[5] 世捨ての鬼
カサカサ、カサ……ッ。
文机の上を這う三匹の小さな蟲。蜘蛛のような姿に、奇妙に大きい目。
「……」
それを指の上に乗せて這わせる七草の口元には、僅かに笑みがある。だがそれはまるで自分を嘲笑っているかのようだった。
カサカサ、カサカサ……。
蟲はいつしか増え、机全体を黒く埋め尽くしていた。蟲は七草の黒服の袖から無数に這い出してくる。
傍らでは、布団に葉月が寝ている。七草は、葉月の方へ蟲を遣わせた。――蟲は、葉月の耳から脳へ向けて侵入する。葉月が僅かに身動きするが、起きることはなかった。七草はただその様子をじっと見ている。
――数分後、蟲がまた葉月の耳から出てきて、七草の手元へと戻った。そして彼女はその手を己の耳元へ持っていく。蟲は七草の耳から頭の中へ。
七草の頭の中で、彼女のものでない記憶がスクリーンに映し出されるように開かれていた。
そこは庭が望めるテラス。まだ四、五才ほどの小さな女の子が父親の足の上で本を読んでいる。父親は安楽椅子に腰掛け、楽しそうな少女の顔を見て微笑んでいる。幸せそうな父子の絵だった。
そこへ、母親らしい女性がふらり、とやってきた。病気がちのような様子で、ネグリジェを着て、蒼白な顔色でいかにも不健康そうだ。
少女は女性を見るなり、嬉しそうに瞳を輝かせてかけていってその足に腕を回して抱きついた。女性は何も反応しなかった。その代わり、片手を上げて、振り下ろした。
――その手から、小さな果物ナイフが飛んだ。
少女の背中に、冷たい液体が降りかかった。その感触に振り向いた少女の目に入ったのは、喉にナイフが刺さり、そこから噴水のように赤い液体を撒き散らす父親の姿だった。
七草は思わず口を手で覆った。
「……っ」
そして振り向いて葉月を見つめる。
この少女の頭の奥深く、深層心理の底に沈められた赤く塗りつぶされた記憶。少女が忘れようとし、遠く忘れ去って二度と戻ることのなかった記憶が、今、七草の頭の中で甦った。
七草は、この記憶を葉月の頭には戻すまいと誓った。
* *
次の日の、朝。
窓から差す光がまぶしくて、神楽は目を覚ました。体を起こすと、昨日は壁に寄りかかっていた夜水が、すっかり横になって爆睡していた。
「こいつ、俺より寝てるな……」
夏眼はいなくなっていた。行先は分かっているから、神楽は特に何も思わなかった。
神楽は夜水を起こさないように、そっと布団から出た。辺りを見渡して、机の上にある黒服を見つける。いつもと違って乱雑に畳まれたそれを呆れた顔で見ながら、体に羽織る。
――カサリ。
「……ん?」
昨日は急いでいて気付かなかったが、懐に何かが入っている。手を入れて出してみると、それは小さな紙の切れ端だった。――そう、葉月をお屋敷に連れて来たあの日、出向いた先の学校で拾った、小さな四角い紙切れだ。
「――なんだろうな、これ」
裏返してみても、何の変哲もないただの紙であることに変わりはなかった。どこにもおかしな様子もないように見えた。とりあえず、七草に聞いてみようと思った。
七草は今、お屋敷にいる境界人の中ではキャリアが一番長い。長はいるが体調を崩しているため、境界人たちを束ねているのは代理の七草だ。――あの昔も、すでに「リーダー」と呼ぶ者がいたほどの実力者だ。
そのとき、すっと襖が開いた。顔を出したのは、七草だった。
「起きた? 体はどう?」
「平気だ」
「そう。長が呼んでるわ」
「ああ――七草、あとで聞きたいことが……」
すると七草は、私もと言う。後で自分の部屋へ来るように彼女は言って、彼女は部屋を出て行った。
足元で、夜水が身動きした。目を擦りながらあくびをして、彼は起き上がった。
「ふ……あー。――あ? 神楽、起きてたのか」
「気持ちよさそうだったんで、起こさなかったよ」
「そりゃどうも」
「長のところに行かないといけないんだ。お前は飯でも食って来い」
「神楽は?」
「色々予定が詰まってる」
「あっそ。じゃあ行ってるぞ」
と夜水は先に部屋を出て、食堂へ向かって行った。
* *
「ああ、来ましたか」
久しぶりに目にした長は、以前に見たときよりも顔色が優れないようだった。
「いいですよ、座りなさい」
神楽は言われるがままに畳の上に膝をついた。長の奥で寝ているとてつもなく巨大な犬――壱乃。彼女は、夏眼の母犬だ。
「何を話しましょうか」
「……は?」
「いえ、あなたが私に何か言いたいことがあるんじゃないかと思って、呼んだんですよ。ねえ、壱乃」
『懐だよ、鶴雅』
壱乃が言うのを聞いて、神楽ははっとした。
「何だと?」
『相変わらず無礼な小僧だわ。――視えるわよ。その変な物』
始め、壱乃が何を言っているのか分からなかった神楽だが、すぐにそれに当たるものを思い出す。懐に手を入れて、それを出した。
「これか?」
「そのようですね……。何でしょう、壱乃」
『気味は悪いけど、何かは分からない……何にしろ、縁起の良い物ではないみたいよ』
壱乃がそう言ったとき、
「あ……!」
神楽の手からその紙切れが離れて、長――鶴雅の方へと素早く向かって行った。そして壱乃が反応したが、間に合わず、鶴雅の頬に一筋の赤いラインを引いた。つ、とその傷口から血が僅かに流れた。
『鶴雅……』
鶴雅は厳しい表情で、頬の血を拭うこともせず、、呆然とする壱乃の呟きを無視するように、傍に落ちた紙に手をかざす。
「燃え――」
『待って、鶴雅。そいつ、何か言いたがってる』
それを聞いて彼はかざした手を退けた。
すると、紙が唐突に燃え上がり、宙に浮かんだ。
表面にはあの不気味な空のような渦巻き模様が浮かび上がる。
『――お前が境界人の長とはな、鶴雅』
その紙が喋った。そして鶴雅は、その顔に僅かに驚愕の色を滲ませる。
「あなたは……」
『そうさ、僕だよ。覚えていてくれたらしいね……嬉しいよ、我が友』
「あなたの友人でありませんよ、百鬼」
『おやおや……それは残念だな』
紙は心底悲しそうな声色で言った。
「何か用ですか」
『そんなに邪険にしないでくれないかな。――まあ、用と言えば用だね』
「早く言って早く消えて下さい」
『つれないな。なら率直に言おう。そろそろ時期も時期だと思うんだが……そう、決着のね』
「私とあなたの、ですか」
『君と僕と言うよりは、君たちと僕たちと言った方がいいかもしれないよ』
鶴雅は微かに眉を寄せた。
「……なんですって?」
『言っただろう、君たち「境界人」と僕たち「世捨て人」の』
「馬鹿げたことを言いますね……世捨て人は人間には左右されませんよ」
『本当にそう思うのかな? ならばもう一度、連中をけしかけようか?』
「まさか――」
『やっと信じる気になったかい? そうさ、昨日の騒ぎは僕がやった。僕は世捨て人になりたかったのに境界人にさせられかけた異端。意志を持たない連中を、自らの手で束ねあげるのは簡単だった……』
男にしては高い声で、子供のように無邪気な百鬼は熱っぽく語る。
神楽はその様子をただ見ているしかできなかった。
百鬼という鶴雅の話し相手が、何者なのかは分からない。だが、一つだけはっきりしていることは、昨日の朝に起きた世捨て人と襲撃は百鬼によるものだということだけ。
「それで?」
『始まるんだよ……今、たった今さ。僕が戦を宣言した時点で、それは始まっているんだ。――覚えておくといい。僕は君が憎いんだ、鶴雅。そして今は全てが憎い。君たちを、叩きのめしてみせるさ』
百鬼がいい終えると同時に、ボッとその紙切れは燃え上がってたちまち灰になった。直視していた神楽もそれと同時に、意識が引き戻された。
部屋を不気味な沈黙が満たす。
『誰よ、今のガキは』
「その話はまたいずれ。――神楽、戻りなさい。このことは決して口外しないで下さい。もちろん、七草にも。近いうちにまた呼びます。今日はもう、戻りなさい」
今の出来事について何か尋ねるのを許さない口調だった。神楽は胸にわだかまりを残したまま、部屋を立ち去った。