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視線接触  作者: 玉露
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   ***



 熱心に語る教授の声を一から十まで、すべて上の空で聞き流した英助は、だが『今日はここまで』という教授の声だけははっきりと聞き取った。

 授業が終了するや否や手荷物を雑多にまとめあげて、すっくとその場に立ち上がる。

 隣でのんびりと筆記具を片付けていた松戸は、お、と声を上げた。

「なに、本当に聞きに行くの? うけるんですけど」

 茶化すように声を躍らせる松戸のらんらんと輝く双眸を一瞥して、英助は無言で肯く。

 ぐだぐだ考えているくらいなら、いっそ聞きに行ってしまったほうが手っ取り早い。

 そう言った松戸の言葉は、やはり正論である。

「やっぱ、気になるだろ。あんだけ見られると」

「おう、行って来い行って来い。告られたら教えろよ」

 笑い含みの松戸の軽口には、うるせえ、とだけ投げやりに応じて、英助は鞄を肩に担ぐ。

 少しだけ早足で向かった先は教室の前方。

 のろのろと授業の片付けをしている学年総代表の座っている席だ。

 授業を終えて、続々と教室の後方に流れていく学生たちに謝罪をしながらその波を掻きわけて英助は狭い通路をさくさくと進んだ。その途中、何人かの顔見知りに声をかけられたりもしたが、それには適当な挨拶だけを返して先を急ぐ。


 学年総代表は、驚くことにまだ荷物整理をしていた。

 その動きは緩慢で、見ている方がじれったくなってしまう。

 そんな男の真横に辿り着いた英助は、つと視線を下げて、なんのセットもされていない黒い髪を見下ろす。長袖のTシャツも黒であつらえられ、勿論図ったようにデニムもブラック。

 全身黒づくめの同級生は、だが、英助の存在にはわき目もふらず、ただ黙々と鞄の中身を整えていた。

 その前方に回りこみ、今は携帯電話だけ置かれている机を、こん、と指先で叩く。

 無表情に顔を上げた男の視線が英助を捉え、瞬間、ぴしりと音が聞こえてくるのではないかというくらいに、その男はものの見事に凍りついてしまった。

 ずるり、と眼鏡が鼻先にずり落ちても、彼は目を見開いたまま微動だにしない。その双眸は困惑と驚愕を訴えて、ただ、英助の顔を茫然と見上げている。

「わかる?」

 短く、それだけ尋ねた英助に、男は目を白黒させた。

「え」

「なんで俺が来たかわかる?ってこと」

「え、あ」

「なんで、見てくんの?」

 ぐ、と喉を詰まらせて、学年総代表は薄い唇を真一文字に引き結んだ。

 挙動不審に泳いだ黒い瞳が何もない空間を何度も行き来する。

 それは、まるで子供のように落ち着きのない動揺で。

 体裁など取り繕っている余裕なんて一切ないと言わんばかりである。

「……み、見てな」

「見てないとか言わせないけど?」

 遮った英助の言葉に言い返すでもなく、総代は俯いて再び口籠った。

 よくよく見れば線の整ったシャープな顔立ちをしているのに、その低く耳朶を打つくぐもった暗闇のような声と、背負った虚ろな雰囲気が、どうしても根の暗い印象を与えがちになってしまっている。

 勿体ない、と。

 きっと磨けば光るタイプなのに、と。

 おろおろする同級生を見下ろしながら、英助はそんなことをぼんやりと考えてしまった。

「おい、ニシ!」

 不意に自分を呼ぶ声がして顔を向けると、二列向こうの通路に帰り支度を終えた松戸が立っていた。

 にやり、とその口元が茶化すように歪む。

「なんだよ」

「俺、先行くけどお前この後の飯どうする?」

「飯?」

 それはきっとこちらの様子を見に来るための建て前なのだろう、と英助はややうんざりした面持ちで短く溜め息を零した。どのみちこの二限目が終わったら三限目が始まるまでは昼休みに入るわけで、昼食をとることは言わずとも知れている。

 ましてや、英助と松戸は時間が合う限り常に昼食を共にしているのだから、そんなことを今更聞く必要はない。

「なに、いつもの学食じゃねえの?」

「いや、太田からメール入ってさ。俺、三限休講になっちまった」

「え」

 意外な言葉に、さすがの英助も思わず目を瞠る。

 だが、実はそれすらも自分たちをひやかしにくる口実かもしれない、と英助は猜疑心をあらわにして、眉を潜めた。

「なに。それマジで言ってる?」

「マジマジ!これは本当にマジ」

「松戸、三限なんだっけ」

「民事訴訟法」

「ああ、そうか。お前の民訴って太田と秋山と同じやつか」

 自分は、この曜日の三限目にはどうしても原口教授の西洋文学史を選択したくて民事訴訟法の授業だけ別のコマに回したのだった。

 つまり、松戸はもう『上がり』ということである。

「なんなら飯付き合うけど? 俺はもう今日は食って帰るだけだし」

「なんだよ、ずりいな」

「俺のせいじゃねえだろ、教授に言え」

 へへへ、と頬を緩ませる松戸を一瞥して、英助は嘆息しながら目の前の男を見下ろした。

 さて、どうしたものか、と真っ黒い頭部を見て考える。

 英助と松戸が会話をしている最中、ずっと押し黙っていた総代は、ちょうど目線を下げた英助と同じタイミングで顔を上げ、またもやばっちりと目が合ってしまった。

 それなのに気まずげな顔をしてぱっと視線を反らすものだから、いよいよ英助も腹に据えかねてきた。

 自分から見てきておいて、この態度はどうしたことか。

 言いたいことがあるのならさっさと言えばいいのに、と小さく舌を打つ。

「いや、いいよ」

 と、英助は松戸に軽く手を上げた。


「俺、こいつと一緒に食うわ」


「え!」

 ぎょ、と目を見開いて顔を上げた総代の方はあえて見ずに松戸を向くと、同級生は面白そうに、にんまりと笑って頷いた。

「りょーかい。んじゃ、また」

「おう、またな」

 軽い挨拶を交わして去っていく松戸の背中を、総代の頼りなげな双眸が呆然と見送る。

 お前は捨てられた子犬か、と思わず突っ込みそうになって、英助は唇を引き結んだ。

「ところでさ」

「え」

「次のコマ、俺と一緒でしょ。西洋文学史」

「あ、え……と」

 気まずげに声を漏らした男の表情で、やはりな、と確信する。

 そもそも、この男から送られてくる視線に真っ先に気付いたのが、この西洋文学史の講義のときだった。

 そういえば何処かで見たことがある顔だな、と思って敢えて気にして見てみると、驚いたことに必修科目のほとんどが英助と同じ時間組みをしていた。まるで、狙ったのではないか、と思わず疑ってしまうくらいには、それはあからさまだった。

「まあ、別にお前が何の授業取ってても構わないけどね」

 押し黙る男の、端正な顔立ちをじっと見つめる。

 英助自身も、まさか本当に狙った、とまでは思っていなかった。他人の、それも面識のない相手の、自由に組んだ時間割を把握することなど度台不可能であるからだ。

「原口の西洋文学史、面白いって有名だったしな」

「そう! 俺、すごい好きなんだよ!」

 途端、がば、と顔を上げて大きな声を出した男の豹変ぶりに、英助はぎょっと目を剥いて息を詰める。

 らんらん、と輝くその瞳は、先程の根暗なそれとはもはや別人である。

「え……なんなわけ、そのテンション」

「あ、ご、ごめん。でも俺シェイクスピア好きで、だから……」

 決して狙ったわけではない、と言いたいらしい弱々しく尻すぼみになっていく声に、英助は呆れたような吐息を吐き出した。

 可哀想、というか、なんだか兎角呆れるくらい不器用な男である。

「いや、別に俺も疑ってねえよ。時間割狙うとか無理なのわかってるし」

 英助の言葉に、総代は心底ほっとしたような顔で笑むと胸を撫で下ろした。

 実際に、授業がかぶってしまうことは然して珍しいことではない。取りたいコマを調整しているうちに意図せぬ人物と時間割りが似通ってしまう、ということはままあった。

 自分が聞きたいのはそこではなくて、こちらを注視する視線のことだ。

「とりあえず、飯。学食でいい?」

「え!」

「なに、ほかに飯食うヤツいたりする?」

 失礼な話だが、英助としてもまさか総代に昼食の相手がいるとは思っていなかった。それを見越して声をかけたのだが、芳しくない相手の反応に一瞬だけ小さな苛立ちが湧き上がる。断られるかもしれない、という考えは端から抱いていなかったのだ。

 だが、総代は無言のまま首を横に振って、昼食を共にする相手がいないことを示した。

 なんだよ、と心中でひっそり独りごちて、がくりと膝を折る。

「じゃあよくね? それともなに、俺と食うの嫌?」

「別に嫌とかじゃない、です。そんなこと、ない」

 ないです、ともう一度確認するように総代は消え入りそうな声で応じた。

 その瞳だけが、おろおろと揺れ惑いながら英助を見上げてくる。

 ここまで消極的な態度の同級生を未だかつて相手にしたことがなかったため、英助としても今一つ掴めない相手との距離感に戸惑いを隠せなかった。

 つまり、これは昼食を共にする、ということでいいのだろうか、と。

 英助は誰にともなく胸の内で反芻して、うん、と誰にともなく頷いた。

「なんか、まどっこいけど。じゃあ決まりでいいよな、はい移動」

 ぱん、と手を打って、既に誰もいなくなってしまった通路を歩き始めた英助の後ろを、よろめきながら総代のすらりとした体躯が追いかけてくる。

 なんだか捨て犬を拾った気分で、こういうのも新鮮に思えてくるから不思議だった。

「ねえ。ま、まどっこい? って、なに?」

 背後から、おどおどした声が耳朶を打つ。

 自分のそれよりも奥行きを感じる低音は、微睡むようで耳に心地よい。

「いい声だなぁ。え? 言わない? まどろっこしい的な」

「い、言わない! 変だと思う、日本語」

「うるせえな。これ皆に通じるけど日本語じゃねえの?」

「違う、と思う」

 学年総代表が言うのだからきっとそうなのだろう、と。

 英助は肩からずり落ちそうになる鞄を担ぎ直して、ちらりと笑った。

 

 まどっこい。

 こんなテンポの半拍ずれたような会話、まどっこい以外の何ものでもない。

 だが、決して退屈ではない、と英助は思った。



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