13.傾いた天秤
それからどれだけの時が過ぎたのかーーアンドリューに圧倒された謁見の間に、一人の貴族の不自然に明るい声が反響した。更にはいくつかの拍手が重なる。
「いや、いや、さすが陛下でいらっしゃる。我らには思いも付かぬ策を立てられる。これまですっかり謀られておりました!」
セリフの主は講和派の貴族であり、調印式にも出席していた一人だ。更に数人の貴族が口々に陛下を褒め称えた。
「正当な王太子殿下をお守りするためだったとは」
「ダニエル様もまことに忠義の方であらせられる。兄上のために身を張られるとは素晴らしき兄弟愛だ」
「これまでの褒美を差し上げるべきであろう。そうだ、愛する方とのご結婚と新たな領地などはどうだ? 多少相手の身分が低かろうと構わぬではないか」
その中には呆れたことに元開戦派の貴族もいる。
少なくとも調印式の場にいた講和派の貴族は、ダニエル様の「死んだはずだ」と言う悲鳴で、暗殺未遂の黒幕の見当など既についているはずだ。けれども、一切追求しようとはしない。恐らくお父様が脚本と舞台を用意した、この芝居の役者に徹しようとしている。
なぜなら、この場で重視されるべきは真実ではない。現在と今後の国内の力関係の変化と、ベルフォールの未来なのだ。彼らは一瞬で目まぐるしく移り変わる情勢を読み、アンドリューとお父様に分があると踏んだ。
「馬鹿な。そんな馬鹿なことがあってたまるか!!」
リリアンの取り巻きらが必死の形相でお父様に詰め寄る。
「ならばなぜ我々がその事実を知らなかった。私が、俺が、僕がその事実を知らなかった。我々の父上は陛下の側近なのだぞ!?」
お父様は目を細めると涼しい顔でこう答える。
「敵を欺くにはまず味方からと申します。それ以前に、陛下の側近はあなた方ではない。あなた方の父上であろう?」
虎の威を借るだけの狐が何を勘違いしているーー?とお父様は言外に含ませた。
その間、陛下の身体は小刻みに震えていた。陛下の頭の中は混乱の真っ最中に違いない。
お父様はそんな陛下に容赦なく告げた。
「陛下、アンドリュー様にねぎらいのお言葉を」
「……」
「どうぞ、王太子殿下復帰の宣言をしていただきたい」
お父様は陛下に暗にこう迫ったのだ。
ーーこの場でダニエル様を廃嫡しろと。
この世で最も愛する者を、他でもない自分自身の手で、表舞台から葬り去れと。
ダニエル様の王太子としての地盤はまだ弱い。恐らくリリアンを有力貴族の養女とし、その貴族が後ろ盾となる予定だったのだろう。それまでの繋ぎとして私と婚約し、お父様が後見人となっていた。ところが新たな後見人が決まる前に、ダニエル様は私を断罪してしまった。
私との婚約破棄は各方面に知れ渡っており、公式の手続きも既に進められている。お父様は二度と後見人を引き受けないだろう。あのような陛下の裏切りを許すほど、お父様も寛大ではない。
ダニエル様を今支えるものは陛下の寵愛だけだ。もしもダニエル様がこの六年間で努力し、実力をつけ、貴族らに味方を増やしていれば、情勢はまったく違っていただろう。ところがダニエル様は面倒なことから逃げ回るばかりだったのだ。
後ろ盾も実力も血統もない、陛下が寵愛するだけの王子がどうなるか。
よからぬ思惑を持つ者に利用されても困る。そのために今後は出来る限り中央から遠ざけ、自由を奪い、生かさず殺さずの扱いとなるのだろう。私ですら簡単に予想できる。何の力もない男爵令嬢・リリアンとの結婚は、むしろ力を削ぐために歓迎されるだろう。
アンドリューとダニエル様の立場が再び入れ替わるーー。
いいえ、それだけで済めばまだいい。ダニエル様は「新領地」で「行方不明」となるかもしれない。「うっかり」崖から足を滑らせるかもしれない。「不運にも」氾濫した川に飲まれるかもしれない。
陛下はその事態だけは避けたいはずだ。どうにかしてダニエル様に王位を継承させたいはずだ。ところが既にアンドリューの健在はアルザンにも知られている。再びアンドリューを廃してしまえば、今度こそアルザンが黙ってはいないだろう。締結された条約の今後も二国間関係も再び悪化する。
また、正妃の息子であるアンドリューを、廃嫡する大義名分ももうない。アンドリューはまったく健康なのだと、公のこの場で証明されてしまった。更には、アンドリューがどのような証拠を握っているのかもわからない。
陛下に追い討ちをかけたのが、謁見の間に飛び込んで来た騎士だった。
「……何事だ」
息を吐きようやく尋ねた陛下に、騎士が片膝をつき答える。
「は、はっ! アルザンよりアンドリュー様復帰祝いの書状が先ほど届けられました」
「……!!」
陛下の青い目がーーかつてアンドリューと同じ色だった目が大きく見開かれる。
アルザンの牽制だとさすがに理解できたのだろう。陛下は膝の上の拳を血がにじむほど固く握り締める。一方で、お兄様は薄笑いを浮かべていた。
「皆の者、ユーインの……ウエストランド公の述べた通りだ」
陛下が呻くように呟く。
「アンドリュー、大儀であった。以降は、王太子として力を尽くすよう」
陛下の声は小さく嗄れており、もはや老人のようでもあった。




