[9] 忌みの満月
しん、とお屋敷の大部屋に沈黙が訪れた。誰もが固唾を飲んで、言葉を発するのを躊躇った。
「――すみません」
最初に口を開いたのは長、鶴雅だった。
「長が謝ることでは……」
「いいえ、私に起因があるのは事実でしょう。もし私があのとき、彼と共に死んでいたらこんなことにはなりはしなかったはずです」
「長……!」
鶴雅は目線で七草の抗議を制した。
「申し訳ない。私はもう長くない――だが私が生きているうちに百鬼の命を絶たなければならない。それがせめてもの罪滅ぼしですから。もし協力してくれれば、と思って」
境界人一同は顔を見合わせ、そして頷きあう。
「今まで長に味方しなかった者がおりましょうか」
一人が言った。そして立ち上がり、
「協力しますとも」
まるでそれにつられるように、その輪は広がり、全ての境界人が立ち上がり鶴雅を見た。
鶴雅はその様子にやや目を丸くし、やがて微笑んだ。
「ありがとう。――それじゃあ、あとは七草、頼みますよ」
「分かりました」
鶴雅は後を七草に託し、自室へと戻って行った。
長のいなくなった大部屋は、すぐににぎわいに満ちた。七草もほっと一息吐いて、姿勢を崩した。
鶴雅はさきほど、百鬼とのやりとりと、彼との関係を境界人全員をこの大部屋に集めて話した。当然みな驚き、そしてどこか納得した表情をしていた。だが百鬼を知るものは少なく、片手の指で足りるほど。だからそれがどれほどの大事か、いまいち分かっていないのも確かだった。
「とはいえ、一体相手がいつやってくるか分からないのよね……」
「いや、可能性のある日はなくもない」
ふと、隣の神楽が呟いた。七草がそちらを向くと、酷く深刻な顔をして彼はそこにいた。肩には葬送の太刀を立てかけて。
「忌みの満月が――今年中にやってくる。しかも、近いうちに」
小さな声だったのに、彼の周りの沈黙が一気に大部屋に広がったようだった。再び無機質な静けさがそこに満たされた。
忌みの満月――。常世で数える数百年に一度出るという赤い満月のこと。その月が出た日は、最悪の日となり、境界人の九十八%が消失されると言い伝えられている。もちろん稀な頻度のため、ここにいる境界人はそのことを聞いたことはあっても、実際に目にしたことはない。
「まさか――」
「狙ったわけじゃないだろうから、偶然だ。もしくは、その百鬼という人物が、世捨て人を取り纏めた事実からすれば、彼自身がこの世界へ足を踏み入れた時点でこうなることが分かっていたということだろう」
それを聞いて境界人たちは一気に首をうなだれ、溜め息をつき、頭を抱える。重い空気が漂う中、遠く長の部屋から葉月の笑い声だけが聞こえていた。
ふと神楽は開け放たれた襖の外を見た。
まもなく満ちようとする不恰好な月が、赤く空を彩っていた。
* *
真っ暗で、灯かりもなくて、もちろん月も星もなく、ただ闇だけの世界。そこに生息する生き物――最早生き物とは呼べまいが――といえば、赤くぶよぶよした肉塊や、あちこちから手足の生えて人間の出来損ない……そんな不気味な物だけだった。
そんな中、一人だけまともな形を保った人間のシルエットが浮かび上がる。口元には楽しそうで、それでいて冷淡な笑みをたたえて。
「さあ、どうするんだ、鶴雅よ……」
目に掛った髪を退かそうともせず、彼は言う。そしてその場にしゃがみ込み、掌を下に向ける。するとそこに大きな溝ができ、しかしその男は落ちて行かない。そしてその溝は開けたまま、不気味に蠢く物の後ろに回り、それを次々に蹴落とす。落とされたそれらはどこまでも遠く落ちて行き、やがて見えなくなっていく。
「どうする? 早くしないと、お前死んじゃうんだろう?」
その口元が、悲しそうに歪められた。
* *
また世捨て人が出た。境界人が一人喰われてしまった。
百鬼による宣戦布告があってから世捨て人の襲来が増え、いつしか喰われた境界人は十人を越えていた。
「そうですか……また、ですか」
鶴雅が重々しく頷く。
「こうしてこの世界に生きる上で、それは仕方のないことです。気に病んでいてはいけませんよ、夜水」
「……はい」
傍らで首をうなだれる夜水は呟くように返事をした。
「ですが、早々に手を打たねばなりませんね。満月は三日後には来るでしょう、覚悟なさいと皆に伝えてください」
夜水は頷いて部屋を出た。彼もまた空を見上げる。赤い月が奇妙に照っている。