まさかの如月拾肆
二月十四日。とある殉職したキリスト教司祭の祭日が、日本では何をどうしたらそうなるのかは分からないが、流通業界や製菓業界の販売促進戦略によって、女性から意中の男性に愛の告白をする日になってしまったこの日。の前日。私はこげ茶色の塊と格闘していた。
「うぐー」
近頃ではクーベルチュールチョコレート、という板チョコやブロックチョコよりは多少値段は張るが、その分細かく刻まなくてもそのまま湯煎にかければ溶けてくれるチョコレートがあるので多少便利にはなっている。しかし、それでも面倒なのは面倒だ。チョコレートの中にお湯が混ざらないようにしなければならないのは勿論の事、何より口当たりの良い物を作るには、温度管理が重要である。テンパリングと呼ばれるこの作業が、あたしは一番嫌いだった。この時期は寒いから、お湯がすぐ冷めてしまうし。でも最初から熱湯を注ぐと、残念な事になってしまう。
「うがー」
そんな訳で、うなり声を上げながらチョコレート相手にタイマン勝負を挑んでいた。
「でも意外だね。桃香ちゃん、お料理上手なのに」
そう笑いながら、器用にくるくるとゴムべらを回すのは愛莉である。彼女はこういった作業にも屈することなく、むしろ作る事を楽しんでいる。まぁ確かに、あたしも料理は好きなのだが……。
「お菓子作りは計量が面倒なのよ……」
それに、ちょっと乱暴に扱ってこぼしたりすると、ややこしい事になるし。ぶつぶつ文句を言いながら、しかし意識は完全に目の前の敵に集中させる。前に途中でボールをひっくり返してしまい、大惨事となってしまった事があるからだ。
「えー、細かい作業得意じゃない」
「イライラするのよね……、なんでか分からないけど」
食べるのが嫌いで見たくもないという訳ではないので、もうこれは完全に向き不向きの問題だろう。
「まぁ私は良いんだけどねー。毎年、こうやって桃香ちゃんとチョコ作るの楽しいし」
「そう言ってもらえるとありがたいわ~」
正直、計量は愛莉の手が無いと、あたしだけでやると途中で放り投げ出しかねない。粉をふるったりかき混ぜたりするのはまぁ問題無いのだが、分量というのはお菓子ではシビアに味に反映される。その為、彼女の助けが必要なのだ。最も、愛莉は家だと作りづらいらしいので、ギブアンドテイクもきちんと成り立っている。
「じゃ、ちゃっちゃと作っちゃいましょう」
あたしは泡立て器を持つ手に力を込めた。
『出来たー』
二時間後、三十人分ぐらいはあるだろうか、チョコレートの製造を終え、片付けまで完了した。もっとも、それはあたしの作った分で、どんなトリックを使ったのかは分からないが、愛莉はその倍は軽く作り終えていたけれども。
「全く……。友チョコなんて文化を生み出した野郎をとっちめてやりたいわね」
身も心もくたびれたあたしは、ついそんな不穏な言葉を口にする。しかし、これに珍しく愛莉が真っ当な意見を述べた。
「でも、その前は結局義理チョコ分化が今より勢力を誇っていた訳だよね?」
「むぅ……。恐るべし、お菓子業界……」
自社製品を売る為ならば、手を変え品を変え、あの手この手で策を投じてくる彼ら。その志は見事としか言いようがない。流石である。まぁ、販売業なんてそんなものか。
また、愛莉はこの手の話には強いのか、更に話題を現在のトレンドの方へ拡張させる。
「最近はまた逆チョコなんて文化も出来つつあるしね。本末転倒だよ」
「所謂、“草食系男子”ってのと“肉食系女子”ってのが増えてるからじゃないかな? だから立場が逆転している、と」
「じゃあそのうち、男性からチョコレートを送る日になっちゃうかもね」
「で、逆チョコが女性からになる、と」
なんだか面白くなって、二人して笑ってしまった。だが、そうなると楽だなーと来たる未来へ希望を膨らませたのは秘密である。
「いたちごっこみたい」
「流行なんてそんなもんよ」
およそ中学生の会話には聞こえないだろうが、そんな事を問題としていては身が持たない。この頃流行りの女の子は、現実主義なのだから。
そんな感じで翌日。
「桃香様!」
「恵まれない我々にどうかご慈悲を!」
登校するや否や、クラスメイトの男子からひれ伏されてしまった。何故か文化祭の一件以来、あたしにはこんなキャラが定着しているのである。
「仕方ないのう」
けれども、悪い気はしないので、あたしは用意してきた手作りチョコレートを、大きな紙袋から取り出して彼らに手渡す。というか、この為に作ったんだし。
『ありがたき幸せ! あがめたてまつりまする!』
「私からも~」
勿論、愛莉は当然のように皆に配る。
「ありがとう、本馬!」
「はい、優君も」
「ありがとう」
ここで、湖山がじっとあたしの方を見てきた。なんだ気持ち悪い、とすぐさま思ってしまったが、その理由は明白である。
「ん、何? その物欲しそうな目は」
だからこそあえて、辛辣に返す。目は口ほどに物を言い、というが生憎私は目が見えない(まぁ気配で分かるので見えているのも同然ではあるのだが)。はっきり物を言ってくれなければ分からないのだ。
そこは奴も心得ているようで、
「僕には……?」
おずおずと尋ねてきた。しかし、折角素直になってもらったところ申し訳ないのだが、生憎と紙袋の中にはもうチョコレートは見当たらない。
「ない。さっき他の子にあげちゃったらなくなった」
「なん、だ、と」
これに対し、本気でショックを受けていたようだが、構うものか。
「良いじゃない。あんたはファンクラブの皆さんに沢山もらえるんだし」
むしろ、もらい過ぎてて可哀相になるぐらいの膨大な量なので、あたしはあげない事にしたのである。
「それとこれとは話が」
それでも尚食い下がろうとしたが、
『優くーん!』
ファンクラブの面々の登場に、中断せざるを得なかった。
「噂をすれば」
『私達の気持ちのいーっぱい詰まったチョコレート、受け取ってー!』
「うわあああああああ」
どさどさと降り注ぐチョコレートの雨に、みるみるうちに湖山の体はうずもれていった。それを見てあたしは、手に入らないのなら心中してくれと大海原に入水する、気を病んでしまった人を想像してしまったが、それは作者が周辺の方から妙な影響を受けている所為だと信じたい。
「ぷはぁ」
ようやく山の中から這い出した彼であるが、段ボール箱換算で三箱を超えそうなあの量を、一体どうするつもりなのだろうか。まぁ、私の知った事ではないけれど。
その後も、休み時間が訪れる度に、湖山はチョコレートの山に埋もれていく。それを他の男子諸君は、悲しそうな目で見つめていた。
*
「……さて、始めるか」
僕はどうにかこうにかチョコレートを持ち帰り、クッキーやブラウニーなどのまだ保存のきく焼き菓子と、トリュフや生チョコなどの比較的保存のきかないお菓子に仕分けする。また、その際に名前をチェックする事も忘れない。ファンクラブの面々には適当にクッキーやらマシュマロやらを配るにしても、中には所属していない子からの贈り物もあるので油断が出来ない。僕はもらった人には、全員にしっかりお返しをするタイプだ。まぁ、中には名前の書いてない物もあるので、それには流石に返せないのだが。でも、名前を書かないで渡すというのは、どういう心境から繰り出される行為なのだろう。渡せれば満足、という事なのだろうか。よく分からないが。
「ふぅ……。計366個……。一年分かっ」
――しかも閏年を考慮してるし。
そうやってあれこれ考えているうちに確認を終えると、続いて今日食べる分のチョコレート以外を、専用の保管庫に入れる作業に移る。いただいた物は感謝をこめて、全ていただく。その為に、この大量のお菓子達を最高の保存状態において長持ちさせているのである。……ちなみに、僕の食事がしばらくチョコレートである事は言うまでもなく、食べきった後は無性に塩辛い物が食べたくなるのもまた、毎年の事である。
「終わったー!」
ここまでしてようやく、僕は甘いお菓子にありつけた。作業の後なので、これがおいしいことおいしいこと。執事が淹れてくれたイングリッシュミルクティーとの相性も抜群だ。
「ああ、これは愛莉からだったな」
本日最後の締めくくりは、意図した訳ではないが彼女の物となった。赤やピンクなどの、いかにも女の子らしいラッピングでも、茶色や黒でシックに決めたのでも無い、薄桃色のふんわりした可愛らしく清楚な袋。どこにでもありそうなものだが、それがかえって目立っていたので記憶に残っていたのである。
「……流石過ぎて」
中に入っていたのは、トリュフチョコレートであった。ころころと可愛い、口どけの良いチョコレートで、僕がもらった中にも意外と多い物である。おそらく、見た目が良い割に作るのが簡単なのではないか、勝手な推測を働かせている。だが、愛莉のそれは、これを言ったらもしかしたら失礼にあたるのかもしれないが、他の物とは一線を画していた。まず、見た目の美しさは勿論の事、通常手作り品の場合にはミルクチョコレートと思しき物で作られた品しか並ばない。が、彼女のはナッツ類は勿論、ホワイトチョコレートやビターチョコレートで作られた物など、一粒一粒異なったものが入っているようだ。
「まぁ、味は言うまでもないな……。美味い」
彼女は将来、菓子職人として店が開けるのではないか。そう感じさせる一品だった。料理の腕も逸品だが、僕は菓子作りの方が性格的にも合っていると思う。
「ん?」
食べ終わってから気が付いたのだが、袋の底にメッセージカードが貼り付けられていた。
「何だろう……」
彼女が今更、わざわざ僕に手紙まで書いて伝えるような事があっただろうか。疑問に思いながらも、二つ折りのカードを開く。そこには、可愛らしい丸字でこう書かれていた。
<優君へ。ずっと前から好きです。愛莉>
「……え?」
もう一度、名前を確認する。そして、内容を読み返す。もしかしたら、万が一という奴もある。ところが、送り主も宛名も間違ってはいなかった。
という事は、だ。これは正真正銘、愛莉から僕への愛の贈り物、という事になる。メモを手にしばし考えた所で、僕は声を上げた。
「……えええええええええ」
――これは、どうしたら良いんだろうか。
さて、そんな感じでいよいよ大詰めに向かいます。
果たして探偵社の面々の関係はどうなっていくのか。
次話はそれほど間を開けないようにがんばりますので、よろしくお願いします。