[0] 弾かれた駒
「う、うわぁぁぁぁ!」
夜の校舎に、悲鳴がこだました。だが誰もその叫びに答える者も、気付く者すらもいなかった。
青白く血の気の引いた顔で泣き喚く幼い少年の目の前には、この世の者とは思えないバケモノがいた。
――赤黒い肉塊の、あちこちから生えた人間や動物の腕や足。出来損ないの口から垂れる唾液はどす黒く、青み掛っている。目や鼻や手足はなく、その馬鹿でかい図体を、無数に生えた奇妙な四肢を使って引きずっていて、動く度にズチュ、ズチュと不気味な音を立てる。
「あ…………あ……」
動く振動で落ちた生き物の手足がそこら中に散らばって、その断面からは血液が流れ出して辺りを血の海にした。まるで大量虐殺でも行われたかのような惨状だ。――今もバケモノの体からは、絶え間なく手足が生え続けている。
少年は忘れ物の教科書を片手に、枯れた声で叫ぼうとしていた。涙とも汗ともつかない物が頬を伝って流れ落ちた。
「来るな……来るなぁ……!」
相手に言葉が通じることもなく、バケモノは確実に少年へと近付いていく。食べられる、と少年は本能で感じ取った。
「わぁ……あぁぁぁ!」
目の前に大きな口が広げられ、辺りに青っぽい唾液が飛び散る。
――もう、ダメだ……!
少年がそう思った瞬間であった。
何かが、何か風のようなものが少年とバケモノの間を通り抜けたようだった。速過ぎてそれが何であるかは分からなかった。だが、
「え……?」
目の前にいたはずのバケモノは、今や三メートルほど遠くにいた。相手が何かの拍子に弾け飛ばされたのかと思ったが、否、少年が移動していたのだ。
「大丈夫? ぼうや」
耳元で女性の声が少年に語りかける。
「あ…………うん」
「そう、よかったわ」
見上げると、月明かりに照らされて、微笑んだ紅い髪の女性の顔が見えた。彼女の腕は、しっかりと少年を捕らえている。
少年が前に目をやると、そこには先ほどまではいなかった黒服の人間の後姿が幾つかあった。後ろに髪を束ねた人、短く刈り上げた人、フードを被った人、様々だ。だがそれらの人物に共通しているのが、全員が全員、同じ黒い裾長の服を羽織っているということであった。
自分を抱きかかえる女性の腕も、黒い布で覆われている。
「ぼうや、ここにいてね。絶対に、動いちゃ駄目よ。分かった?」
少年はただ頷いた。
女性は母親のような笑みを見せて、黒い集団の中へと紛れて行った。
「用意!」
誰かが大きく叫んだ。
するとそれを聞いた黒服たちが、一斉に大きな剣を抜いた。
「かかれ!」
再び放たれた声によって、黒服たちは一気にバケモノとの距離を縮めて、剣を振り下ろす。
――ギィヤァァァァオォォ……!
断末魔の叫び。出来損なった口から、声とも呼べない音が溢れ出る。少年は身震いした。だが、それに一番近いところにいる黒服の集団は微動だにしないまま、突き刺した剣が抜けないように押さえつけていた。
――オォォオォオオオォォォォォ…………。
その音から少しずつ力が抜けていくのが分かった。それに比例して、まるで蒸発していくようにバケモノの体が煙となって、どんどん小さくなっていった。少年からは見えないが、どうやら燃えているようだ。陽炎だけがぼんやり見える。やがてそれは――五分もしないうちに、灰と化した。
黒服は剣を黒いマントの中へそれぞれ納める。
「壱松、後始末は頼むわ」
先ほど少年を助けた女性が言うと、髪を短く刈り上げた男が頷いた。
「あの子、どうするんですかリーダー」
長い髪を後ろに束ねた女性が問う。
「連れて行くわ。見てしまったんですもの、もうこの世界から逃れられないわ」
赤い髪の女性が答えて、少年の方へ歩み寄った。少年は、どうしたらいいのか分からずに、尻餅をついた体勢のまま動けずにいた。
「怪我はない、ぼうや?」
「うん、へいき。ありがとう、おねえさんたち」
少年は掠れた声で答えた。
「いいのよ、仕事だから。――悪いけど、私たちと一緒に来てくれるかしら」
少年は少し迷った。
「でも……おとうさんとおかあさんが……」
「大丈夫。私たちが説明しておくから。ね?」
「じゃあたぶん、だいじょうぶ」
「決まりね」
女性は微笑んで、少年の手を取って立ち上がらせた。あれだけの汗をかいたり、叫んだりして体力をかなり消耗したはずだったが、なぜか少年の体は軽かった。
他の黒服はすでに教室からいなくなっていた。どこへ行ったのかと思い、少年が視線を巡らすと、窓の外に彼らはいた。少年が見たこともない不思議な乗り物に乗っている。
「あれ、なぁに?」
大きな黒いそりのようなその乗り物を指差して、少年は女性に尋ねた。
「あれはね、私たちの乗り物よ。ぼうやたちの車とは違うでしょう? 空も飛べるのよ」
「おれ、ぼうやじゃないよ」
「あら、ごめんなさい。そうよね」
女性はそう言って少年の体を抱き上げて、そのそりに乗っている男に渡した。そして自分もそれに乗り込む。
少年が振り向いて教室の中を見ると、そこは何もなかったように片付いていた。
「ぼうや、お名前は?」
少年は答える。
「――羽山神楽だよ」
紅い髪の女性は、七草と名乗った。