08.アレクサンドラの涙
私は急ぎでお兄様と王都の邸宅に戻り、今後の対策を練らなければならなかった。
お兄様は荒々しく足音を立て、居間に踏み込むなり壁を叩く。
「あの馬鹿王太子め。……やってくれたな」
どの女性も魅力する美貌が、怒りに歪み凄絶な印象を与える。私はそんなお兄様を宥めながら、部屋の片隅にある鳥籠に目を向けた。
「お父様に早く知らせないと」
私は婚約破棄をされた旨、陛下のたくらみなどを書いた手紙を、鳥籠の鳩の足に結び付ける。この鳩は特殊な訓練がほどこされており、一般の伝書鳩なら数日はかかる距離を、たった一日で往復できる。私は窓を開けて鳩を飛ばした。
その一日が永遠にも思えたその日の夕暮れ、お父様からやはり鳩に託した返事が来た。今日隣国との交渉が妥結したため、宴席が終わり次第すぐに戻ると言う。条件は、互いにそれなりの納得が行くものらしかった。
『お前達は何も心配しなくてもいい』
手紙にはそう書かれていた。
『掛けた保険が役に立ってくれたからな』
「保険……?」
私達はその単語に顔を見合わせる。
保険とは何のことなのだろう?
それから翌日となる今日、お父様は自ら馬を駆り、護衛とともに王都へと帰国した。すぐに私達を書斎へと呼び出し、「詳しい状況を聞きたい」と説明を求める。お兄様が記念パーティーでのいきさつを話すと、「あの馬鹿王太子が……」と頭を抱えた。
「兄上が私はともかくとして、サンドラまで切り捨てるとは……。だが、こちらとしては好都合だ」
お父様が陛下を陛下と呼ばず、兄上と呼んだのは初めてだった。そしてどうやらこのような事態となることも、可能性として予測していたらしい。また、「好都合」とはどう言う意味なのだろう?
お兄様が「顔を上げて下さい」と促す。
「それより保険とはなんですか?」
お父様は机の上に手を組んだ。
「ああ、六年前から掛けてきた保険だ。我が家のためだけではなく、この国にとっての保険でもある」
「……?」
お兄様と揃って首を傾げる私に、お父様が立ち上がり頭を下げた。
「そんなことよりアレクサンドラ、私はまたお前に謝らなければならない。結局お前を私達兄弟と国の犠牲にしてしまった」
「そんな、お父様……」
「私はいつかは兄上と分かり合えると、そんな幻想を抱いていたのだよ。……私に野心などは少しもないと、あの人に理解して欲しかった」
陛下とお父様は王子時代、確執があったのだそうだ。陛下とお父様とは三つ年が離れているが、お父様は容姿も、能力も、評判も陛下に勝っており、なぜ弟と兄が逆ではないかと嘆かれていたのだと言う。その件についてはお祖母様や要人からも聞いたことがあった。
それでも長子相続は絶対の原則とされている。お父様自身がその原則を破るのを望まなかった。王家の相続争いは内紛に繋がり、内紛は国の弱体化に繋がり、弱体化は滅亡に繋がる。その事実をよく知っていたからだ。
お父様はだからこそ敵国の血を引いていようと、アンドリュー様を差し置きダニエル様を立てるのを渋った。
「私は私の信念を通すべきだった。なのに、幻想を捨てられなかったばかりに……」
「……」
私は黙って首を振った。これは、お父様の責任ではない。なぜならーー。
「あの時ダニエル様に嫁ぐと決めたのは私ですもの」
そう、あの時ダニエル様を望んだのは私だ。
「アレクサンドラ……」
「だから、お父様、そんな顔を、しないでください」
ああ、けれども言葉が途切れる。堪えてきた涙が滲み出す。心が壊れてしまいそうだ。
私に幸せなんてもうない。ただ裏切るだけではなく、憎んで、陥れようとするなんて、男の方に心を預けることが怖くなっていた。
「ただ……ただ少しだけ疲れてしまったんです。少しだけ、休んでもよろしいでしょうか……?」