テントウムシ
テントウムシを知っているか、と聞かれて知らないと答える人はいないだろう。
いや、もしかしたらいるかもしれない。
そういう人はすまないけれど後で調べてもらいたい。
俺はテントウムシが好きだ。
いや、好きだった。
もう嫌いだ。
あんな虫絶滅してしまえばいいのにと思ってる。
それはすべて彼女が原因だ。
けど、きっと彼女はそんなこと考えていなかっただろう。
俺は友達がいない。
話す相手もいない。
ネットによく話す相手は何人かいるけれど、彼らを友達とは呼ばないだろう。
気が付けば一日誰とも話さずに生活することはあった。
長期休暇で声を交わしたのがスーパーやコンビニの店員だけだったこともある。
人はみんな俺を寂しい人だという。
けれど、俺はそれで十分なのだ。
人と仲良くならなければ、余計な感情も何も要らないのだから。
昔からずっと友達がいなかったわけじゃない。
もちろん小学生の頃は友達はいた。
些細なことで喧嘩して、そこから一人になって、中学では一人が楽だと感じるようになっていた。
話しかけられたら普通に話すし、体育でもペアは組めた。
学校生活に問題はほとんどなかった。
完全に一人になったのは高校に入る直前だ。
あの頃から俺は人と関わるのをやめた。
最後に関わった彼女との別れは最悪だった
高校受験が終わり、残すは卒業式の練習だけという時、俺は階段で給食を食べていた。
学校側の配慮で、最後の一週間は好きな場所で給食を食べていいということだったので友達と楽しく食べているクラスメイトたちとは離れたかったのだ。
本当は屋上へ出たかったのだけど流石にそれは許されなかった。
だから屋上の前の階段だ。
二人きりになりたいカップルがやってきたりしたけれどもちろん帰って行った。
俺は食べ終わって片付けた後もそこで時間を過ごした。
その時だ、彼女が現れたのだ。
足音が聞こえていたので俺には誰かが来ていることはわかった。
彼女の方は俺の姿が見えて驚いたようだった。
足を止め、キョトンとした顔で俺を見た後困ったように俺の前に立った。
「あの、そこをどいてもらえませんか?」
彼女は手に鍵を持ちそういった。
俺は全く意味がわからなかったので怪訝そうな顔をしたと思う。
「あの、そこだと扉があかないので…」
それでやっと合点がいった。
彼女は屋上に出たかったのだ。
何故鍵を持っているかは知らないが、屋上は立ち入り禁止だ。
通していいのだろうか?
「屋上が立ち入り禁止なの知ってる?」
「知ってます。けど私、園芸部なので」
園芸部が屋上に立ち入れるとは初耳だ。
でも鍵を持っているということは、借りたか預けられたということだ。
俺はそこをどいた。
「俺も見ていいかな」
ただ単純に、誰も入れない屋上で園芸部が活動することに興味があった。
誰も見ることのない花を育てる意味があるのだろうか、と。
「えっと、多分大丈夫」
ということで俺は彼女の部活を見ることにした。
そもそも彼女のことを俺は全く知らないのだけれど、どうしてだか見たことがある気がする。
そこまで大きくない学校で誰かを見たことなんてたくさんあるだろうけれど、そういうのとは違う。
はっきりと彼女の顔を見たことがある。
多分、同じクラスになったことがあるとかそういうことだろう。
上履きの色が同じだし同学年なのは間違いない。
「あの、中西君」
彼女が俺の名字を呼んだ。
と、言うことは彼女は俺を知っているのか。
「何?」
「見てて楽しい?」
「さぁ?」
楽しくはないかな。
そもそも園芸なんて興味もないし。
「そうなの」
彼女はすこしさみしそうな顔をしていた。
悪いことをしたなと思ったがまぁ気にしないでおこう。
「君は楽しい?」
蛇口から水を汲み、花にかける。
その行為のどこに楽しみを感じるのだろう。
「楽しくないよ」
「なら、どうして?」
「花が好きだから」
それだけか。
「それに私、運動とか苦手だし絵も楽器もダメだし恥ずかしがり屋だし」
俺と似たようなものか。
苦手なものから逃げて部活を選ぶと大抵そうなる。
俺の場合は文学部だけど。
「楽しくないなら、どうして見たいと思ったの?」
「少し興味があったから」
「花に?」
「屋上で活動することに」
彼女にはきっとわからないだろう。
俺にだって特に理由なんてないんだから。
昼休みが終わり教室に戻ると、同じ教室に彼女がいるのが見えた。
道理で見たことがあるわけだ。
彼女が小林さんと呼ばれているのを聞き、今更のように彼女の名字を確認してから俺は家に帰ることにした。
「こんにちは」
翌日、また彼女に屋上の前で出会った。
「どうも」
「中西君はみんなと食べないの?」
「1人が好きなんだ。それに、俺は誘われないからね」
「さみしくない?」
「ずっと1人ってわけじゃないから」
もう何度も繰り返した話だ。
面倒だったから俺はドアの前からどいた。
「小林さん、部活で来たんでしょ?」
「うん、ありがとう」
ドアを開け、屋上へ出ていく彼女を追いかけ、俺も屋上へ出る。
「また今日も?」
「聞きたいことがあってさ」
「私に?」
「そう」
屋上のフェンスに背中を預ける。
「なんでまだ部活なんてやってるの?」
俺たちはもう卒業生だ。
とっくの昔に引き継ぎもしている。
後輩にやらせてしまえばいいじゃないか。
「私がやりたいって頼んだの」
「後輩に?」
「ううん、先生に。後輩いないから」
後輩がいないのか。
ということは来年廃部になるわけか。
「私が卒業したらもうお世話する人もいないし。だから私今までずっとお世話してたんだよ」
「卒業した後はどうなるんだ、それ」
「わからないかな。持って帰れるならそうするけど鉢植えじゃないから」
多分、処分されるのだろうな。
それでも、まだ花の咲かない花に彼女は水をやる。
彼女も無駄な行為だとは思っているのかもしれない。
だって彼女の顔には寂しさが浮かんでいるんだから。
「中西君は明日も屋上に来る?」
「俺はずっとあそこで給食を食べる予定だよ」
「なら、明日も少し話をしていいかな」
話と呼べるほど会話をした覚えもなかったけれど、俺はその時うなずいていた。
「こんにちは」
「こんにちは」
「じゃあ、開けるね」
昨日とほとんど同じように俺は屋上へと出た。
けど、彼女は少し違った。
まず卒業式の練習に遅刻した。
そして頬に張られている湿布だ。
「今日は何かあった?」
「親と喧嘩かな」
少し驚いた。
喧嘩なんてしないようなおとなしい人だと思っていた。
俺が彼女の名前を憶えていないのもあまり目立ったことがなかったからだ。
「どうして?」
「親にね、高校に行きたかったって言ったらね、パンッって」
「高校に行かないのか」
「私、受験してないからね。親にそんな金はないって言われちゃって」
中卒で働くなんて聞いたことがない。
そもそも就職先なんてあるんだろうか。
「わがままだったかな、とか、別に言ったっていいじゃない、とかいろいろ考えてたらいつの間にか学校始まってる時間で」
「高校行きたかったのか?」
「うん、それに憧れてた。きっと楽しいだろうって。辛いことも苦しいこともあるかもだけど、最後には楽しかったなって思えるだろうって思ってた」
俺は彼女に何も言えなくなった。
彼女にかける言葉を持っていなかった。
「中西君は高校行くんだよね」
「うん。公立落ちたから私立だけどね」
「いいなぁ、うらやましい」
それっきり会話はなくなった。
居心地の悪くなった俺はあたりを見回し、目に入った赤い虫をつまんだ。
テントウムシだ。
まだ時期には早いような気がしたけれど、俺はつまんだテントウムシを手の上でつついたりして遊んでいた。
手にはあの黄色くて臭い液が付いたが、テントウムシが動き出して俺はどうでもよくなった。
「それ、何?」
「テントウムシだよ」
「もう出てくるんだね」
「俺もそう思ったけど、そうでもないのかもしれないね」
動き出したテントウムシは俺の手の上を歩き出す。
少しくすぐったい。
「好きなの?」
「虫の中では一番好きかな」
やがて指までテントウムシが歩いたところで俺はその指を空に向けた。
少しずつ上がっていったテントウムシは指の先まで行くとどこかへ飛んでいった。
「こうやって、てっぺんまで着くと飛んでいくのが好きなんだ」
「そんなこと言う人初めてかな」
「そう?小学校では何人かいたけど」
もう昔のことだ。
もしかしたら勘違いかもしれない。
その後しばらく会話もなくゆっくりした時間を過ごしたが、それは突然開いたドアの音に破られた。
「こんなところにいたのか」
担任の教師だった。
「小林、昨日も話しただろう。ここの花壇は春休みの間に撤去されるんだからもう世話をする意味はないんだ」
「それでも、あと数日はあります」
「二日だけだ。そしたら卒業式、終業式が行われて、次の日にはもう工事が始まる」
「二日あります。その間だけでも世話をします」
彼女はそれきりしゃべることはなかった。
困った教師が頭を振り、ようやく俺に気が付いた。
「お前は?」
「見学です」
「なら屋上から出ていきなさい。関係ないんだろう?」
向こうのほうが圧倒的に正しいと思ったから俺は仕方なく屋上を出た。
なぜか担任も一緒に出てきた。
「なぁ、小林があそこまであの花壇にこだわるか知らないか?」
「知ってると思いますか?」
「そうだったな」
担任はあっさりとそう認め階段を下りて行った。
それは気にしないことにして、俺は屋上のドアを少しだけ開けた。
そしてそっと閉めなおした。
そっとしておいたほうが良いと、そう思ったからだ。
彼女は、フェンスにもたれかかって泣いていた。
明日は卒業式。
教室の雰囲気はいつも以上に変わっていた。
別れを惜しむ声ばかりが聞こえる。
もうすでに少し泣いている人すらいる。
そんな中俺は、まだ現れない彼女の席を見つめていた。
「二日ありますから」
彼女のあの一言が引っかかっていた。
自分では人を見る目があると思っている。
だからこそ、あんなに頑なな態度をとる彼女が少し不思議だった。
きっと何か理由があるんだろう。
演劇部だからとか、たった一人の部員だからとか関係なく、彼女自身にそうする理由がきっとあったんだ。
その理由を聞いてみたくて俺は彼女が来るのを待っていた。
どうせ昼休みに屋上でしか話なんかしないのに。
けれど彼女はまた遅刻をしたようで、結局彼女は現れなかった。
昼も俺は彼女を待ち続けた。
掃除の時間になっても、午後の卒業式練習の時間になっても、帰りの時間になっても彼女は現れなかった。
教師たちが何やら騒いでいるのが聞こえた。
クラスメイトもなんだか心配になっているようだ。
ただ、所詮はそこまでだった。
帰るころには誰も彼女の心配はしていなかった。
担任によると、今日は休んだが明日は必ず学校へ行くと言っているらしい。
昨日あんなこと言っていた彼女が今日休むだろうか?
俺はそんなことはないと思う。
下駄箱へと行くクラスメイトとは別れ、屋上へ足を向ける。
案の定屋上につながるドアの鍵はかかっていなかった。
ドアを開けると夕焼けが眩しかった。
「小林さん?」
屋上には誰もいなかった。
でも鍵は開いていた。
花壇に近寄ると、土が湿っているのが見えた。
「小林さん、いるんでしょ」
「こんにちは、中西君」
声が聞こえた。
横ではなく、上から。
彼女は屋上のさらに上、出入り口の上にいた。
「今日は休みだって聞いたけど?」
彼女はしっかりと制服を着ていた。
「そうだよ。だからずっとここにいたの」
昼寝でもしていたのだろうか。
「突然だけど、少し話をしてもいいかな」
「いいよ」
本当に突然すぎて驚いたけれど、どうせ今日も家に帰ったって何もすることなんかないんだ。
時間が潰せるならなんだっていい、という軽い気持ちだった。
「私ね、今までずっと親の言いなりで生きてきたの。こうしなさいああしなさいって全部決められて、それに従って生きてきたの」
すぐに後悔した。
軽い気持ちで聞くような話ではないと、その時点で気が付いた。
「多分ね、私が高校に通うぐらいのお金はあるんだよね。でも、それを決めるのはお父さんとお母さん。高校に通うのは無駄だって二人は思ってるんだろうね。私の意思なんか関係なしに」
それはとても重い話だった。
出会って一週間もしていない俺に話していいのかと疑問に思ったが、彼女が話をつづけた。
「そんな中、たった一つだけ私が自分で決めたのが中学の部活なの。お金のかからない部活なら何でもいいって言われて、選択肢は少なかったけど初めて自分で選んだもの。だからいつも一生懸命にやってきた」
「先輩がいなくなっても、後輩が入らなくてもずっと一人でやって来た。それが今、失われようとしてるの。私はとても悲しくて、ずっとどうすればいいか考えてた。ちょうど今君が来たとき、答えが出たの」
「とりあえず降りてきたら?」
首が痛い。
数分でもずっと上を見上げ続けるのはこんなにも疲れるのか。
「そうだね。もう遅いし、少ししたら帰ることにするよ」
「明日は卒業式だからな。三月って言ってもまだ夜は寒いし、風邪でも引いたら大変だ」
俺は、こんなにも人の心配をする人間だっただろうか。
そうじゃない、そうじゃなかったはずだ。
それでもそうしてしまうほど彼女は危なかった。
だって、彼女の笑顔はとても恐ろしい笑顔で、俺の知る普段の彼女とは全く別人だったからだ。
「そっか、明日は卒業式か。大丈夫だよ、私はしっかりと卒業するから。」
彼女はそういうとその場所から飛び降りた。
危なげなく着地する彼女はまさに別人だった。
昨日まで俺が話をしていた彼女はいったいどこの誰だったのだろう。
「じゃあね、中西君。また会えるといいね」
そのままさっさと屋上から出て行ってしまう。
また会えるといね?
明日卒業式に出るなら会うに決まっているだろう。
そうじゃないというのなら、いったい彼女はどう卒業するというんだ。
嫌な気がして、俺はドアに駆け寄る。
思い切り開けようとすると何かがぶつかってドアが少ししか開かない。
隙間から覗き込むとどうやら机が邪魔してるらしいことが分かった。
ドアに体当たりするようにして無理やりこじ開けると転がるように階段を降り、下駄箱まで走る。
それでも彼女には追いつけずに俺は下駄箱で呆然とするだけだった。
翌日、彼女は言葉通り卒業した。
卒業式には参加していなかったが、ちょうどその時間に屋上から飛び降りて死んだ。
屋上の、さらに上のあの場所から。
ちょうどテントウムシが指の一番上まで行くと飛んでいくように。
ただ、彼女には翼がなかったからそのまま落ちて行ってしまったのだ。
高校の校舎の、屋上。
屋上は嫌いだ。
けど、この高校で一人になれる場所はここか図書館ぐらいだ。
図書館は昼になると利用者が少なくない。
だからどうしても昼休みは屋上に来ることになる。
嫌な思い出しかない。
それでも俺は一人でいたいから、屋上にいるしかない。
目の前を赤い虫が飛んでいく。
伸ばした手で捕まえたそれはテントウムシだった。
テントウムシに罪はない。
けれど、その虫はどうしても彼女のことを思い出させるから、丸めたアルミホイルを潰すようにその虫を握りつぶした。
やるせない気持ちになって俺は屋上のタイルを見つめた。
いつの間にか、テントウムシが嫌いになっていた。