[4] 葬送の神楽
「ねえ、『そうそう』ってなぁに?」
葉月は無邪気に七草に尋ねた。だが七草は襖の外を見たまま微動だにせず、答えてはくれなかった。葉月は尋ねるのは後にしようと思った。
「葉月……見ちゃだめよ」
七草はそう言って葉月を抱え、その部屋の押入れに連れて行く。
「なに? ななくさ」
「葉月、いい? 私が来るまでここからでちゃだめよ。それから、耳を塞いで。暗いけど、我慢できる?」
「うん、できる」
「良い子ね」
押入れの戸を引いて、葉月をその中に入れる。葉月は笑みを浮かべて、七草に手を振った。七草もぎこちない笑みとともに手を振り返した。
そして七草は襖を細く開け、再び外の様子に目を向けた。
やがて、神楽は顔を俯かせた。脱力したのかと思われたが、その手だけは束を離さず、力が込められ続けていた。
ピキ、と音がして突き刺した刃のもとから地面にひびが入り始めた。それは徐々に伸び、大きくなって亀裂となった。
まるで低気圧がやって来たかのように風が吹き荒れた。誰もが神楽のようすを、固唾を飲んで見守っている。
――ギ……ッ…………。
世捨て人の中の一体が声をあげた。
――ギィイ……!
――ゥガァァ……ッ!
それにつられるようにして、次々に不気味な叫び声が上がっていく。
見ればそれらの下には亀裂が大きくなり、奈落のように口を開けていた。まるでそこに吸い込まれるように『世捨て人』たちが引き寄せられていく。
――イギィイイイイィィィィィ!
――ガ……ガァァア!
耳鳴りがしそうなほど大きな断末魔の叫びが、見物する境界人の耳を劈く。
「……っ!」
つ、と神楽の顔から水滴が滴り落ちる。汗だ。
この『葬送』という、『世捨て人』を一括退治する術は、かなりの体力を消耗するため、少々のことでは使用されない。使った境界人が背負うリスクが多すぎるのだ。二、三日は目を覚まさないこともざらにあるほどである。
――アァァァ……ガ!
最後の一体が、奈落の底に引きずり込まれるたことを確認すると、神楽はすぐに太刀を地面から引き抜いた。それと同時に、ぱっくりと空いていた穴がまるで存在しなかったかのように閉じた。
肩で荒く息をしながら、神楽は太刀を鞘に収める。
「……っ、はぁ……っ!」
ふら、と神楽の体が傾いた。すぐに襖の置くから七草が出てきて、その体を支えて座らせた。
「――無茶しすぎよ」
「はぁ……っ、はぁ…………」
七草は、汗で額に張り付いた神楽の髪を優しく寄せてやる。
「でも、よくやったわ」
「ああ……当然、だ……」
そう言うのがやっとの様子で、神楽は深く息を吐いて目を閉じた。
いつの間にか周りを多くの境界人が囲んでいた。中から夜水と夏眼が出てきて、
「おれが運ぶ。――夏眼、背中貸せよ」
夜水が神楽の脇に肩を入れ、よっ、と掛け声をかけてその体を立たせて支える。それを屈んだ夏眼の背中に乗せて、屋敷の中へ運び込む。
「七草さま」
それを見送る七草の名を呼ぶ者があった。振り向くと、顔の下半分を布のようなもので覆った境界人が立っている。
「長がお呼びです」
「分かったわ」
七草は立ち上がる。そして集まっている人々に向けて、
「解散よ、ご苦労様」
と言ってその場から立ち去った。
* *
神楽が使った『葬送』と言う行為は、別世から這い出てきた世捨て人を、再び別世へ還すための手段である。
無理やりに別世へ道を繋げ――出来た道があの地面の亀裂である――、そこへ世捨て人を吸い込ませる。この道を繋げるだけの行為が、葬送を使う境界人にとって最大の敵である。その人間自体も吸い込まれそうになってしまうため、かなり危険である。よって経験が物をいう。葬送が使える人間は、限られた極小数である。神楽も当然、そのうちの一人ということになる。
通常の退治の場では使われることはないが、今回のように特別な状況に置いては使われることがある。だが、それも稀なことである。
神楽は葬送の使い手である。しかも他に類を見ないほど強力な。しかも神楽は葬送をつかった後の回復が早く、普通の使い手の半分ほどの時間で回復が可能だ。その脅威の能力から、神楽は『葬送の神楽』と呼ばれる。
コの字型のお屋敷の、一番奥――一番入り口から遠いところにある、暗い大きな部屋。その襖の前に膝をつき、七草は名を名乗った。
「入りなさい」
中から答える男の声がした。七草は失礼します、と襖を開ける。
中にいるのは一人の男と、灰色でとてつもなく大きい犬がいた。夏眼が巨大化したよりもはるかに大きく、部屋の半分はその犬が占めている。男は布団から起き上がった格好で、犬はその横に静かに寝そべっている。
「何がありましたか」
男は若い。だがその顔からは、病気がちな印象が受け取れる。そのせいか、やややつれていて、年よりも老けて見える。彼が、お屋敷の境界人たちの長だ。
「世捨て人の大群が襲ってきました。数は約三百。それで……」
「誰が葬送を?」
「――神楽です」
「ああ、彼が……なるほど。納得しましたよ、それで」
『道理でね。身の毛もよだつわけだわ』
長と七草以外の声が言った。テノールより高めだが、女性にしては低い声。あの大きな犬だ。
『相変わらず酷い力だわ。――強すぎて鼻が痛い』
犬を一瞥して長の男は頷いた。
「そうですね、壱乃。――それで、神楽は今どうしてます?」
「寝てます。しばらくは起きて来られないでしょう」
「それはそうでしょうね。では、起きたら伝えてください。一度、私のところへ来なさいと」
「承知しました」
七草は体を折って頭を下げた。
「お体の方はいかがですか」
「どうもなりませんよ。相変わらずです」
『よくないよ。悪くなる一方。そろそろ将来の話をしておいたほうがいいんじゃないかしら』
長は微笑みながら溜め息をついた。
「……だそうです。七草、下がっていいです」
七草は深く頭を下げ、襖から外へ出た。
七草が出て去った後、長は大きく溜め息をついた。
『ほら、ちゃんと寝てないからよ。いくら大騒ぎだからって、無茶よ』
「はいはい、寝ますよ、ちゃんと」
長は大人しく布団に潜った。
「それにしても、妙な話ですね」
『そうね。聞いたことがない、そんな大群』
「それに不気味な空」
『いつ見たの?』
「七草が襖を開けたときにちらっと。――あんな空も、始めて」
『何も起きなければいいわね。あなたのためにも』
長は少し自嘲的に笑った。
「私は、もうすぐ死ぬんですから」
* *
どれくらい寝たのだろう。薄く目を開けると、周りは真っ暗だった。最も、狭間の世界には時間こそあれ、夜も朝もないのだが。
上半身を起こすと、窓際の壁に乗りかかって夜水が口をだらしなく開けて眠りこけていた。『もう起きたのか?』
夏眼が横へやって来た。
「ああ……目は覚めたが、まだだるい。どれくらい寝てた?」
『まだそんなに経ってない。十時間程度だ』
「それだけ寝てたら十分だ」
『普段は、だ。普段とは違うんだ。もっと寝ておけ』
「そうさせてもらうか」
神楽は言われるがままにまた横になった。そしてまた眠りにつく。
夏眼は神楽がまた寝息を立て始めたのを聞いて、鼻をヒクつかせて自分の体の臭いを嗅いだ。
『……まだ「あっち」の臭いがしやがる』