつくるアランさんが可笑しくて、つい頬が緩んでしまう。
定休日以外は毎日絶賛営業中なので、いつでも食べに来てほしい。そして常連さんになってくれると更に嬉しい。私は「また色々頼んでみてください」とはにかんだ。
「ンだよ、全員同じのかよぉ」
「ヤンさんは別のにします?」
「んー……いや、俺だけ違ったら二人からこぞって取られそうだしな。今日は俺も同じのにする。気まぐれで頼むわ」
「今日は」という事は、また来る予定があるという事だ。これは常連さんを一気に獲得出来るチャンスではないだろうか。駄目。表情筋が馬鹿になったみたいに、にやにやとだらしのない笑みを浮かべてしまいそうになる。私は慌てて回収したメニュー表で顔を隠した。
偶然にも、今日の気まぐれパスタは『ボロネーゼ』で、普段より体力回復に重きを置いた分量配分にしている。これから訓練などで頑張らなければいけない第三騎士団の皆にとっては、ベストな料理かもしれない。
ボロネーゼとミートソース。
基本はほぼ一緒だけれど、ボロネーゼを元に作られたのがミートソースらしい。うちの店ではボロネーゼの方がトマト少なめ肉多めで、パスタ自体も太くしているので、別物として提供している。
注文が決まったのなら、後は作るだけ。私は急いで厨房に入った。
* * * * * * *
フォークを突き刺し、くるくると回してパスタとソースを絡めながら一口大の大きさに調整して口に運んでいく。さすがアランさんだ。フォークの扱い方や、手の動き、食べ方まですべてに品がある。
ジークフリードさんやライフォードさんにも言える事だが、市民用の食堂には似つかわしくないほど気品に満ち溢れていた。高級料理店だったらさぞ映えるだろう。
けれど――。
「んッ、美味しいです……」
緊張をドロドロに溶かしつくしたように、彼の肩から力が抜ける。唇はゆるく持ち上がり、頬が可憐な桜色に染まった。満足げな吐息が漏れる。
こんな外聞も何も考えない表情、高級店じゃできないものね。町食堂の利点である。
「本当、美味しい。時間が許すなら、他のメニューも試したいところだ」
ノエルさんは幸せそうに目尻を下げた。
アランさん程ではないが、彼も綺麗な食べ方をしている。平民とは言っていたが、そこそこ良い家の出なのかもしれない。
「あーもう、ぜってぇ味わう。俺史上最高に時間かけて味わう!」
一口目は大雑把に大口を開けて食べたヤンさんだったが、二口目からは5本くらいの可愛げのある本数をくるくるとフォークに巻きつけ、最初よりかなり上品に食べ始めた。
驚いたのはノエルさん、アランさんだ。「あのヤンが……」「いつも酷い食べ方なのに」と、一旦フォークを置いてヤンさんを凝視するくらいには、衝撃的な光景だったらしい。
「ンだよ、皆して。俺だってやろうと思えば綺麗に食べられますよーっだ」
「僕には及ばないけどね」
「そりゃ貴族様みたいにはいかねぇよ! ンでも、よくよく考えりゃ、こうやって俺なんかが貴族様と一緒に卓を囲むなんて、可笑しな話だよな」
「本当にね」アランさんは全く着飾らない、少年にも似た笑みを浮かべた。
気取らず自然体で美味しいものを食べる。食堂とはこうあるべし、みたいな風景に私の方が幸せな気分になった。もちろん、私の持論だから別の考えの人もいるだろう。
それでも、私が目指す形はこれなのだ。
「貴族様っつったら、どうする? ライフォード様は崩せねぇだろ」
ソースすらもフォークの側面ですくい取り、最後の一口を名残惜しそうに口に入れた後、ヤンさんは騎士の顔に戻った。ライフォードさんが関わってくる話題となると、例の薬ぶちまけ事件に関してだろうか。
ヤンさんとアランさんは、犯人を見つけて第三騎士団をコケにした事を後悔させてやる、と息巻いていた。私だって、ジークフリードさんが危険な目に遭った原因があやふやなのは、正直気分が良くない。
「事件の捜査状況、芳しくないのですか?」
「事件を起こした本人と話したい、っつって第一騎士団に申請してんだけど、ライフォード様から許可が下りねぇんだよ」
「僕たちはある意味身内だから」ノエルさんはたしなめるように言った。仕方がない。副団長として、ライフォードさんの立場も分かるからこその言葉だ。
「では、何故あんな事をしたか、まだ分からないんですね……」
ガルラ火山遠征から短くない時間は経っている。それでもまだ口を割れないのは、よほど隠したい内容なのか。それとも別の理由があるのか――。
「オウ。つっても、ただ手をこまねいている俺たちじゃ、ねぇけどな!」
「おい、ヤン!」
「良いんじゃないですか? 魔女様ですし。何か良いアイデアをいただけるかも」
これ以上は駄目だ、と声を荒げたノエルさんに対して、アランさんは静かにティーカップを置いた。先程までの初々しい様子は鳴りを潜め、鋭い視線がカップの中の紅茶に注がれる。鏡のように水面に浮かんだ表情は、波紋によって歪められた。
現時点では八方塞。だから小さなきっかけすらも貪欲に求めていきたい――アランさんの声色からはそのような真意が見え隠れしている。
「俺たちは街を駆けずりまわって聞き込みして、アイツを突き崩せそうな情報を得た」
「情報ですか?」
「アイツが、銀髪の男と言い争っている姿を見たって人がいる」
「銀髪?」店内の事は私に任せてマル君と談笑していたハロルドさんが、目を見開いてヤンさんを見た。
「なんだ、人間には珍しい色なのか?」
「そりゃあね。滅多に見ないよ、銀髪なんて」
第三騎士団を陥れる。いや、むしろジークフリードさんを陥れたいと考える、銀髪の男。一人、頭に浮かんだ存在がいる。誰も名前を口にしようとはしない。けれど、恐らく全員同じ人物の事を考えているだろう。
ダリウス・ランバルト第一王子。
ジークフリードさんとの仲は、私が見る限り良くはなかった。でも――仮にも一国の王子が、自らの国に尽くす騎士団を貶めようとするだろうか。
皆の疑惑を打ち消すためか、それとも自戒のためなのか。「まぁ、見えているものが全て真実とは限らないけどね」と、ハロルドさんはマル君を見ながら言った。
でも、もしも彼が全てを話せない原因がこれだとするなら、確かに突き付けてみれば綻びが生まれる可能性がある。
「ちょっとぐれぇ話させてくれても良いのによぉ。ほんっと、うちの団長と違ってライフォード様はお堅いよなぁ。顔はあんな優男なのに、中身はカッチカチの堅物だ」
ヤンさんが話しきる前に、入り口のドアが開く。
チリン、と涼やかな音が響くと同時に、周囲のすべてを凍らせてしまいそうな絶対零度の冷ややかな声が店内を覆った。
「ほぅ、堅物ですか。それはそれは、失礼いたしました」
ふわりと綿菓子にも似た柔らかな金髪をなびかせ、しかし――いつもは優しさと聡明さを湛えたコバルトブルーの瞳は、ヤンさんを射抜くように細められた。
噂をすれば影とはよく言ったもので。
あまりに絶妙なタイミングで現れたライフォードさんに、店内の全員がしばらくの間固まった。