86、決戦 後編
それから、どれだけ時間が流れただろう。
私は一度ゼリーを置き、少女に許可を取ってから布団をめくった。黒に覆われていた皮膚のほとんどは健康的な小麦色へと戻っている。
「本当、どうしたのってくらいスムーズだわ。浄化スピードも速いし。これなら――ねぇ、有栖。最後の仕上げ、お願いしても良い?」
「うん。ありがとう、梓。任せてくれて」
「しっかりやんなさいよ」
有栖ちゃんは「うん」と力強く頷き、少女のお腹に手を置いた。
ぼんやりと淡い光が彼女の手から発せられる。既に息苦しさは消えていたが、今この瞬間、清らかな空気が部屋を覆った。
違和感を覚えるのは、有栖ちゃんが手を置いた一ヶ所だけ。
最後のあがきとばかりに黒い靄が溢れ出し、ぐねぐねと奇妙な動きをしはじめる。
まさか有栖ちゃんに攻撃を加えようとしているのか。
梓さんの方をちらりと確認すると、大丈夫だと頷かれた。有事の際はすぐに動けるよう臨戦態勢は崩していないらしい。
さすが梓さんだ。
私も何かあった時、動けるようにしておこう。
靄の動きを観察するため、じっと注視する。
そこで気付いた。
―あの靄、何か言葉を発している?
「あり――」
「全て、覚悟の上よ。いいからさっさとこの子から出て行って!」
私が有栖ちゃんに声をかけようとした瞬間、彼女の手から目が眩むような光が発せられた。それは光の粒子となって少女の身体を包み込む。
全てを癒し、穢れを排除する聖女の力。
靄は風に飛ばされる砂のごとく、さらさらと空気に溶けて消えていった。でも、なぜだろう。消える直前、ぐにゃりと歪んだそれは、笑っているようにも見えた。
計画通りと言わんばかりに。
「呪詛が再侵攻する気配はなし。ふふ、完全勝利ってやつ?」
梓さんの言葉にハッとして、二人の様子を確認する。
少し疲れているようだけど体調に変化は見られない有栖ちゃん。身体の黒ずみは全て消え去り、すやすやと可愛らしい寝息を立てている少女。
問題はなさそうに見える。
「勝った……んですよね?」
「ええ、大勝利よ。だから、凛さんは何も気にしなくて良いわ」
大勝利。
そうだよね。梓さんが言うのなら間違いない。
含みのある言い方少し気になるけれど、裏を返せば全て理解しているという事。私が抱いた不安も、彼女は把握済みなのだろう。
なら、きっと大丈夫。
私はふぅ、と息を吐いて緊張を解く。
瞬間、腕を掴まれた。
誰か、なんて確認するまでもない。有栖ちゃんだ。
「よかっ、よがっだよぉ……! よか、ぅ、うわああああん!」
「あーもう、はいはい、ったくこの子は。あんまり大声出すと起きちゃうでしょうが」
「ほんとに、ほんとに、あ、ありがと……ご、ごめんなさっ……うぅ」
「うん。有栖ちゃんも頑張ったね」
私たちの腕を掴んで、恥も外聞もなく泣きじゃくる有栖ちゃん。そんな彼女相手に、とてもじゃないが冷たい対応はとれなかった。
「ったくぅ。凛さん優しすぎない? いっておくけど、まだ完全に許したわけじゃないんだからね。そこんとこ、ちゃんと覚えておきなさいよ?」
「えー、梓さんがそれ言います?」
「もー、凛さんってばぁ」
格好付かないじゃない、と梓さんは頬を膨らませる。
何を言いますやら。
梓さんはいつでも格好いいですよ、なんて軽口を叩いてみたら「ナチュラルに攻略されそうになるから駄目よ、それ」と額を突かれてしまった。
攻略って何ですか。オーギュストご兄弟じゃあるまいし。面白い冗談だ。
「さて、と。本当なら凛さんのお店でお疲れ様パーティーでもしたいところだけど、今日はもう無理ね。まだ午前中なのに、つっかれた!」
「そうですね、私も眠くって。今日はもうお布団に入りたい気分です」
「あの……」
泣き腫らした目を擦りながら、有栖ちゃんが私たちを見上げる。
不思議とその瞳には強い決意と覚悟が滲んでいた。
「わたし、そろそろ行かないと」
「目、真っ赤に腫れてるもんね。ちょっと冷ましてからの方がよろしくてよ? 聖女サマ。……なんて。付き添いはいる?」
「大丈夫。どうせダリウスが勝手に付いてくるだろうし」
「そう、じゃあ――」
落ち着いた声色で「気を付けて」と微笑む梓さん。ただ見送るだけじゃない。包み込むような優しさがそこにはあった。
やっぱり梓さんは何か知っているんだ。しかし、何も言ってこないという事は口出し無用という事。ならば私も梓さん同様、見守る方が良いのだろう。
「何かあったら、いつでも食堂に来てね」
私と梓さんの言葉に、有栖ちゃんは「ありがとう」と笑って部屋を出て行った。
有栖ちゃんを見送った後、私たちも少女を起こさないよう静かに部屋を後にし、ジークフリードさん、ライフォードさん、少女の母親に事の顛末を説明した。
ダリウス王子は有栖ちゃんを追って一足先に出て行ったらしい。
「というわけで、もう大丈夫なはずです。ですよね? 梓さん」
「ええ、また何か異変があればすぐ城へご連絡ください。迅速に対応いたします」
梓さんは艶のある黒髪をさらりと左手で払い、聖女スマイルを浮かべた。
よし。これで本日予定していたお仕事は全て終了。
私も店に戻ってゆっくりしようと思っていたのだが、なんと母親が私たちに抱きついて大号泣。小一時間ほど泣き続け、最終的に気を失って倒れたものだからちょっとした騒ぎになった。
気絶している母親と眠っている少女を放って戻るわけにはいかない。仕方がないので、彼女が目を覚ますまで私とジークフリードさんが残る事にしたのだった。
ちなみに。
浄化ゼリーの為に徹夜続きだった私は、いつの間にか眠ってしまっていたらしい。
「リン、起きてくれ。奥方が目を覚ました。そろそろ店まで送ろう」
真綿でふわふわと撫でられているような優しい声で目を覚ますと、ジークフリードさんの胸板が目の前に飛びこんできた。
右手で私の頭を支え、まるで抱きしめているような格好だ。
「ひぇ……」
おかげで目を覚ました瞬間、天国が見えそうになったのは秘密である。





