[8] 皮肉な世界
あれから数日経ったが、その間毎日、昼夜問わずに世捨て人は常世へ現れた。今まではこれほど頻度が高くはなかったし、まして昼間には出なかったものだから、境界人がいくら交代で出ようとも疲労の色は隠せずにいた。
『なあ神楽。そろそろ話してくれてもいいんじゃないか?』
神楽の部屋の中、夏眼は唐突にそう言った。
「何をだ?」
『世捨て人……あの頻度は異常だ。まして昼中に出るなんて、今までにないこと。その割りにはお前は随分と冷静なもんだな。――何か隠してるんじゃないのか』
「俺は何も知らない。どうしてそんなことを聞くんだ、夏眼」
『本当に何も?』
「嘘をついても何の得にもならないだろう」
神楽は腕組みして目を閉じる。寝るつもりなのだろう。今も他の境界人が常世へ降りている。今夜もどうせ世捨て人が現れるのだろうから、そのために合間を縫って寝ておかなければ体力がもたないのだ。
夏眼は仕方なく尋ねるのを止めて、眠りについた。
夏眼がすっかり寝入った頃を見計らって、神楽は静かに立ち上がり、部屋を出た。
屋敷の中はどこも静まり返っている。皆、疲れ切っているのだから仕方なかろう。ただ一つ聞こえる、葉月の声を除けば。
七草も多忙のため、今は鶴雅のところにいる葉月だが、どうやら彼にも懐いているようである。一番奥の長の部屋に、神楽は向かっていた。それに連れて葉月のはしゃぐ声が大きくなって聞こえてくる。
「長、神楽です」
襖の前で名乗ると、中から楽しそうな声が返ってくる。
「ああ、あなたですか。ちょうど良かった、入りなさい」
言われるがままに襖を開けると、壱乃の背に跨ってはしゃぐ葉月がいた。
「あ、かぐらお兄ちゃん!」
神楽を見つけると、葉月は壱乃から降りて神楽の方へやってきた。嬉しそうに腕に纏わりついてくる葉月を見て、神楽が助けを乞うように鶴雅へ視線を送ると彼は細い肩を竦めてみせた。
「どうしても君と遊びたいらしくて……困ってたところですよ」
それを聞いた神楽は呆れて溜め息をついた。
「子供と戯れている時間はない。それくらい、あなたも分かっているはずだ」
強い口調で神楽は言い切った。葉月がその声に少し驚いて顔を上げた。
「分かってます。分かっていますとも。今のこの状況も、これから起きようとしていることも、その恐ろしさもね……」
「なら――」
『ちょっと待って』
壱乃が二人の会話を遮った。
『こそこそ盗み聞きなんて良い趣味とは言えないよ、夏眼』
襖の外で黒い陰が動いた。もちろんその影は夏眼のものだった。
『ばれてたのか』
夏眼は襖の奥で呟いた。
「葉月、夏眼と遊んでおいで」
「えー……かぐらお兄ちゃんは?」
「神楽お兄ちゃんは、ちょっと私と話がありますから。あとできっと遊んでくれますよ」
「……うん、わかった」
部屋から出て行った葉月の足音が遠ざかってから、神楽は再び口を開いた。
「全てお見通し? なら、なぜ何もせずじっとしている」
「逆に聞きたいくらいですよ。私は何をすべきなのでしょうか」
「それは全てを知っているあなたこそ、知っているはずだ。俺には分からない」
「百鬼のことは、知っているでしょう」
「多少な。あなたほどではない」
「それはもちろん。だが今は何もしない方がいいでしょう。あちらはこちらの様子を知る手立てがありますし――もちろん世捨て人によってもたらされる情報がそれにあたります。逆に私たちには為す術は何も……圧倒的に不利ですよ」
「――ならば、こちらから乗り込むのみ」
鶴雅と壱乃は目を見開いた。
『そんな……無茶に決まってる』
「危険過ぎます。あなたは――神楽、君はいつもそんなことばかりですね。他人に無茶を言われるようなことをしようとする。ですが、今回ばかりは融通が利きません。君ももう十九歳でしょう、それくらい分かってるはずでしょう?」
「ただ待っているだけではどうにもならないことも確かだ」
ふう、と鶴雅は溜め息をついた。壱乃はその傍らで、呆れたように首を左右に振った。
「君にはいつも圧倒されてしまいますね……。分かりました。神楽、一日待ちなさい。こちらも手立てを考えなければ。七草の協力も必要です。それに他の面々に対しても説明を」
神楽は頷いて立ち上がった。そして立ち去ろうとするその背中に、鶴雅は言葉を投げる。
「神楽――あまり無理をしないように。目の下に隈が見えますよ」
「……気のせいだ」
さっと襖を開けて神楽はその向こうへ消えた。
* *
皮肉なものだ。
世捨て人が出るたびに常世へ降りる。そのときに初めて、今は昼なのだと気付くのだ。この狭間には、時間の感覚など必要ない――。
自分で納得してこの世界に入った日がどれほど前になったのかも錯覚するほど、この世界は曖昧だ。
七草は誰よりもこの世界をよく知っている。鶴雅より、神楽よりも早くこの世界に身を置いて生きているのだ。今で三十代の彼女がお屋敷にやってきたのはもう二十年以上前のことだった。
昔から蟻や蜂などの虫が好きだった。変わっているとよく言われたことを、今は懐かしく思う。中でも八本足の蜘蛛が一番のお気に入りで、遊んだ帰りには両親が嫌がろうとも家の中に蜘蛛を連れて帰ったりしていた記憶がある。それは今も名残を残し、『蟲使い』の名に相応しいと言える。
「神楽、入って」
襖の外に誰かがいると、蟲が教えてくれる。呼びかけると神楽が入ってきた。
「話があるって言っていただろう」
「あなたこそ」
「俺の方はもういいんだ。何の話だったんだ?」
「葉月のことよ。どうしたらいいのかと思ってね」
「そのことか……あんたに任せるよ。親のところに帰るとか言わないし……」
「両親のことなら、覚えてないわ。ううん、覚えていないことになってるわ、彼女の頭の中では」
「七草……」
「ええ、彼女の両親に関する記憶は私が持ってる。――彼女の母親は育児ノイローゼで精神がずたずた。その上、葉月の目の前で……葉月の父親を包丁で刺した」
ふう、と神楽は溜め息ともつかない息を吐いた。
「母親は精神病院へ送られ、父親は入院。退院後に正式に離婚し、数ヵ月後に再婚。あの子の家庭環境は酷いもんよ」
「そんなことだろうとは思ったよ。じゃあ、このままここで暮らしていても支障はないな」
「ないわ。両親のことを彼女が思い出すことはないから」
「そうか。あとは何かあるのか」
「いいえ。次、私の当番なの。いつ世捨て人が出るか分からないし」
神楽は七草の部屋を後にして、自分の部屋に戻った。そして常に薄暗い狭間の空を見上げながら考え事をしているうちに、瞼が下りて、眠りについていたのだった。