23、後日談
裏道を進んだその奥に、木々に囲まれた静かな食堂がある。
雑踏から隠れるように存在するそこには、魔女が住んでいた。人には扱えぬ素材を使用し、驚くべき効能の料理を作る。一度口にすれば虜にされ、舌が忘れようとしない。
しかし――魔女の機嫌を損ねれば、料理はたちまち毒になる。
魔女の機嫌を損ねるな。
「――という噂になっていましたよ、リンさん」
「何でですか!?」
私はトレイで顔を覆って、勢いよくしゃがみ込んだ。
あの日いの一番にドリンクを買いに来てくれた女の子――マリーちゃんは困ったように眉を八の字に寄せて、私の背を優しく叩いてくれた。本当に良い子だわ。
彼女の話によると、私の作ったドリンクは掲示した通り、ちゃんと二時間、効能が続いたらしい。味も問題なく、むしろ好評だった。
美味くて破格の効果を持つドリンク。その噂は、瞬く間に城下を駆け巡り、人々の知るところとなった。
ああ、悲しきかな。それだけだったら、今頃レストランテ・ハロルドは大盛況で、私は店内をめまぐるしく動き回っていた事だろう。残念ながら、現実はマリーちゃんを混ぜて三人ほどが店内でくつろいでいるに過ぎない。私も暇を持て余している。
原因はもちろん、オーナーさんのあれだ。
口から血を吐き身悶えた図を見ていた人々から、少し間違えれば毒になる食材が使われているぞ、という話が広まってしまったのだ。嘘ではないのが悔しいが、用量を間違えなければ、あんな風には決してならないし、安全に使用できる。
「調子に乗って、私にしか扱えないだとか言っちゃったのも原因よね……」
「でも、事実ですし。落ち込まないでください」
魔力を通したナチュラルビーの蜜を、一般に普及しようとは思っていない。中途半端な知識で使われては困るからだ。けれど――けれどまさか、人には扱えぬ素材認定され、あまつさえ私が魔女だなんて。
もっとも、そのお陰でジークフリードさんやライフォードさんには迷惑が掛からなかったので、悪い面ばかりではないのだけれど。
魔女の戯れを監視するため、王宮から派遣された騎士団長様。市民の皆さんからはそう見えたみたい。まさにヒーローである。
まぁ、かなりの騒動だったのに、私一人が悪く言われる程度で済んだのなら、良かったのだろう。うん。
「いやぁ、すっげぇ美味かった。怖がって近付かないやつら、可哀想だよなぁ」
「でしょでしょ! 私は嘘つかないもん!」
マリーちゃんの幼馴染であるピーター君は、フォークを置くと満足げに笑った。少年特有のあどけない笑みに癒される。
爆発的に繁盛はしなかったものの、マリーちゃんのように一部始終を目撃した人の中には、「オーナーさんが忠告を無視して入れたのが原因でしょう? あの人はむしろ助けようとしていた」と言って、レストランテ・ハロルドに足を踏み入れてくれた人もいる。有り難い。
更にマリーちゃんは、ドリンクだけでなく料理も「美味しい!」と手放しで褒めてくれた上に、今日なんてわざわざ知り合いまで連れて食べに来てくれたのだ。
少しずつだけれど常連さんは増えてきていた。小さな一歩かもしれない。でも、料理を食べて美味しいと言ってくれる人がいる。それはとても幸せな事だ。
「んじゃ魔女さん、また来ます」
「魔女さんじゃなくてリンさんでしょ! もう。じゃあリンさん、また」
手を振ってマリーちゃんたちを見送る。
嬉しい。「また」の言葉に心が温かくなった。
「常連客っていうか、信者増やしてる感じだけどね。魔女さん?」
「ハロルドさん。次言ったらトレイが飛んでくると思ってください」
「ふふ、怖いなぁ。それから、今日も城内の信者さんから注文きてるよ」
「信者呼びも禁止です! ……全く。注文については了解しました」
調理場の奥へ進むと、台の上に刻まれた魔法陣が光っていた。
レストランテ・ハロルド特製デリバリーサービスである。
私は魔法陣の上に出現した料理の代金と、メモとを回収し、中身を確認する。
メモには可愛らしい文字で『凛さんへ、特製ドリンクとハンバーグセットをお願いね。はやく食べたいわ! 梓』と書かれていた。そして、下の空きスペースを利用して、ついでとばかりに几帳面な字が綴られている。『サンドウィッチセット4つ。お願い致します。』こっちはライフォードさんね。4つって、相変わらず腹ペコ王子様なんだから。
さすがに聖女様の部屋に転移魔法陣は設置できなかったけれど、ライフォードさんの執務室なら許可が下りたみたい。人間は通り抜けられないサイズであり、一部の人のみが稼働できる仕掛けを仕込んであるが故の措置だ。
例えるなら指紋認証に近い。特定の人物が注ぎ込む魔力でしか発動できないのだ。今ならライフォードさん、梓さん、ジークフリードさん、ハロルドさんの四人。私も魔法が使えたら良かったのに。
私は注文の品を作り終えると、ハロルドさんに転移をお願いした。ほのかに魔法陣が発光し、料理が消えていく。画期的なデリバリーサービスだと思う。
「ふぅ、一通り終わりましたね」
「うん。お茶でも飲む?」
そろそろ昼時が過ぎるので、お客さんは見込めない時間になってきた。ハロルドさんの提案に乗ってお茶でも準備しようかな、と私は台所に立つ。
ちょうどその時、扉に取りつけてある鈴が軽やかな音を立てた。私は入ってきた人物を確認し、ぺこりと頭を下げる。
今回増えた常連客さんの中でも、殊更意外に感じられた人だ。
「いつもいつもすみません。昼食時が終わったので、伺わせてもらいました」
燕尾服を着た壮齢の男性は、店内に入るなり綺麗に90度頭を下げた。美白ジュースの店のオーナー――ダンさんだ。
あの事件のすぐ後、彼はうちに来た。
まるで憑き物が落ちたように大人しくなったダンさんは、地面にめり込むほど深々と頭を下げ、「大変申し訳ない事をいたしました」と謝ったのだ。この世界に土下座があったのかと驚いたが、そうではなくて、頭を限界まで下げようと思ったら地面につけるしかなかったと後で教えてもらった。
そんな話を聞いたらもう笑うしかなくて、私は自然と「もう良いです。肩は大丈夫ですから」と言っていた。ハロルドさんは呆れたように笑っていたけれど、何も言わなかった。
「本当に私のせいで申し訳ない事を……」
「いえ、もう過ぎた事ですので、気になさらないでください。そもそも喧嘩を吹っ掛けたのはこちらですし。それより、お腹の方は大丈夫ですか?」
「ええ、ええ、それはもう。貴重な回復魔法を掛けてくださり、ありがとうございます。酷い事をしてしまったのに、あなたは本当にお優しい。なんとか信頼回復に役立てないかと、こちらも色々と手を尽くしているのですが……口惜しいです」
彼はカウンターの方までくると「特製ドリンクをお願いします」と言って座った。
「いつもの、ですね」
「ええ。美味しい上にこの効能。凄いですよね、ここのドリンクは。これを広めるチャンスを私が……」
まるで遠い過去に思いを馳せるかのように、天井を仰ぎ見る。
「私の友人が薬師でして、料理でも薬と同等の効果を付けられないか、なんて。これでも頑張っていた頃もあったのですよ。しかし、あの美白ジュースが完成し、店が軌道に乗りはじめた途端、だんだんお金の事しか考えられなくなり――あの時はもう、自分では抑えきれない感情となってしまっておりました……」
私が渡した材料を、ハロルドさんが疑似ミキサーで砕く。後はそれをグラスに入れれば完成だ。出来立ての特製ドリンクを、ダンさんのテーブルへ置く。彼は宝物を扱うのかのように、それを優しく両手で包み込んだ。
「腹に穴は空きましたが、おかげで目が覚めた気が致しました。きっとあのままでしたら、私はもっと、それこそ目も当てられないくらいに酷い目に遭っていたと、そう感じるのです。あなたの作った蜜には、何か特別な効果でもあったのでしょう。あなたのおかげで私は助かったのです」
「いいえ、そんな効果は別に……」
「良いのです。私はそう信じておりますので」
オーナーさんに渡した蜜は、最後に作った蜜だ。
実は、私も魔法が使えないかな、なんて自惚れて力を送り込む真似をしてみたけれど、変化がなかったので結局ハロルドさんにお願いした、という恥ずかしい経緯の元出来上がったものなので、あまり思い出したくなかったりする。
私に気付かれぬよう背後で観察していたハロルドさんに「魔力を通すって実は難易度高いんだよねぇ。魔法が使えるかどうかなら、僕が調べてあげるのに」と、笑いをこらえながら告げられた事は今でも死しそうなくらい恥ずかしい。ハロルドさん、許すまじ。
「実はさっき言った私の友人ですが、実家の薬屋が燃えてしまったらしく、今は私の店で働いてくれているのです。さすがに美白ジュースの時みたいにはいきませんが、もしかすると彼のように素晴らしいヒントをくれるんじゃないか、なんて思ってしまって、少し申し訳ない事をしているかもしれません。彼はもう、うちの店を辞めてしまいましたから」
「彼、ですか?」
私が首を傾げると、ダンさんは苦笑して教えてくれた。
「ええ、あの時あなたの特製ドリンクを飲んでおいしいと言っていた、あの黒髪の」
「ああ、赤い目が特徴の!」
「赤? いいえ、黒だったと思いますが……」
「あれ?」
おかしいな。ダンさんと一緒に出てきた男性なら、赤い瞳だったと記憶している。魅了でもかかっているのでは、と思わせる、蕩けるほどに真っ赤な瞳は、忘れようにも忘れられない。赤と黒を間違えてしまったのだろうか。逆ならあり得ない事もないが、黒を赤と間違える事は無いはずだ。たぶん。
「赤だって?」ハロルドさんにしては低いトーンで呟かれた一言に、少し驚いて振り向く。しかし彼は、何でもないよと首を横に振るだけだった。
一体、何だったのかしら。あの人は。
「本当にありがとうございます。今度は妻と娘も連れてきますね。魔女だなんてとんでもない、素敵な方がいらっしゃる店だと言っていますので」
「それはそれで恥ずかしくて居たたまれないです!」
「ははは。それでは、私は店に戻りますね。何か困った事がございましたら、何でもおっしゃってください。信じていただけないかもしれませんが、貴方のためなら何だって致しましょう」
来た時と同じく、90度に頭を下げてダンさんは店を出て行った。本当に不思議だ。礼儀正しいこの人が、あのオーナーさんと同一人物だなんて。
「別人みたいに変わりましたよね、ダンさん」
「呪詛……」
「え?」
「ああ、いや、タチのわるーい呪いみたいなものがあるんだよ。魔法が使えなくとも使えるっていう、面倒なものがさ。ただ――」
彼は続きを言おうと口を開いたが、少し考えて閉じてしまった。
「ハロルドさん?」
「いいや。やめとこう。色々面倒なんだよ、その話題」
酷い。言いかけて止めるなんて、一番気になるじゃないですか。私はハロルドさんに何度も抗議をしたが、結局、続きは教えてくれなかった。
もう。ハロルドさんの人柄は知っているけれど、こういうところは慣れないわ。
* * * * * * *
そろそろ店じまいの時間だ。
私は入り口を確認して、ため息を一つ零した。
最近ジークフリードさんに会っていない。どうやら魔物討伐の任を受けて遠征しているらしく、ここ一週間程は王都から離れているとライフォードさんに教えてもらった。
第一騎士団長が聖女の護衛で動けない分、遠征などは第三騎士団に回ってくるのだ。ジークフリードは強いから大丈夫、と皆から言われたけれど、やっぱり顔が見られないと寂しい。
そろそろ帰ってくる頃なので、扉が開いて彼が顔を出すんじゃないかと、淡い期待を抱いてしまう。
いやいや、おかしいでしょ私。何でジークフリードさんが帰ってくるなり、ここにくると思い込んでいるのかしら。普通家に帰って落ち着いてからでしょうに。
後ろから「今日もジークはこなかったねぇ」とからかい半分に声を掛けられる。
「ち、違いますっ! 別に、その、待ってない事もないですけど……でも、こんな時間ですし、来ない事くらい分かってますから!」
「はいはい。まったく、そこは素直になっても良いのねぇ。じゃあまぁ、店じまいの看板お願いね。時間だから」
「分かりました!」
私は『closed』と書かれた看板を店外へ出すため、扉に手を掛ける。しかし、私がドアノブを回すより先に、それは開かれた。
チリン、と涼やかな音と共に現れたのは、待ち望んでいたあの人。
目立つ赤髪が風にふわりとなびき、闇夜の背景に色彩を与える。彼は乱れた息を整える事もせず、口を開いた。キラキラと煌めく星空よりもなお魅力的な瞳が、優しげに細まる。
「リン」
直に鼓膜を刺激されているのではないかと感じるほど、低く、甘い音。ざわり、と背筋が震える。
ああ、久しぶりに聞く声だ。
「ジークフリードさん……!」
「間に合わなかったか……。すまん。もう店じまいの時間だな」
私は勢いよく後ろを振り向いた。
「あの! ハロルドさん!」
「はいはい、今日は延長だね。もー、嬉しいって顔に出まくってるよ、リン」
「う……! そ、そんな事!」
「まったく、こんなチョロ甘な魔女がいるわけないのにねぇ」ハロルドさんはやれやれと肩をすぼめ、カウンター席に腰を下ろした。
恥ずかしい。そんなに顔に出てしまっているのだろうか。私は犬か。ご主人さまの帰りを待つ犬か。
あまりの恥ずかしさに、私は手で顔を隠しながら、ジークフリードさんを席に案内した。
「えっと、お疲れ様でした。お怪我がなくてなりよりです」
「リンも、元気そうでなによりだ。だが――」
ジークフリードさんの手が伸び、顔を隠していた私の腕を退かす。そして、そのまま垂れていた前髪をそっと掻き分けて、彼は満足げに微笑んだ。
何の隔たりもなく、瞳と瞳がかち合う。
「はは、帰ってきた気がする」
「もう……お帰りなさい。ジークフリードさん」
「ただいま、リン」
心に温かい雫が落ちてきて、ふわっと全身に広がった気がした。やっぱりジークフリードさんに会えると、幸せな気持ちになれる。推しメンの力って凄い。
「あのー、僕のこと忘れてないよねー?」後ろからハロルドさんが文句を言っている気がするが、少しだけ聞こえないふりをしてしまった。