10.迎えに来たよ
条約の調印式は国境線から程近い、砦の街の市庁舎の広間で行われた。ダニエル様と私はお父様や従者に付き添われ、先方の外務大臣を初めとした、アルザンの代表団と挨拶を交わした。どちらも総勢数十人に上っていた。
互いに手を左右に広げ指を開く。これは武器を持っていない、敵ではないと示すものだ。続いて自分たちの身分を宣誓する。まずはダニエル様が腕を掲げた。
「我が名はベルフォール王国、ジョン五世の第二王子にして王太子、ダニエルである。この度父王に代わり調印に参った」
慣例通りならば、ここでアルザン側が「承知した」、といっせいに答える。ところがアルザンの代表からは、どれだけ時が過ぎてもその返答はなかった。皆、白けたようにダニエル様を眺めている。
「おい……?」
さすがに違和感を覚えたのか、ダニエル様が眉をひそめた。
アルザンの外務大臣がやれやれと首を振る。
「我々も舐められたものですな。こちらには王太子殿下を派遣すると聞いていたのだが、なぜ妾の子に過ぎない第二王子が来る? 第一王子のアンドリュー殿下はどうなされた」
ダニエル様が「何を言う?」と不快を露わにした。
「連絡は行っているはずだ。アンドリューは病のために寝たきりとなっている。政務を行える状態ではないのだ。よって私が正当な王太子となった」
アルザンの外務大臣がくく、と笑う。
「寝たきり、寝たきりか。ならば、我々が先ほどお会いした、あちらのお方はどなたなのだろうな?」
外務大臣がダニエル様を通り越し、背後にある開け放たれた扉を見た。ダニエル様と私もその視線を追い、同時に人の気配を感じて振り返る。
「……久しぶりだな、ダニエル」
一人の青年が広間に足を踏み入れた。ざわ、とその場の皆がどよめく。ダニエル様は「……お前は誰だ?」と尋ねるばかりだ。青年は皮肉げに笑うと、私達に一歩一歩近付いて来る。
「俺が分からないのか? 無理もない。昔の俺は髪も、目も、お前と瓜二つだったからな。……弟よ、あの地獄の底から帰って来てやったぞ」
ダニエル様はひっと息を呑んだ。たった今亡霊に出くわしたーーそんな顔をしていた。
「アンドリュー、なぜお前がここにいる。なぜ生きている!?」
ダニエル様のらしからぬ悲鳴に、私以外の全員が凍り付いた。
「お前は、死んだはずだ……!!」
その人の背は私ですら見上げるほど高かった。
その人の顔は青年らしく引き締まって端正だった。
その人の頬にはすぐにそれと分かる傷跡があった。
その人の髪は大地と同じ温かいブラウンだった。
その人の瞳は青に悲しみを混ぜたブルーグレーだった。
「おお……」とお父様の年配の従者が感極まった声を上げる。
「リチャード先王陛下……!!」
そう、その人は肖像画にある若かかりし頃の先代の国王、私のお祖父様に生き写しだったのだ。
お父様、従者が揃って胸に手を当て片膝をつく。
けれども、私にはそんなことなどどうでもよかった。ふらりと勝手に足が動く。一歩、二歩とその人に近づくごとに、心臓の音が大きくなって行った。
前に立った私をブルーグレーの瞳が見下ろす。
ああ、私は知っている。姿形は変わっていても、このひたむきな眼差しを知っている。
私は震える声でその人の名前を呼んだ。
「……ダニエル? いいえ、アンドリュー?」
ダニエルの、アンドリューの目が一瞬見開かれ、そのひたむきな眼差しがふと和らぐ。
「君は分かってくれたのか……」
アンドリューは私の手を取り優しく微笑んだ。
「迎えに来たよ、サンドラ」




