[6] 鶴雅と百鬼
もう十年も前なのだ。
真っ暗な夜の墓地の前に、四人の人影があった。どうやら口論になっているらしく、一方的に相手を責めているのは一人のようだった。それに対して三人は全く悪びれる様子もなくそこにいた。
「どうして置いてきたりしたんだ!」
責めているのは鶴雅だった。まだ学生の頃のこと。
「だってアイツ、からかい甲斐があるから面白いんだよ」
「そんなこと……! いいよ、僕が探しに行く」
そう言って墓地の中へ入っていこうとする鶴雅を止める者は誰もいなかった。
* *
友人の百鬼が、数人のクラスメートと一緒に墓地へ肝試しに行ったと聞いて、鶴雅はそこへ駆けつけた。
すると百鬼と出かけたはずの三人が、墓地の入り口から出てきたところに出くわした。
百鬼は変わった子供だった。幼い頃から知っている鶴雅でさえもそう思うのだから、初めて会った人間はどれほどそう感じることか。
百鬼は、自分が特別な存在だと信じていた。だから今生きている世界には満足していなくて、いつも他の世界を探していた――そう、自分がその世界の頂点にいる。そんな理想郷を。
鶴雅は、自分の夢見る理想郷を楽しそうに語る百鬼をとても羨ましく思っていた。そ野話をしているときの百鬼は、とても幸せそうだった。それが鶴雅は羨ましくて、それを見ている鶴雅自身もやがてそれが楽しくなっていった。
百鬼にとって鶴雅は、たった一人の友人だった。
墓地の中を、どこにいるかも分からない百鬼を探して走り回る鶴雅。夜の墓地ほど気味の悪い場所はないと、鶴雅は思った。
ひた、と鶴雅は足を止めた。叫び声が聞こえたような気がしたのだ。
普段運動をしないため、鶴雅の体は疲れ切っていたが彼はまた走り出した。
声がした方向へ走り続けると、暗闇の中で何かに躓いた。
「わっ……!」
転びそうになって体勢を立て直す。振り返ってそれが何か見ようとしたが、灯かりも何もない中、中々見えない。だが、近付いて目が慣れると――それが人間の足であると気が付いた。
まさか、と思い後ずさる。しかし思い直してみると、百鬼のものにしては細すぎた。彼も体格はいいとは言えないものの、今ここに落ちている足は、むしろ女性のものに近いように見えた。
今更ながらこの場にそんなものが落ちていることの意味に気付いて、鶴雅はぞっとした。墓地のどこにいるかも分からない百鬼だけではなくて、自分の身にも危険が迫っていると自覚した。通り魔か、殺人者か……考えるだけで額に汗が滲んだ。
とにかくこの場から離れよう。
鶴雅はゆっくりと歩き出した。音を立てると、まだうろついているかもしれない犯人に見つかるかもしれない。
五件分ほどの墓石を過ぎたあたりで、奇妙な音が聞こえてきた。どこかから水が流れ落ちているような、ピチャピチャと言う音。すぐ近くのようだ。先ほどのこともあって、鶴雅は警戒して墓石の陰からその場所を覗いた。
――絶句した。
そこにいたのは、人だった。だが原型は留められていない。崩れていく直前のその全身から血が滲み出すように流れ、それがピチャピチャと音を立てていたのだ。それは正に地獄絵図。現実とは到底信じられない光景だった。
そしてさらに目を疑った。その出来損ないの人の傍らに、ちゃんとした人間の姿があった。それは、百鬼の姿だった。
「ひゃ、っき……?」
小さく呟くと、彼はゆっくりと振り向いた。
「やあ、鶴雅じゃないか」
いつものような口調で百鬼は言った。その声につられるように、出来損ないの人までが鶴雅の方を見た。そして口があったであろう部分を醜く歪めた。
自分は、食べられてしまうのではないか。
鶴雅はその様子を見た瞬間、とっさに思った。根拠は何もない。だがここにいてはいけないというのだけは確かだった。
「百鬼、だめだ、逃げよう……」
「どうしてさ? 僕はここにいる」
「帰るんだ! ここにいたら僕たちは――」
殺される。
そう言いかけたときだった。
頭上から黒い影が降りてきた。そしてその影は鶴雅の斜め前、ちょうど出来損ないの背後に立った。出来損ないに向かって掌を突き出し、その人物はたった一言、
「――燃えろ」
と呟くように言い放った。ただそれだけで、発火装置を使ったわけでもマッチを擦ったわけでもないのに突然、出来損ないの体が燃え出した。鶴雅と百鬼は、ただ一瞬の出来事を呆然と見つめるしかできなかった。
まだその不気味な影が燃え尽きないうちに、火をつけた男は鶴雅に向き直って言った。
「大丈夫だったかな? 君たち」
そして百鬼の方を向く。彼は呆然と燃え尽きていく個体を見ていた。
鶴雅が微かに首を縦に振ると、その人は満足そうによかったと言った。
「あなたは、何者なんですか……?」
「悪いが、君たちには来てもらうよ」
彼は鶴雅の向けた問いには答えずに言った。そして二人の手を掴んで上へ叫んだ。
「壱乃! 降りておいで」
すると空からすう、と降りてきたのはとてつもなく巨大な犬だった。体長は鶴雅の三倍以上はあるだろう。
「この子たちを乗せて行かないと」
『何、いたの。面倒ね』
「仕方ないさ。この二人に、この運命を変える力はなかったはずだ」
『ロマンチストね』
男は黙って微笑んだ。
二人は促されるがままその喋る犬の背に乗せられた。そのとき鶴雅は百鬼の顔を覗き込んだ。鶴雅はこれからどこに連れて行かれるのか分からない不安に襲われていたが、百鬼はなぜか怒ったような顔だった。
「百鬼、大丈夫……?」
平気、と彼は一言だけ答えた。だがやはりその表情は変わらないまま、険しかった。
男は何も言わずに犬を夜の空へ駆け巡らせた。
* *
男は『境界人』だった。二人の前に現れた奇怪な物体は『世捨て人』であった。
二人は当然の如く、お屋敷へと連れて行かれた。
男の名前は宝也と言って、二人を連れて来た翌年にお屋敷の長となった。
――それから三年ほど経ってから。
世捨て人の大規模な襲来が、お屋敷で起きた。
まだ見習のような存在だった鶴雅と百鬼も、その場にかり出された。
「卯来! 他の連中を遠ざけるんだ!」
宝也が最中で叫んだ。それに振り向いた女性が目を見開くのが見えた。
「長、危険です」
「いや、もう耐えられないよ。お屋敷が壊されるよりマシだ」
女性は一瞬悩んだようだったが、宝也の考えが正しいと理解して頷いた。
すぐに塀から降りて、そこにいる境界人を追い払いはじめた。それに続いて宝也も塀から降りてその後ろからお屋敷の方へ駆けて行く。
鶴雅と百鬼のような見習の境界人たちにも、これから何が起きようとしているのかは分かっていた。
宝也は長い袖をまくり、たすきがけにする。そして目の前に長い刀を突き立てた。――するとそこから亀裂がどんどん走り、大きくひび割れて、そこに裂け目が出来上がった。まだ数十と残っていた世捨て人たちが、その穴に吸い込まれていく。
隣の百鬼がその光景に見入っているのに、鶴雅は気付いていなかった。
――百鬼が、突然隣から消えた。
「……? 百鬼……っ!」
鶴雅は目を剥いた。百鬼は間違いなく、『葬送』の穴へ向かって走っていた。
宝也がその姿を見て驚くのが見えた。慌てて穴を閉じようとするが簡単に開けないものは、簡単には閉じられない。無理をしようとすればするほど、彼自身が穴へ吸い込まれそうになるだけだった。
周りの境界人も慌て始め、だが何も出来ずにいる中で、百鬼は躊躇うことなく穴へ飛び込んで暗闇に消えた。
その瞬間、宝也は刀を投げ捨てて穴へ向かって走り出す。呼び止める声が飛び交った。だがその宝也を目掛けて、まだ残っていた世捨て人が襲い掛かった。止める隙さえなく、宝也は世捨て人らによって喰われた。
穴は、もう塞がっていた。