[7] 狭間の異常
「私がですか……?」
目の前の女性――卯来は言った。
「あなたにしか任せられない。この屋敷で経験を積んでいる順で行けば、七草が一番。だけど彼女は若すぎる。だからあなたしかいないのです」
死の間際だというのに、よくもこう気丈に話ができたものだと、鶴雅は思った。だから長として相応しかったのだと。
卯来は今、死のうとしている。境界人の寿命は、人間のそれよりかなり短い。主に長が使う『葬送』の影響でもある。あれは体力の消耗と共に命までもが削られるからだ。
「――分かりました」
床に臥した長は静かに頷いて、その瞳を永遠に閉じた。
* *
気付けばあの日の夢を見る。そして起きてから、長の座を受け継いだ日のことを思い出す。
――もしも百鬼があの日までいたなら、彼が長だった。
その思いがずっと鶴雅の中で渦巻いている。
百鬼はいつも言っていた。自分はこれっぽっちの者でない。もっと上にいるべき者だと。だから彼こそが長に相応しかったはずだ。自分はこの地位に付くことを望んではいなかった。
最近はこうして思い出すことが多い。
自分の寿命が短くなっていくというのが、日々身に染みる。持ってあと半年、いや、三ヶ月か。今やそんなことはどうでもよかった。
『どうしたの』
傍らで寝そべった壱乃が尋ねる。鶴雅は黙って頭を振る。
「……あなたを宝也氏から引き受けて、もう何年も経ちましたね」
『ざっと十年くらいかしらね。そんなもんよ』
「早いものですよ。私はもうこんな状態になってしまった」
『もう死ぬ気? まだ早いよ』
「そうでもないでしょう。自分の体くらいは、分かっているつもりですよ」
一度そこで沈黙が訪れた。
この世界では、鳥も鳴かない。何て悲しい世界なのだろう。
『ねえ、百鬼はどうしていなくなったの』
壱乃が唐突に問い掛けた。
『言いたくなければいいんだけど』
以前にも鶴雅は同じ問いをされた。もちろん壱乃だけではない。宝也の後に長になった卯来にも聞かれたし、あの頃は幼かった七草にも何度か聞かれた。そのときは必ず、
「彼は理想を求めただけです」
そう答えることにしていた。だから傍でいつも聞いていた壱乃は、面と向かって鶴雅に尋ねることはなかった。しかしこの状況では仕方あるまい。
「――百鬼は、自分は逸材だと信じていました。そう、例えば神の子であるとか。元々ちょっと変わった人間でしたから、人に避けられることが多い子供でした。だからこそ余計に理想郷を求めたんです。そしてあの日、彼は自分がやっと頂点に立てるような世界への入り口を見つけてしまった。彼は迷わなかったでしょう。誰も気付かなかったでしょう、私だって隣にいたのに何も分からなかった」
鶴雅は遠くを見るような瞳で言った。
すると突然、襖が開いて夜水が入ってきた。
「長! 大変です!」
「何がありましたか」
「昼なのに、世捨て人が、常世に……!」
それを聞いた鶴雅は壱乃と顔を見合わせて、そしてふっと微笑んだ。
『早速、始まったのね』
「そうですね」
夜水だけがその場で、ただ呆然と立ち尽くしていた。
そんな夜水とは裏腹に、鶴雅と壱乃と共に状況を理解していた神楽の対応は速かった。やはり呆然とする他の境界人を尻目に、さっさと神楽は外へ出て行こうとした。七草ですらも慌てる状況で彼だけがそうしているのは、いささか不自然でもあった。
神楽は出迎えた夏眼に飛び乗った。そして屋敷の中を振り返り、
「何してるんだ、七草。今の時間に出たら人の目に触れることは間違いない。あんたの蟲が必要なんだ。さっさとしろ」
その言葉にはっとして七草は立ち上がった。それにつられるようにして他の境界人たちも立ち上がるが、七草がそれを制した。
「待って。頭数ばかり揃えても邪魔になるだけだわ。行くのは私と夜水と壱松と、それに神楽だけよ」
それに答えて短く髪を切りそろえた男が無言で立ち上がり、夜水が戻ってきた。
そして神楽を含めた四人は揃って夏眼の背に乗り、常世へと降りていった。
彼ら境界人にしてみればかなり久しい昼の常世だ。その日照りが眩しくさえ感じた。夏眼は高度を維持して場所を探す。下がれば人間に見咎められる。そうなれば、いくら七草の蟲でも面倒見切れない。
「墓場だな。どこかに墓地は?」
夜水が言った。彼には「風便りの夜水」と言う異名があり、彼の耳は遠く離れた世捨て人の声を「聞く」。
「確かなの?」
「おれが間違うって? まさか」
「信用してるわ。夏眼、どう?」
七草は夏眼に問うた。
『あるな。死人臭い』
夏眼はやがて小高い山の方へと足を向けた。人目に付かない場所に降りる必要があるのだ。
山の中へ降り立つと、四人は夏眼から降りた。
『ここから真っ直ぐ南に行けばいるはずだ。ここで待ってるぜ』
四人が去ってから、夏眼は普通の犬と同じ大きさになってそこに寝そべった。
また鼻をヒクつかせ、自分の臭いを嗅いだ。――まだ臭いが残っている。この別世の臭いが取れるまでには、あと三日以上はかかるだろう。それほどまでに強いのは別世の空気ではなく、神楽の能力である。彼が作る穴は、他の境界人の葬送で出来る穴よりも大きいから、その分臭いがきついのが、鼻の利く夏眼にとっての悩み種である。
夏眼と神楽の出会いは――卯来が死んだ後だ。
元々夏眼は壱乃の本当の子供ではない。そもそも壱乃のような遣い魔と呼ばれる種は子孫を残さない。
卯来が死んだ次の日、壱乃の傍らに夏眼がいた。まだ小さな子犬だった。それを見た鶴雅が遣い手を捜すと、神楽が興味深そうに様子を見に部屋へやって来たため彼に譲った。
小さな夏眼は、三ヶ月ほどで当時十ニ歳の神楽の背丈をゆうに越えるまでに成長した。今やその倍ほどになっている。
その頃から共に修行を積んだおかげで、夏眼と神楽のチームワークは屋敷内でも有名だ。
そうやって共に過ごしてきた夏眼は、神楽の様子の微妙な変化に気付く。今日もそうだ。
普通、常世の時間での昼中に、世捨て人がこの常世に現れるはずがない。あの七草でさえも慌てるほどなのに、神楽は表情一つ変えなかった。確かに神楽はクールだが、あそこまで平然としていられるものだろうか。
もしこの異常な事態がこれからも起きるとしたら、それは何かがおかしくなっている証拠。
だとしたら――確実に神楽は何かを知っている。
夏眼は確信した。