[13] 弾けた夜明
「来てくれないのかと思ったよ、鶴雅」
まるで旧友との再会を祝うような百鬼の口調。なぜかその声は、喧騒の中でもよく響いて鶴雅の耳に届いた。
「来ないわけがないでしょう、百鬼。私はあなたのために――死にに来た」
「それは光栄だ」
世捨て人が燃えたことで熱された空気が、生暖かい風となって二人の頬を撫でる。
「それと、お別れを言いに」
「それはこっちからだってそうさ」
百鬼が言い終わるや否や、鶴雅は塀から飛び降り、着地した。
喧騒の最中の僅かな隙間。神楽の手から奪った『葬送の太刀』をその地に突き刺し、ただその束に手を添えた。
「できるなら私の手で殺したくなんてなかった。これは君の所為だ」
ぞわ、と地面一面から何か気体が急に噴出したような感覚。足が一瞬地面に浮くような。その意味に気付いた者は、他の者へ呼びかけてその場から遠ざけた。
壱乃の背に葉月を乗せ、自分は夏眼の背に乗って、再び喧騒の中へ戻って行こうとしていた。
『……くそ』
『始まるよ』
二匹は同時に言った。神楽はお屋敷の屋根の上で止まって、それを眺めるしかなかった。こうなったらもう、誰にも止められない。
ピシ、と軋むような音がして、地面にひびが入った。それは徐々に開き、亀裂となる。
鶴雅の、『葬送』だった。
* *
どこかに力が入っている様子もなく、鶴雅はただ束に手を添えているだけのように見えた。だが彼の中では、加減を必要としなくなった力が溢れるように放出されようとしていた。
バリ、と嫌な音がして地面に大きな穴が開いた。そしてその穴に吸い込まれるように、世捨て人たちが次々に飲み込まれる。
――ギィ! ィイ……ギッ!
不気味な呻き声が次々と消えていく。
ただ百鬼だけが、その頭上で微笑んでいた。
「夏眼」
『――ああ』
神楽の一声で、夏眼は急発進した。
百鬼の死角、背中の下部から夏眼が迫ってくることに彼は気付いていない。神楽は遺された太刀を固く握り直した。
そのとき、百鬼がこちらを振り向いた。驚いたように目を見開き、成す術を知らないように動きが止まっていた。
『飛べ!』
神楽は跳躍して、そのまま袈裟切りに百鬼を切りつけた。武器を持っていない百鬼は、ただ避けることしかできなかった。
「くっ……!」
僅かに、僅かだが神楽の刀が彼の頬を掠めた。切られた頬からは、一筋の血が流れ――蒸気を発した。
血が漏れては蒸発していく。見る見るうちに、眼下へ落ちていく百鬼の顔が醜くしわがれて行くのが見える。
――神楽、この世界では血を流してはだめなの。だから誰も傷つけてはいけないのよ。
神楽の脳裏に、幼い日の思い出が甦った。優しそうな母親の眼差し。七草の、笑み。
「……例えそれがお前のためでも、駄目だと言ったか七草」
百鬼の肢体が、暗い奈落の底に沈んで行った。
彼を最後に世捨ての姿も消えた。同時に穴が小さくなり、跡形もなく消え去った。神楽は降り立った塀の上から飛び降りて、鶴雅の元へ駆け寄った。他の境界人も我に返り、口々に鶴雅の名を叫びながら駆け寄る。
ふらりと傾いた鶴雅の体を、神楽は片手で支え――歯を食いしばって舌打ちした。
皆が見守る前で、その体をその場に横たえる。
「かぐらお兄ちゃん……」
葉月が傍へ寄ってきて、神楽に声をかける。
「つるまさ、死んだの……? ななくさも、いないの……?」
言いながら声が涙声になっていった。そして耐えられなくなったようで、ついには声を上げて泣き出した。
「ななくさぁ……! つるまさ……死んじゃいやだよぉ……! 葉月、おとうさんも死んじゃったんだよ、おかあさんはいなくなったから、葉月、ひとりはいやだよ……!」
七草が死んだと言うことは、そう、葉月に記憶が戻されたということなのだ。今、彼女は二つの悲しみに襲われているのだ。両親共にいないという事実、七草の死。
葉月は神楽の胸に縋って泣き続けた。声が枯れるのではないかというほどに。
それを見送るように、赤い月だけがいつのまにか姿を潜めていた。
* *
しばらくして、境界人全ての同意を得て神楽は長となった。だからといって今までと同じ、世捨て人は消えることはないし、神楽は以前と変わらずそれを退治していた。
鶴雅の死は、これまでの長の死と何ら変わりない。ただ百鬼という存在がその場にいた、それだけの事実が異なっている以外は。
鶴雅が長になってからというもの、確かに世捨て人の襲来が多すぎた。その原因が百鬼にあったとするなら、一件落着と言える。ただ一つ分からないのは、『なぜ百鬼は世捨ての世界へ入らなければならなかったのか』ということだ。
一つ神楽の頭に浮かんだ仮定――
――世捨て人という存在をなくすために自らを犠牲にしたのだとしたら。
しかしすぐに神楽はその仮説を自ら否定した。もしそうなのだとしたら、七草が殺される理由はどこにもなかったのだから。
「もしかしたら、始めはそう考えてたのかもしれないだろうが」
その話をしたとき、夜水は言った。
「ならなぜ七草を殺した」
「奴の――百鬼の心に元々あった、『自分はほかの連中とは違う』っていう考えじゃないか? それで『お前のような奴には殺されない』みたいな」
「ありえない」
「そうでもないと思うけどな。自分のせいで長である鶴雅様をこの世界に引き込んだようなもんだったんだろ? それを悔いて世捨ての存在を亡き者にしようとした『詫び』の気持ちと、奴自信の中にあった『自尊心』みたいなもんと、バランスが取れなくなったってことも、なくはないだろ」
神楽は反論する気もなさそうに、黙り込んだ。
****
常世でいう、十年の月日が流れた。
「神楽兄さん!」
ひょい、と長の部屋に顔を覗かせた少女。
「長と呼べ」
「だって、神楽兄さんは神楽兄さんでしょう?」
「あのな葉月……」
神楽は呆れてものも言えなかった。
「それよりほら、仕事だ仕事。――夏眼、お前も行って来い」
『お前は隠居身分か』
「年だからな」
「二十九歳で年だなんておかしいわ、神楽兄さん」
いいから行け、と一人と一匹を急かして部屋から追い出すと、神楽は溜め息をついた。
『陰気臭いねぇ……まだあの娘を見ると、思い出すの?』
「悪いか」
『確かに、雰囲気は似てきたかもしれないね、あの娘。七草に』
神楽は決まりが悪そうに壱乃を睨む。
締めたばかりを襖を開けて、遠ざかる黒犬のシルエットを眺める。
『惚れてたんでしょう』
「知るか」
やっと完結にこぎつけることができました。
この最終話に関しては、私自身もまだ至らない点ばかりだと感じています。結局最後を上手く纏められなかったような気がします。
完結までお付き合い頂いたあなた様、気紛れに目に留めたあなた様。全ての読者様に感謝を申し上げて、ここに「spin-out;er」の完結を宣言します。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
感想・評価等、お待ちしています。今後の参考に致しますのでよろしくお願い致します。
二〇〇七年五月二十一日
美咲 菫