嫉妬
彼女のピアノを聞きに行く事は俺にとって最高の歓びであり最低の仕打ちでもある。彼女の誘いのままに、コンサートホールに足を踏み入れた事に胸を躍らせながら後悔もしていた。
「天は二物を与えぬと云うが彼女程美しくピアノの腕が良いご婦人が居るとは不公平な話ですな」
シートに腰を下ろすと、隣のシートで身形の良い初老の紳士二人が嬉しそうに目を細めて雑談している。
「あと二十、歳が若ければ、求婚者として名乗りを上げたい所ですな」
彼女が観衆の心を虜にして離さない存在である事は誉れ高い事であり、同時に嫉妬の炎に苦悶する事でもあった。彼女の美しさに羨望の眼差しを向け、甘く心をときめかせるなど許せない。絶対に。
客席の照明が落ちて、静かに彼女がステージに現れた。艶やかな黒髪を結い上げ、シックな黒のドレスに身を包んだ彼女を、観衆は熱狂的な拍手で迎える。俺は頑なに腕組みして唇を噛んだ。
彼女の指が鍵盤の上を踊り始める。俺はピアノが弾けないし音楽にも疎いから、彼女の奏でる曲の題名などわからない。だが、華奢な彼女の指から紡ぎ出したとは思えない程の、激しい感情と繊細さが同居した様な不思議な音色は、他の誰にも真似出来ないものなのだと感じとるに充分すぎた。
隣の席の初老の紳士は彼女を憑りつかれた様に見つめたまま、唇を震わせ目に涙を浮かべている。彼女はまるで総てを聴覚だけで確かめる様に目を閉じて指を踊らせる。俺もまた、その美しい音色に酔い、彼女を抱いたまま眠りに落ちる時のような心地良さに似た感情を覚えるのだ。
それと同時に彼女のピアノを聞いていると、諌める事の出来ない征服欲が胸の内で肥大していく。嫉妬の業火に焼かれ狂い出しそうな感情の中和を望むように。身も心も、誰かに向ける笑顔も言葉も感情も何もかも、彼女のものは総て俺のものだと感じていなければ自我が崩壊してしまいそうだ。
曲が終わる度、観衆は激しい柏手を惜しげなく打った。最後の曲が終わった瞬間、俺は席を立った。観衆が名残を惜しむ様に歓声を上げ続ける客席を振り向きもせず、俺は真っ直ぐに彼女の許へ向かった。
彼女の控室に入ると、彼女は壁に貼られた鏡に向かい汗を拭っていた。俺は黙って背後から彼女の腰に腕を回し、力任せに引き寄せた。鏡越しに、彼女の困った様な、諦めた様な、複雑な表情が見えたが、昂った感情を抑える事など叶わなかった。
髪を撫でられ、シーツの中で微睡む俺に彼女がぽつりと呟いた。
「怒ってるの?」
俺は彼女の腰を引き寄せて、胸に顔を埋めた。
「それとも不満?」
彼女の鼓動を頬に感じながら、俺は目を閉じて呟いた。
「君を好きになりすぎただけだ」