閑話休題 嶋村とミカ子の会話
BGMというには些か騒々しい。
がやがやと他人の会話が錯綜する駅前のファストフード店の最奥。
窓際に配置された四人掛けの椅子に深めに腰を下ろして、嶋村時生はつい先ほど立ち寄った書店で購入したばかりの文庫本を読みふけっていた。
入店した時に注文したのは、三日前に発売が開始されたばかりの外国の都市をモチーフにした派手なハンバーガーのセットとアイスカフェオレ。
僅か十分足らずでそれらをぺろりと平らげてしまった時生は、余った待ち時間を消化するために、と読書を始めた。
ほんの少しのつもりで読み始めたのだが思いのほか夢中になってしまった。
そう時生が気付いて顔を上げる気になったのは、その場の空気が俄かに張り詰めたのを敏感に察知したからだった。
ざわ、と震える空気は毎度のことで、時生自身はもうそれに慣れてしまった。
時生は読みかけの本にしおりを挟むと、フロアの向こうからゆったりと優雅に歩いてくる待ち人に手を挙げた。
「ミカ子! すまん、こっちだ」
離れた所から見ても分かる長身の美女は、大きなサングラスに覆われた顔に笑みを浮かべて時生に向かって手を振り返した。
そんな二人のやり取りに、周囲の空気が再びどよめき立つ。
赤の他人から一斉に注目を浴びるのは相変わらず好きになれないが、こんなことを十年以上も続けていれば、否が応にも慣れるというものだった。
「なによ、時生もう食べちゃったの?」
「すまん、腹が減ってた」
オレンジ色のトレーに時生と全く同じメニューを載せた女は、もう、と小さく嘆息して時生の正面に腰を下ろした。
「にしても、暑いね」
大きなサングラスを外してテーブルに置くと、ミカ子はさらりと伸びたストレートの黒髪を肩の後ろに払って微笑んだ。眉の上できっちりと切り揃えられた前髪も、それに合わせて微かに揺れる。
匂い立つような華やかな美貌に、周囲から息を呑む気配が伝わってくるのが分かった。
相変わらず、と時生は苦笑する。
高校の卒業式以来、ミカ子と会うのは今日が初めてだった。
* * *
時生の幼馴染のミカ子はこの場の誰よりも美しい。
本物のモデルでも近くにいない限りは、大抵毎回ミカ子がその中で一番美しいということになってしまう。それくらい美しい女だった。
黒いホットパンツからスラリと伸びた足は百七十センチに届く長身の半分以上を占める。勿論、そこに余分な肉など一切なく、その美しい脚線は、今はホットパンツとセットになった黒いレースのニーハイソックスに包まれていた。
細い上半身を覆うのは生成りのシフォンシャツで、そのふわりとしたガーリーテイストな素材はくっきりとした目鼻立ちの美貌と上手く釣り合いが取れている。
大きく空いた豊満な胸元は赤いレースキャミソールが彩り、大柄な薔薇のアンティークチョーカーが細く長い首元をきらきらと飾っていた。
まるで、何かのアニメキャラクターのようだ、と。
そう評価してもなんら見劣りしない作り物のような美貌を持った同級生の姿に、時生は感嘆の吐息を漏らした。
「さすがだな~ミカ子。それ、薔薇獄の二巻の表紙だろ?」
「うーん嬉しい。気付いてくれるのはもうアンタだけね」
「いや、どうだろう。多分それでジャンク堂書店の少年漫画のコーナーを歩いたら絶対に皆わかると思うよ」
「そうかな~」
大きなハンバーガーを大きな口で頬張りながら、ミカ子は楽しそうに頬を緩ませた。
ミカ子の本名は、成田香奈枝という。
本名と呼び名が一文字も合っていないことの理由は実に簡単だ。
成田香奈枝の溺愛する少年漫画『薔薇よ、荊の牢獄に啼け』のヒロインが『神城ミカ子』という名で、香奈枝はその世界では知る人ぞ知る『ミカ子』のコスプレイヤーなのである。
こうして外出のたびに『神城ミカ子』のコスプレをして出てくるものだから気付いたときには、『ミカ子』という呼び名で自他ともに定着してしまっていた。
だが、その誰もが息を飲むほどの絶大な美貌のおかげか、驚嘆や憧憬の視線を浴びこそすれ蔑視の視線を浴びたことは今までに一度もなかった。
どんなに派手な格好をしても少し度の過ぎたセレブモデルのように見えてしまうみたい、とはミカ子本人があっけらかんとした表情で言い放った台詞である。
「それで?」
ミカ子はアイスカフェオレでハンバーガーの最後の一口を流し込むと、ポテトを咥えながら時生をちらりと睨みつけた。
「『俺の嫁』がどうしたって?」
時生は思わず緩みそうになる口元を片手で押さえて、小さく咳払いをした。
あの日、大学のキャンパスで起きたとんでもない奇跡の時間を思い起こすと、自然と顔がにやけてしまってしょうがない。
「なによ、気持ち悪いわね。さっさと言いなさいよ、あのメールの詳細を!」
もしゃもしゃとポテトを五本ほど一気に口内に詰め込んで咀嚼しながら、ミカ子は焦れたようにスマートフォンの画面を開く。
「ほら、なにこれ、どういうことよ!」
ずい、と突き出された液晶画面には数日前、時生がミカ子に送ったメールの本文が煌々と映し出されていた。
『ついに俺の嫁のメルアドをゲトした。奇跡すぎて泣く』
短い、たったそれだけの文章だったが、その文面だけで自分がいかに興奮していたかが読み取れる。
これは、あの奇跡のアドレス交換の直後、ミカ子に勇んで送ったメールである。
「詳細もなにも、そのままだよ」
「じゃあなに本当にメルアド交換できたの?時生の妄想じゃなくて?」
「妄想とか言うなし」
泣けてくるだろ、と誰にともなく呟きながら、時生は自らの携帯電話をポケットから取り出した。鈍く光る携帯電話の画面に呼び起こしたのは、時生が憧れてやまない同級生の電話帳登録画面。
交換してからはまだ一度も活用したことがない時生の宝物だった。
「おら、どうよ」
誇らしげにそれをミカ子の眼前に翳して、時生はふふんと得意げに鼻を鳴らす。
しげしげと眺めたミカ子は満足そうな顔でニタリと口の端を釣り上げて笑った。
「確かに西松英助の登録だわ。やるわね、時生」
「この日はマジ口から心臓が出るかと思ったけどな」
携帯を服のポケットに戻して、時生はソファに深くもたれかかった。
あの時の尋常でなかった自身の鼓動の音は、まるで昨日のことのように、今もまだ耳にこびりついている。
「なによぅ、大袈裟ね」
「だってしょうがないだろ――」
「好きなんだもんね」
好きなんだから、と言いかけた言葉尻を浚われて時生は思わず眉をしかめた。
「人のセリフを、貴様」
「事実でしょ?私、嘘言った?」
意地悪な微笑みに、時生は無言で首を横に振る。
ミカ子には、今まで時生の身に起こったありとあらゆる出来事をすべて包み隠さず話してきた。それはミカ子にしても同様で、常に兄姉の様に寄り添ってきた二人の間に隠し事があったことは過去に一度たりともない。
それこそ時生は、ミカ子に初めて生理がきた日のことを知っているし、逆にミカ子も、時生に初めて精通が訪れた日のことを知っている。
「ねえ、時生」
ミカ子はポテトをつまんで、それをふらふらと揺らしてもてあそんだ。
その視線は時生ではなく、自らのつまんだポテトの先端をじっと見つめている。
「今度はさ、大丈夫なんだよね?」
唐突な言葉は、まるで泣いているかのようで。
一瞬だけ動揺して肩を揺らした時生は、ちらり、とミカ子を上目に見やった。
「時生、もう平気?」
涙を堪えたような笑みを張り付けて、そう問いかけたミカ子の小さな言葉に胸の奥が僅かに軋みを上げる。
切なげに眦を下げた、その表情の意味を、時生は痛いほどに理解できていた。
だから、うん、とだけ小さく喉を鳴らして頷く。
指に挟んだポテトをトレーに戻して、ミカ子は顔を上げた。
「あれは、時生のせいじゃないんだよ?」
囁くような声は、微かに震えているようだった。
今にも泣きそうなほどに歪められた表情が、ひどく痛々しい。
「わかってるよ。てか、なんでお前が泣きそうなんだよ」
「うるさいわね。私にとってもあの時のことは――」
ふ、とミカ子の言葉が途切れる。
眉間に刻まれたしわが、その禍根の深さを物語っていた。
「……ミカ子」
「あの時のことは、私もまだやりきれないのよ」
「……うん、俺もだよ」
あの日、あの時、起きてしまった、あの出来事を。
時生自身、忘れたことは一度もなかった。
強く思い起こすと、今もまだ心の奥がずっしりと重たくなるのがわかる。
「しょうがないよ。俺はそれを忘れちゃいけないから」
「でも時生のせいなんかじゃない!」
悲痛な面持ちでそう吐き捨てたミカ子の優しさに、時生は思わず微笑んだ。
誰よりも時生のことを理解し、慈しんでくれるミカ子の存在に、これまで何度救われたかわからない。
「あんたは、あんたのままでいいんだからね!」
力強い、その言葉を聞くのもこれで何度目だろう。
親にすらカミングアウトできないでいるゲイという己のセクシャリティを打ち明けた時とまったく同じセリフで強く言い放ったミカ子に、時生は感謝をこめて笑いかけた。
「ありがとな」
「当たり前でしょ」
中学一年生の夏の、あの日。
己の性嗜好を認識した日から、時生はずっとミカ子に支えられて生きてきた。
「時生が立ち直れるなら、私は西松英助とやらを認めるわ」
「なんでお前に認めてもらわなきゃならん」
「だって私は時生の保護者ですもの」
居丈高ににやりと笑ったミカ子の優しさに、時生もまた悪態をつきながら笑い返した。
いつか、自分のパートナーとして、自分の想い人をミカ子に紹介できたらいい、と。
時生は何度も思い描いた願いを再び胸の内にそっと抱いた。
自分のセクシャリティを打ち明けて、耐え切れずに咽び泣いた時生に『人が人を好きになることの何を恥じる必要があるのか』と、そう怒ってくれたミカ子という親友にこそ。
いずれ、自分のパートナーを紹介したい。
できれば、その人物は、あの太陽のような笑顔の青年であってほしい。
そんなことを考えて、時生は欲深な自分に思わず苦笑した。
「でも、本当にいい奴なんだよ、西松くん。きっとミカ子も好きになるよ」
「ならねえよ、バカか」
「そういう意味じゃなかったんだけどミカ子は相変わらずの年下食いなのか、変態」
「入試の日からずっとストーカー並みにガン見し続けた本物の変態に言われたくないね」
「マジそれ言われたら俺は絶対に負けだからね」
あーあ、と愚図った声で天井を仰いだ時生にミカ子はけらけらと楽しそうに声をあげて笑った。
* * *
全てが暗闇に塗り潰された、あの呪われた美しい思い出の日から、あらゆる色を亡くしてしまった時生の中に差し込んだ一縷の光。
その清廉とした衝撃の眩しさを。
いまだに時生は忘れられないでいる。
膿んで爛れた黒い闇の中に、それが唯一ぽっかりと浮かんで輝いた、ただ一つの希望だったから。
『あー……すんません、消しゴム持ってませんか?』
『……え?』
入試の席の左隣。
自分にかけられた声なのかと思って左側を振り向いたとき、だがそこに座っていた明るい髪色の青年は反対側を向いて、自分ではない別の相手から消しゴムを借りていた。
間違えた、自分じゃなかった、と。
余りの恥ずかしさに一瞬で顔が熱くなった。
中途半端に発してしまった声は思いのほか良く響いて、そうなると最早後の祭りだ。
消しゴムを借りて正面を向いた左隣の青年は、だが、無駄に振り向いてしまった自らの右隣に気付いていたのか、こちらを向いて全力の笑顔で、すまん、と言った。
『ありがとう。こっちから借りりゃよかったかな』
その屈託のない笑顔の、あまりの美しさに、自分は息を呑むことしかできなかった。
射抜かれたなんてものではない。
鷲掴みにされた心臓は今にも胸を突き破って出てくるのかと思うほど。
うまく言葉にならず、どもった声で素っ気なく返事をするしかなかった自分は、きっと良い印象ではなかったに違いない。
そう思ったが。
塞ぐことなど出来ない輝きに。
目が眩むほどの激しい衝撃に。
太陽のような絶対の美しさに。
ただ、時生は落ちるように恋をしてしまった。
一瞬で燃え上がったこの想いが。
どうか、どうか。
知られてしまいませんように、と。
激しく鼓動を打ち鳴らす胸の奥、甘い痛みを抱えて。
ただ、時生は祈るように恋をした。
どうか、彼ともう一度、逢えますように。
Fin.
ご拝読有り難う御座いました。
この『閑話休題:嶋村とミカ子の会話』を含めまして『第一話 視線接触』は完結となります。
今後とも、西松英助と嶋村時生の不器用な恋愛事情にお付き合いくだされば幸いです。