幕間「レストランテ・ハロルドの二人」
レストランテ・ハロルドには、リン目当ての固定客が一定数存在する。年齢も性別もバラバラだが、料理だけでなく彼女と会話も楽しみたいという層だ。
おかげで客数は普段より少し減って、ハロルドとマルコシアスのみでも滞りなく回っていた。
メニューを減らした事も理由の一つかもしれない。どうにも新人と怠け者店長とでは難しいメニューがあり、リンが復活するまではこのまま簡易メニューでいく予定だ。
ハロルド自身はあまりこだわっていないが、売上が落ちたとリンが気付いたら責任を感じてしまう恐れがある。面倒だが、店の運営に関しても手を抜くべきではないだろう。大丈夫だ。腐っても元天才魔導騎士ハロルド・ヒューイット。やってやれない事はない。
「マル君、今日はお疲れさま。リンいないけど夕食食べる?」
「そうだな、いただこう。ただし、お前は座っていろ。俺がやる」
本日の売上レポートをハロルドに押し付け、さっさと厨房を占拠するマルコシアス。ついでとばかりに付け加えられていた紙には、今回の遠征デリバリーの請求書草案がくっ付けられていた。さすが優秀である。
「良いの? 人が作ったものが好きなんじゃなかったっけ?」
「どうせ残り物を温めるだけだろう? 誰にでも出来る。それに人が作ったものが好きなのではなく、リンが作ったものが好きなだけだ」
「リンが作ったもの、ねぇ」
マルコシアスは気付いているだろうか。
同じ調理法、同じ食材、同じ分量で作ったはずでも、リンが作る事によって少し効力が上がる事に。煮込みハンバーグを作った時の実験で、彼の手が燃えていたのはそのためだ。
幸い、一般人には分からない些細な違いなので、レストランテ・ハロルドの営業には何ら影響はない。特別な力――例えば聖女である梓や尋常ではない魔力量を持つハロルド、魔族であるマルコシアスでもないと、食べただけで察知するのは難しいはずだ。
だがリンが能力に気付き意図的に効果を高めようと調理した場合、彼女の望まぬ方向で大事になりかねない。魔女呼びすら嫌がっているくらいだ。現行、何ら問題がないのなら特に口出す事ではあるまい。
研究対象としては少し残念だが、雷魔法という新しいおもちゃも出来た。これで満足しておこう。
「出来たぞ」
「ありがとう。助かっちゃうー」
ハロルドは、遠距離にいるリンに対して幻術と鎧軽量化の魔法を永続的にかけており、道中大変だろうからとドリンクの補充も行っている。それに加え、明日からは大掛かりな転移魔法も駆使しなくてはならない。
「温存しておけよ。普段は怠けているくせに、どうして面倒な時に限ってやる気を出してしまうのだ、お前は」
「これくらい大丈夫だってば」
「本当か?」
怪訝そうな顔を向けられる。失礼な。ハロルドの魔力量は通常の人間とは比べ物にならないくらい潤沢である。さすがに体力は馬鹿みたいに無茶できるライフォードやジークフリードに遠く及ばないが、一兵卒以上はあるつもりだ。
今日は少し張り切ってしまったので、やや疲れているかもしれないが、問題はない。
「まぁ、けっこうゴッソリ持っていかれてるけど、大丈夫。これくらいじゃ倒れないから。配分もちゃんと計算してるし」
リンの性格を考え、計画にない転移魔法使用もバッチリ織り込み済みである。ガルラ火山攻略にかかるだろう日数と、自分の魔力量などを考慮すると、最終日にギリギリ倒れるか倒れないかの計算だ。
ゆっくり休めればまだ余裕も出てくるが、リンから何か連絡があるかもしれず、魔法陣から目を離したくなかった。よって、睡眠による回復はあまり期待できない。
ハロルドはどこにいても目に入るようにと、壁に貼りつけた魔法陣をじっと見つめる。
「ねぇ、マル君。今のところは大丈夫なんだよね?」
「ああ。俺が言うのだから間違いはない」
リンには秘密にしているが、マルコシアスが渡した腕輪には感情を読み取る能力が付加してある。生死の分かれ目は一分一秒。リンに助けを求められるまで悠長に待機していては、手遅れになってしまう。強い恐怖の感情を察知したのなら、それは切羽詰まった状況に他ならない。
マルコシアスには、ガルラの反応如何など気にする間もなく、いつでも影を使って救援に向かえるよう準備はしてもらっている。一瞬で目的地にたどり着ける魔族の影移動。味方であったなら、これほど頼もしい能力はない。
「あまり魔法陣ばかり見つめていても変化はないだろう。今日はもう寝ているんじゃないか? というか、魔法陣に魔力が込められた時点で、お前なら自然と分かるだろうが」
「それはそうなんだけどさぁ」
転送してほしいものがあれば、まずリンからメモが届く手筈になっている。何も届いていないという事は問題がないという事だ。
「報われないな」
心底愉快そうにマルコシアスが笑う。
「どういう意味だよそれ。言っておくけど、僕は別にリンから頼られるのが好きなだけであって、そういうんじゃないからね」
むっと唇を尖らせていう。
普段は飄々と他人を小馬鹿にした態度を取る事が多いハロルドだが、マルコシアスの前では少々子供っぽくなる嫌いがあった。その頭脳から頼られる事の多いハロルドに対して、唯一対等以上に付き合えるからかもしれない。
「つまり?」
「もう、しつこいなぁ。これで良いんだってば。リンが僕を好きだって言う方が違和感あるでしょ。違う気がするんだよなぁ、なんか」
「ふむ。人間とは面倒だな。リンも同じような事を言っていたが、俺にはよく分からん」
「リンも?」
リンの事は大切だ。しかし、この感情が何なのかハロルド自身も計りかねていた。
リンとジークフリードが上手くいったとして純粋に祝福できると思う。多分。でもリンは違うだろう。どう見てもジークフリードが誰より大切ではないか。
「あれは数日前、ガルラ火山遠征デリバリーのためにドリンクを量産していた時の事だ」
マルコシアス曰く、あの日疲れと眠気のせいでリンは少しおかしかったらしい。彼女自身の言葉を借りるのならテンションがとっても高かった。
もっとも一番の原因はジークフリードが危険だと告げられたからだろう。彼女にとってそれだけジークフリードという男の存在は大きい。
「僕がライフォードとリンの変装道具に幻術を仕込んでた時くらいかな」
「だろうな。あまりに面倒だったので、からかい半分嫌がらせ半分で相手は貴族の二男と聞いた。もう良い相手がいるかもな、と言ってみた」
「何言ってるの……」
さて。真っ赤になって否定をするか、落ち込むか。果たしてどちらだろう。――そう考えていたマルコシアスだったが、しかし、彼の予想は大きく外れ、リンは道端の石ころでも見るような感情のこもっていない瞳でふん、と鼻を鳴らした。
『マル君、美形で優しくて家柄も良くて頭も良いあの完璧超人ジークフリードさんに私なんかが釣り合うとでも? ないですね。ない』
あまりにもキッパリと否定されたので、二の句が継げず黙るマルコシアスに、リンは『ジークフリードさんは恩人なんです。あの人のためなら何でもします。それに――』と、切なげに眉を寄せた。
『人生かけても幸せになってほしい。それが推しってものでしょう!』
嘘偽りない魂からの咆哮。本体が狼であるマルコシアスがうっかり気圧されてしまうほどに。
マルコシアスはそれ以上深入りするのは危険だと思い、とりあえず「そうか」と頷いておいたらしい。
「推しという言葉はよほど難解な言葉なのか。翻訳魔法が上手く発動せず正確な意味までは把握しきれていないが、恋愛感情などとうに通り越した存在であると感じた。深いな」
「リン。何言ってるの。いや、本当に何言ってるの……」
疎い疎いと思っていたが、これほどとは。ジークフリードが少し可哀想に思えてくる。まぁ、夜中のテンションが成せる業だったかもしれないが。
ハロルドにも覚えがある。誰も彼もが寝静まった静かな空気と疲労から起こる、妙に気持ちが高ぶる瞬間。夜には怪物が住んでいるのだ。恐ろしい。――つまり。そう、つまり、この話は聞かなかった事にしておこう。うん。
「マル君、今日はありがとう。後は僕がやっておくから、明日もよろしくね」
「……その判断は上手くないな」
皿を洗おうと立ち上がったハロルドをマルコシアスはひょいと持ち上げ、まるで荷物か何かのように肩に担いだ。ついでとばかりに壁の魔法陣――布に描かれているので持ち運び可能だ――も指で摘まんでひっぺがし、ハロルドの上に乗せる
「ちょ、ちょっとマル君!?」
「寝ろ。今は大丈夫でも、十全に回復しておかなければ明日以降が辛くなる。何だかんだリンが頼りにしているのはお前なのだから、しっかり休息は取っておけ」
この魔族様はどうにも世話焼きだ。人間の料理を好んでいる事から、もしかすると相当人間大好きなのではなかろうか。
元々腕力は平均以下であるハロルドは、大した抵抗も出来ず気付けば自室のベッドに放り出されていた。というか投げ飛ばされた気がするのですが。扱いが雑だと思う。
マルコシアスを見ると、魔法陣をベッド横の床に敷き直し、崩れないよう四隅を近場にあった分厚い魔導書で押さえつけているところだった。金の刺繍が入った凝った装丁の本。値段は言わずもがなだ。魔族である彼には関係のない話であろうが。
本当。親切なのか何なのか分からない男である。
「食器は洗っておく。魔法陣の見張りもやっておく。何かあったら起こす。以上、他に何か命令はあるか?」
「いや、マル君にそこまでやってもらうわけには」
「ご主人様が無事帰還するよう手を尽くしているだけだ。配下の鑑であろう? さぁ寝ろ。とっとと寝ろ。そうだな、イイコにしていたら、俺の尻尾を枕にする権利をやろう!」
ぽん、と尻尾を出して左右に大きく降る。ふわふわのもっふもふだ。
「これを枕にすればどんな生き物だろうと極上の睡眠に誘われるはずだ。試したことがないから分からないが」マルコシアスはふふんと胸を張った。
「いや、それご褒美じゃなくて拷問でしょ。いくらふわふわでも男の枕とか」
「ほぅ? 喧嘩を売っているのか。良いぞ。即買ってやろう」
「わっぷ!」
マルコシアスはベッドの端に腰掛け、自分の尻尾にハロルドの顔を押し付けた。絹のような滑らかな肌触りと、ほどよい弾力がかえってくる。――ああ、ヤバイ。これお金とれるかも。
勝負は意外なほどあっさり決した。もちろん、ハロルドの完全陥落として。
仕方がないだろう。リンへの魔力供給、レストランテの運営、更には転移魔法も使用しているのだ。有り体に言えば疲れていた。仕方がなかったのだ。
早朝。
心地よい目覚めと同時に飛び込んできたのは、マルコシアスの不機嫌そうな顔だった。
どうやら気持ち良く眠りすぎて、彼の尻尾を涎まみれにしてしまったらしい。「洗浄とブラッシングを要求する」青筋を浮かび上がらせた彼に詰め寄られ、ハロルドは「あ、はい」と頷くしかなかった。