maybe cute.
――私は可愛い。
誰かにそう教えられた記憶があるわけでも、鏡の中に芸能人のような顔が映っていたわけでもない。それでも幼い頃の私は、たとえ周囲の全員から『不細工』だと言われたとしても、自分だけは絶対にその言葉を信じないだろうと思えるほど、揺るぎなく自分を可愛いと信じていた。
その自信がどこから湧いていたのかは、今となっては分からない。強いて言うなら、それが私にとっての生きる力みたいなもので、毎朝ほんの少し自分を整えることさえ、昨日より可愛くなるための楽しい遊びだったのだと思う。
鏡を見ることが好きだったし、肌の調子がよければ嬉しくなった。髪が綺麗にまとまれば、それだけで今日一日くらい何があっても平気な気がして、爪を整えることも、自分に似合う服を探すことも、少ない小遣いをやりくりすることも全部楽しかった。
だから、自分を可愛いと思うことが恥ずかしいなんて、当時の私は一度も考えたことがなかった。
「なんかさ、箕島って勘違いしすぎ。そういうの、見ててダルいし恥ずかしい」
「……え?」
「自分が可愛いって、本気で思ってるんだろ?」
中学3年の10月20日。空が薄い橙色に染まり始めた放課後の公園で、私の彼氏だった男は、ひどく面倒なものを処分するような顔をしてそう言った。
優しくてイケメンで、庶民的で、それでいて優等生だった。小さな変化にもよく気づき、私がへこんでいる時には余計なことを聞かずにそばにいてくれるその人は、学校中の女子から好かれていて、私にとって自慢であり、大好きな彼氏だった。
「別れよう。正直、付き合ってくのきつかったし」
「……なんで?」
「だから、そういうとこ。自分に自信ありすぎるっていうか、自分が可愛いって本気で思ってんの、なんかキモいっていうか、気味悪いっていうか」
一瞬、何を言われているのか分からなかった。風が吹いて彼の制服の裾が僅かに揺れ、遊具の向こうから聞こえていた子供たちの声だけが急に遠くなったように感じ、聞き返したいことばかりが頭の中でぶつかり合った。
かわいいって言ったじゃん。コハルが一番かわいいって、誰よりかわいいって、あんたが何度も何度も言ったじゃん、と叫びたかったのに、喉の奥まで込み上げたものが怒りなのか涙なのかさえ分からなかった。
結局、私は何も言い返せないまま、もう話すことはないとでも言いたげに歩き出した彼の背中だけを見ていた。
「可愛い……」
待ってよ、ちょっと待って。私は、わたしは、可愛いはずなのに。自分の口から零れた声はあまりにも頼りなく、今まで一度も疑わなかったことを、初めて自分自身へ問いかけているように聞こえた。
◇ ◇ ◇
その日を境に、肌の手入れをやめ、髪を丁寧に乾かすことも、伸びた爪を整えることもやめた。それまで『可愛くあるため』に積み重ねてきた習慣を、腹立ち紛れにひとつずつ生活から切り離し、枝毛が増えても唇が乾いても、全部どうでもいいことにした。
中学3年の10月から、私は可愛くあることをやめた。高校生になった今、昔の写真と見比べればかなり印象は違うし、艶を失った黒髪や整えていない眉、寝不足で重たく見える目元は、以前の私なら鏡の前で大騒ぎしていた変化ばかりだった。
夜は遅くまでゲームをして、休日は昼近くまで寝るようになった。私服は黒いパーカーとデニムばかりになり、コンタクトもやめて軽くて安い眼鏡をかけるようになったが、それでも昔の自分へ戻ろうとは思わなかった。
努力して、お金も時間も使って、それでも最後には全部『勘違いだった』と言われたのだから、最初から可愛くなろうとしない方が傷つかずに済む。自分で先に『私は可愛くない』と決めておけば、後から誰かに否定されたとしても、初めから分かっていたふりができた。
◇ ◇ ◇
高校選びには特別こだわらなかった。自宅から無理なく通えて、進学実績も悪くなく、両親も納得しているという程度の理由で決めたのだが、入学してしばらくすると、どうやら世間一般でいう『普通の学校』とは少し違うらしいと分かった。
まず、生徒会がおかしいという評判がある。会長、副会長、書記、会計と妙に見目麗しい人間が揃っているらしく、生徒会室は一部の生徒から『花園』と呼ばれていて、実際に海嶺椎名会長や海嶺浩副会長を廊下で見かけると、完全には否定しづらかった。
さらに校内には、花崎透旋という比較対象としてまったく適切ではない男までいる。白金に近い髪に、人形みたいに整った顔を持ち、吹奏楽部や美化委員会で活動しているうえ、ヴァイオリンでも知られているため、遠目からでも妙に目立っていた。
初めて廊下ですれ違った時には、私でさえ二度見した。
「透旋、前見て歩いて」
「見てる」
「今、目閉じてた」
「瞬き」
「長すぎる」
隣を歩いていた戸羽美歌先輩に制服の袖を引っ張られている姿を見て、その神秘性は一瞬で消えた。この学校、顔が良い人ほど中身が変な割合、高くない?
「箕島さん」
「……なに?」
顔を上げると、中谷華沓が私の机の前に立っていた。
クラス委員で、成績もよく、誰にでも親切なうえ、陸上部で身体まで鍛えている。柔らかな黒髪と涼しげな目元も妙に整っていて、制服を普通に着ているだけなのに目立つ中谷まで現れると、どうして私の周りには比較対象として不適切な人間ばかりいるのかと嫌になる。
「数学のノート、日直が集めてるみたいなんだ」
「あ」
そういえば授業の終わりに言われていた気がする。机の奥から数学のノートを引っ張り出し、教室を見回したものの、今日の日直だった女子の姿はすでになかった。
「もう職員室に向かってると思う。僕が渡しておくよ」
「いい」
「でも、提出遅れたら怒られると思うけど」
「中谷くん、自分は松島先生に気に入られてるから、持っていけば怒られないって言いたいの?」
「えっと……」
その困った顔を見ると、無性に腹が立った。日直はたぶん、私がノートを出していないことに気づいていたけれど、わざわざ嫌われ者へ声を掛けるのが面倒で、そのまま職員室へ向かったのだろう。
それなのに中谷は、私がノートを出していないことに気づき、さらに私が日直を追いかければ気まずくなることまで想像して、自分が代わりに持っていこうとする。そういう気遣いまで完璧なのが、余計にうざかった。
「うっわ、箕島最低」
「中谷くん、もう箕島に構うのやめなよー」
教室がざわつき、視線が一斉にこちらへ向けられる。人気者の中谷が、クラスであまりよく思われていない私へ親切にすれば、周囲がどちらへ味方するかくらい、私にだって分かっていた。
「満足ですか、これで」
聞こえるか聞こえないか程度の声で呟くと、中谷は怒るでもなく、ただ困ったように笑った。
◇ ◇ ◇
ひねくれたのは、あの別れ話のせいだと思っている。私は中学生の頃、自分が可愛いと信じ、その可愛さを少しでも長く保つために、同年代の女子が遊びへ使うはずのお金も時間も、かなり美容へ費やしていた。
雑誌を立ち読みして着回しを覚え、少ない服をどう組み合わせるか考え、スキンケア用品も広告だけで選ばず、自分の肌に合いそうなものを調べてから買った。元彼とのデートも近所の公園が多かったけれど、お金がなくても話しているだけで楽しかった。
学校で一番モテる彼から『可愛い』と言われるたび、努力してきた自分まで認められた気がして、もっと頑張れたし、もっと可愛くなりたいと思えた。だからこそ、最後にその全部を『勘違い』と言われたことが、私には耐えられなかった。
私が『可愛い』と言われるたびに喜んでいた頃、彼は内心で笑っていたのかもしれない。そう思った瞬間、それまで積み重ねてきたもの全部が、努力ではなく恥ずかしい過去へ変わった。
だから、もう信じない。他人の言葉も、自分の感覚も、信用しなければ傷つかない。私は不細工だと最初から自分で決めておけば、後から誰かに否定されても、初めから分かっていたふりができる。
◇ ◇ ◇
「かわいい」
「……ねぇ、さっきのなんなの。学校では構わないでって言ったよね」
「聞いてるよ。でも、今日もコハルはかわいいなと思って」
「だったら心の中で言って。私に聞かせなくていいから」
「それは嫌」
昼休み、使われていない特別教室で、私は窓際の椅子に腰掛けていた。梅雨入り前の湿った風が薄いカーテンを膨らませ、遠くのグラウンドから運動部の掛け声が聞こえてくる。
中谷は、私と話している時だけ時々変わる。教室では爽やかで親切な『僕』なのに、人目が少なくなると『俺』になり、髪が跳ねていようが、眼鏡がずれていようが、何を見ても可愛いと言い出す。
中谷がなぜ私へ執着するのかは分からない。入学して間もない頃には待ち伏せされてこの空き教室へ連れてこられ、初対面のはずなのに「コハル」と名前を呼ばれた。
怖くて突き飛ばした私に、中谷は床へ尻をついたまま寂しそうに笑い、『いきなりごめん。でも、俺と仲良くしてほしい』と言った。
それからしばらく経った今も、相変わらず距離は近く、こちらが嫌だと言うまで構おうとする。連絡を無視すればメッセージが増え、学校で避ければ人前でも話しかけてくるので、かなり面倒な男だった。
ただ、完全に嫌いかと聞かれると少し困る。その中途半端な感情が、自分でも余計に腹立たしかった。
◇ ◇ ◇
放課後、提出し忘れていた数学のノートを職員室へ持っていこうと廊下へ出たところで、最悪なことに中谷と目が合った。
「箕島さん、職員室? 一人で行くなら、先生に渡すところまで一緒に行こうか」
「一人で行けるから結構です」
中谷の隣には、腰まで届きそうな長い髪を綺麗にまとめた女子生徒が立っていた。確か陸上部のマネージャーで、中谷と昔から親しいらしいという話を聞いたことがある。
「かーくん、その子って……」
「ああ。箕島さん。同じクラスの子なんだ」
紹介なんてしなくていいのにと思いながら、とりあえず軽く頭を下げる。
「あんまりいい話聞かない子、でしょ」
先輩は中谷へ小声で言ったつもりらしいけれど、距離が近いので全部聞こえた。そうですけど、いい話なんてない箕島ですけど、と心の中だけで返しておく。
「先輩、本人の前でそういうこと言わないでください」
中谷が露骨に顔を顰めると、先輩は少し驚いたように瞬きをしてから、私へ向き直った。
「ごめんなさい。私、木上春子っていうの。よろしく」
差し出された手を見ると、細い指だけでなく、短く整えられた爪まで綺麗だった。私は数秒眺めたあと、握手には応じず軽く頭だけを下げた。
「どうも」
あなたの綺麗なお手てが汚れてしまうので、という嫌味はさすがに口へ出さなかった。
「先輩は先に行っててください。箕島さんのノートを届けたら、すぐ追いつきます」
「私は一人で行けるって言ってるんだけど」
「俺が一緒なら先生に怒られにくいし、今回は利用してくれていいよ」
「前に私が言ったこと、絶対根に持ってるでしょ」
あっけらかんと言ってしまえる『俺モード』の中谷は、そこまで嫌いではない。対して、教室で良い人を演じているように見える『僕モード』には、どうしても偽善者めいた印象が拭えなかった。
◇ ◇ ◇
「箕島ー。部活決めたか」
「まだです」
「いい加減決めろよ。もう5月終わるぞ」
担任に急かされ、私は机へ突っ伏した。この学校では部活動や委員会活動が妙に盛んで、美術部はコンクール、写真部はコンテスト、軽音部は地域施設への出張演奏まであるため、どこへ行っても本気で活動させられる。
できることなら家へ帰ってゲームをしていたい私にとって、どの部も魅力より面倒臭さが先に立った。今やっているゲームの続編が7月に出るので、それまでに前作を終わらせたいのに、のんびり遊びすぎてアイテムばかり大量に溜まり、肝心のストーリーは全然進んでいない。
「入りたい部活なんてない……」
「じゃあ、コハルがやりたいことをする同好会でも作れば?」
「やりたいことないし、学校でゲームするわけにもいかないでしょ」
「ゲーム以外で、昔から好きだったこととか得意だったことは?」
即答しようとして、私は少しだけ考えた。誰にも言われなくても毎日続け、雑誌や本まで調べていたことなら、一つだけ思い当たる。
「可愛くなるためのことなら、昔はいろいろ知ってたけど」
捨てたのは道具だけで、知識まで全部消えたわけではない。
「服とかメイクとか、そういうので人の印象って結構変わるじゃん」
「それ、研究する同好会にしたら? かわいい研究部とか」
「名前からして馬鹿っぽい」
「正式には同好会でも、呼び方は研究部でいいじゃん」
どうやら中谷は、本気で言っているらしかった。
◇ ◇ ◇
普通なら、こんな名前の同好会は申請段階で止められると思う。ただし、この学校は普通ではなかった。
「活動目的が少し曖昧ですね。美容を扱うなら、最低限の衛生管理も必要になります」
申請書を前に、風紀委員会副委員長の大住奏先輩が淡々と言った。
彼女については廊下で何度か見たことがある。書類を抱えて走っているか、風紀委員長の高河志乃先輩の後始末をしているか、大体どちらかだった。
「大住さーん、コピー機、変な音するー」
「触らないでくださいって言ったでしょう!」
「触ってないよぉ」
「じゃあ何で開いてるんですか!」
「勝手に開いたの」
「そんなわけないでしょう。閉めてください!」
物凄く疲れていそうなのに、大住先輩は私たちの申請書へ戻ると、活動内容を一つずつ確認していった。
「化粧品を学校内で扱うなら、使用する道具の衛生管理はしてください。顔や目元、口元へ使うものを複数人で扱うなら、直接共用しない方法も考えてください」
「……はい」
「高額なものを置くなら、誰の所有物かも明確にしてください。購入記録や持ち出し記録も、簡単でいいので残した方がいいですね」
「思っていたより本格的ですね」
「顔に使うものなんですから、それくらいは当然です」
眼鏡の奥から、何を当然のことをと言いたげに見られた。
「活動そのものは面白いと思います。見た目について悩んでいる生徒って、それなりにいるでしょうし」
「笑われると思ってました」
「本人が望んでいるなら、別に悪くないでしょう。ただし、本人が望んでいないのに、勝手に変えようとしないこと」
その時の私は、大住先輩の言葉を単なる活動上の注意事項くらいに受け取り、その意味を自分自身へ重ねて考えようとはしなかった。
◇ ◇ ◇
次は生徒会だった。噂の『花園』へ足を踏み入れただけで帰りたくなったが、書記の北條璃々先輩と会計の島崎朱香先輩は、予想に反して申請書を面白そうに読んでいた。
「美容を中心とした自己表現の研究、ですか」
「一応、そのつもりです」
「一応って言うなよ。テメェが代表で申請してんだろ」
海嶺椎名会長が笑いながら、申請書を指先で軽く叩いた。
「別に悪いことやろうって申請じゃねぇんだから、もっと堂々としとけ。ただ、他人の顔を玩具にはすんなよ」
「それはしません」
大住先輩と似たようなことを言われたが、その時の私はまだ、自分が何を見落としているのか半分も分かっていなかった。
◇ ◇ ◇
中谷は翌日、本当に陸上部を辞めた。
「なんで辞めるの。陸上好きだったんでしょ、同好会と両方やればいいじゃん」
「嫌いじゃないけど、今はこっちの活動をちゃんとやりたい。中途半端に両方やる方が嫌なんだ」
「そういうこと、私のためみたいに言わないでよ」
一目惚れなんて信じないし、理由もなく誰かに執着されるなんて、もっと信じられない。
「というか、同好会を作ったところで、化粧品も道具もタダじゃないんだけど」
「必要なものなら俺が出すよ。同好会の活動費として使うなら、予算はそんなに気にしなくていい」
「は?」
中谷は、教科書を貸すと言ったのと変わらない調子だった。
「いらない。金で私を買おうとしてるなら、今すぐその話やめて」
「そんなつもりないよ。活動するなら必要になると思っただけ」
「だったら自分のために使えばいいでしょ。私は借りを作るのが嫌なの」
私はそれで話を終わらせるつもりだったが、中谷は思っていたより真面目に受け止めたらしい。
◇ ◇ ◇
その日の放課後には、中谷が顧問の松島先生と大住先輩まで巻き込み、個人的にお金を渡すのではなく、同好会への支援として扱う方法を考えていた。
「スポンサーという形にしたらどうでしょう。中谷くん個人から部員へ渡すのではなく、同好会が必要とする備品費を負担する形にします」
大住先輩が差し出した紙には、購入したものは原則として同好会備品、購入記録と領収書を残すこと、高額品は学校へ届け出ることなどが箇条書きされていた。
「最後に一個足します。中谷個人が、お金を出したことを理由に私や他の部員へ何か要求するのは禁止」
「もちろん守る。それでコハルが活動できるなら、俺は何も要求しない」
「交際の見返りも禁止だし、『こんなに金出したのに』もなし。私個人の物を勝手に買うのも禁止」
「全部守る。必要な物を買う時も、先にコハルへ確認する」
即答されると逆に怖かったが、中谷は本当に全部の条件を飲んだため、私はしぶしぶスポンサー制度を受け入れた。
今思えば、それは私が初めて中谷へ意図的に甘えた瞬間だったのかもしれない。ただし当時の私は、完全に『便利な資金源』くらいにしか考えていなかった。
◇ ◇ ◇
中谷の実家は家具関係の会社を経営しているらしく、部室の机や椅子も、学校への正式な寄附という形で用意された。
「なんで社長椅子みたいなのまであるの。普通の椅子でいいんだけど」
「部長が一番長く座ると思ったから、疲れにくそうなの選んだ。これは会社からの寄附扱い」
「勝手なことするなって昨日言ったばっかりなんだけど」
「次からは先に相談します」
傷だらけだった長机は、鏡や道具を広げやすい大きな机へ変わった。壁際には収納棚も置かれ、衛生用品と化粧品を分けて保管できるようになった。
化粧品は、数百円から千円前後で買える低価格帯を中心に色数を揃え、そのうえで必要に応じて数千円以上の高価格帯も少数加えることにした。
「安いものがかなり多いけど、予算なら本当に気にしなくていいよ」
「安いから入れてるんじゃない。色をたくさん試したい物は、手頃な方が揃えやすいの」
「じゃあ全部安い方で揃えればいい?」
「それも違う。色展開とか質感とか、別の強みが必要なら高い方も候補にする」
低価格のチークも、高価格帯のコンシーラーやアイシャドウも、必要なら同じ棚へ置いた。高い物が上で、安い物が下という並べ方にはせず、値段ではなく用途や色、質感で分けた方がずっと使いやすかった。
「なんかいいね。値段で置く場所を決めないの」
「化粧品なんだから当たり前でしょ」
「人間も、値段みたいな分かりやすい基準で席を決めなきゃいいのにね」
化粧品の話をしていただけのはずなのに、中谷が何気なく口にしたその言葉だけは、なぜかその後も胸の奥へ残り続けた。
◇ ◇ ◇
大きな姿見は、美化委員会から借りた。
「壊したら弁償ね。あと、指紋ついたらちゃんと拭いて返して」
「分かりました。使った日は毎回確認します」
美化委員長の斎賀灯里先輩の後ろには、箒と塵取りを持った花崎先輩が立っている。白金の髪と掃除道具の取り合わせが、異様なくらい似合わない。
「花崎先輩、美化委員なんですね」
「そうよ。透旋、そっち終わった?」
「まだ」
「さっきから同じところ掃いてない?」
「綺麗になった」
「元々綺麗だったのよ。次の場所行って」
「分かった」
花崎先輩は特に不満そうな顔もせず、箒を持ったまま廊下の向こうへ歩いていった。顔が良い人ほど変だという私の仮説は、日に日に確信へ近づいている。
「あの……ここって、かわいい研究部で合ってますか?」
その時、部室の入口から聞き慣れない小さな声がして、私は反射的に振り返った。
立っていたのは、知らない女子生徒だった。小柄で華奢な体つきに、目元へ掛かる長めの前髪、低い位置でひとつに結んだ黒髪という、遠目には目立たない印象の人だった。
薄い前髪の隙間から覗く目は決して小さくないのに、俯く癖のせいでほとんど見えない。肩も少し内側へ入り、自分の存在をできるだけ小さくしようとしているように見えた。
「正式にはかわいい研究同好会ですけど、呼び方は研究部でも大丈夫です。何か相談ですか?」
「何をするところなのか、まだよく分からなくて……でも、ここなら聞いてもらえるかなって」
女子生徒は胸の前で両手を握り締め、一度だけ深く息を吸った。
「私、可愛くなりたいんです。何をしたらいいのか、全然分からないんですけど」
◇ ◇ ◇
松永舞子さんは高校3年生で、文芸部に所属していた。応接用ソファへ浅く腰掛けた舞子先輩は、膝の上で指を絡めたまま、兄の結婚式が1週間後の日曜日に迫っていることを話し始めた。
相手は東京に住む女性で、舞子先輩はまだ写真でしか見たことがないらしい。
「すごくおしゃれな人なんです。髪も綺麗で、服もいつも素敵で、写真を見ただけでもちゃんとしてる人だって分かるくらいで」
「可愛い人なんですね」
「はい。私とは全然違う感じの人です」
言葉を探すたびに舞子先輩の指へ力が入り、本人が思っている以上にその女性を意識していることが伝わってきた。
「先輩は結婚式に何を着るんですか?」
「制服です。メイクも、高校生なんだから必要ないってお母さんに言われました」
制服そのものが嫌なのではないだろう。ただ、自分で何ひとつ選べないまま、その人の隣へ立つことが嫌なのかもしれない。
「制服で出るのって、そんなに嫌なんですか?」
中谷は本当に分からないらしいので、私は黙っていろという意味を込めて一度だけ睨んだ。
「松永先輩、勝ちたいですか。誰に、とはまだ聞かないので、自分の気持ちだけ教えてください」
舞子先輩は膝の上で手を握り直し、しばらく迷ったあとで顔を上げた。
「……勝ちたいです。自分でも子供みたいだと思うんですけど、それでも一度くらい勝ちたいです」
消えそうな声だったが、その一言だけははっきり聞こえた。
「私、見た目こんなんですけど、それでも信用してもらえます?」
「頼れる人がいないんです。何から始めればいいかも分からなくて、考えてるうちに余計分からなくなってしまって」
何をすればいいのか分からないまま、それでも自分を変えたくなる気持ちを、昔の私は誰よりよく知っていた。
「可愛くなる方法なら、少し知ってます。それで先輩を可愛くできるかは分からないけど、力になる方法なら一緒に考えられます」
舞子先輩は、泣きそうな顔で笑った。
「お願いします。私も、自分で何が嫌なのかから考えてみます」
◇ ◇ ◇
最初にしたのは、メイクではなかった。肌に強い荒れや傷がないか、普段どんな手入れをしているのか、苦手な感触や香りがないか、日常でどんな髪型や服装を好んでいるのかまで一つずつ聞いた。
「洗顔した後、何か使ってます?」
「化粧水だけです。乳液はべたべたする感じが苦手で、あまり使ってません」
「なら、無理に重いものを使わず、軽い使用感のものから探した方がよさそうですね」
人の顔へ触れる前には手を洗い、リップ用ブラシや綿棒は使い捨てにした。ブラシやスポンジも誰に何を使用したか記録し、使用後は製品や素材に合った方法で汚れを落として十分に乾燥させる。
大住先輩から渡された衛生管理表も部室の壁へ貼り、使用日や洗浄日を記録できるようにした。
「ずいぶん本格的になったね。俺、もっと気軽な同好会だと思ってた」
「顔に使うものなんだから当たり前。中谷はスポンサー兼経理なんだから、帳簿と在庫表お願い」
「スポンサーなのに経理まで担当するんだ」
「財布だけで許されると思ってたなら甘いよ」
中谷は観念したように帳簿を開き、それ以降は私が言わなくても在庫数まで確認するようになった。
◇ ◇ ◇
それから数日間、私は久しぶりに美容のことばかり考えた。舞子先輩の肌や髪を観察し、普段好きな色や苦手な色、どんな雰囲気の服を着ると落ち着くのかまで聞きながら、必要な道具を少しずつ絞っていった。
ただし途中から、私の頭を占領したのは『舞子先輩が何を望んでいるか』ではなく、『何をすればもっと可愛くなるか』という別の問いだった。
帰宅するとゲーム機より先にノートを開き、覚えている化粧品の役割を書き出した。化粧下地は肌の表面を整えて、その後のベースメイクを馴染ませやすくし、コンシーラーは顔全体ではなく、目の下や小鼻など気になる色むらを部分的に補う。
フェイスパウダーは表面のべたつきや崩れを抑え、アイブロウは毛流れを整えながら不足している部分を補う。アイシャドウやチーク、リップは、色や質感によって顔全体の印象を変える。
一つ思い出すたび、長い間閉めていた引き出しが開いていくようだった。私は美容が嫌いになったと思っていたのに、知識を掘り起こす作業が思いのほか楽しく、そのことが少し悔しかった。
捨てたのは、好きだったものではなく、好きだった自分だったのかもしれない。
◇ ◇ ◇
放課後には中谷を連れ、駅前のドラッグストアから百貨店まで何軒も回った。最初は手頃な価格帯の棚で、チークやアイシャドウを何色も比較し、同じピンク系でも黄みを含んだ桃色と、灰色を少し混ぜたローズでは、肌へ乗せた時の印象が大きく違うことを確認した。
「ピンクって一色じゃないんだ。こうして並べると、俺でも違うって分かる」
「当たり前でしょ。赤だって茶色だって同じだし、肌の上へ乗せるとまた違って見えるから」
「難しいけど、思ってたより面白いね」
「だから美容って面白いの」
口にしてから、自分で少し驚いた。私は今、美容を面白いと言った。
百貨店では数千円以上する化粧品も見た。同じコンシーラーでも明るさや色調、伸び方は違い、アイシャドウも色だけではなく、光を受けた時の艶や重ねた時の透け方まで変わる。
「これ一個で、安い方なら何個買えるんだろ」
「値段だけ比較しないの。高いから買うんじゃないし、安いから妥協するんでもない」
「必要で、本人が気に入ったら候補に入れる?」
「そう。それ以外なら、どれだけ高くても同好会には要らない」
◇ ◇ ◇
舞子先輩への最初のメイクの日、机の上には価格帯の違う道具が並んでいた。最初に肌を整え、必要な場所へだけ薄く下地を使い、目の下には肌になじむ色のコンシーラーを少量だけ置いて、境目が残らないよう薄くぼかした。
「全部隠すわけじゃないんですね。もっと顔全体へしっかり塗るものだと思ってました」
「消しすぎると、そこだけ不自然になることもあるから、気になる部分だけ少し整えるくらいでいいんです」
舞子先輩は鏡へ顔を近づけ、目の下を確かめた。
「本当だ。少し明るくなっただけなのに、寝不足みたいに見えなくなってる」
「全部変える必要なんてないんですよ。必要なところを少し補うだけでも、ちゃんと違って見えます」
その時の私は、ちゃんと分かっていた。変えることと、消すことは違う。それなのに、美容を思い出すことが楽しくなるほど、その当たり前のことを見失っていった。
眉はスクリューブラシで毛流れを整え、長く飛び出した毛先だけ少し切った。黒髪より僅かに柔らかく見えるグレージュブラウンを選び、毛が少なく見える部分へ一本ずつ足すように細い線を入れていく。
「もっと細くした方が可愛いんだと思ってました。雑誌でも細い眉の人が多かったから」
「細い眉が似合う人もいるけど、先輩の眉を全部別物にする必要はないと思います」
「眉しか触ってないのに、いつもより目までちゃんとして見えます」
「眉って形だけじゃなくて、濃さや毛流れでもかなり印象が変わるんですよ」
昔の知識が次々と戻り、私はもっと試したくなった。最初は『舞子先輩がどうなりたいか』だったはずなのに、いつの間にか『私ならもっと可愛くできる』へ目的が変わり始めていた。
目元には、まず肌になじむ薄いベージュを広げ、その上へ柔らかなピンクベージュを重ねた。最後にグレージュブラウンをまつ毛の近くへ細く入れると、前髪の陰に隠れていた目の輪郭が少しだけはっきりした。
「先輩、目は小さくないですよ。前髪と、俯いてることが多いから見えにくいだけだと思います」
「でも写真だと、いつも細く見えるんです。もう少し大きかったらいいのにって思ってました」
「前髪を少し上げるだけでも、ちゃんと目の形は見えますよ。今のままでも十分綺麗です」
舞子先輩が照れたように笑った。そこで止めればよかったのに、もう少し目尻へ陰影を足せばもっと大きく見える、まつ毛も上げた方が写真では映えるかもしれないと考え始めた。
「もう少しだけ目元をはっきりさせてみてもいいですか? 嫌だったら途中でも言ってください」
「はい。私にはよく分からないので、箕島さんに任せます」
舞子先輩は何を聞いても「はい」と答えた。その返事が本当に本人の望みなのか、いつの間にか私は考えなくなっていた。
頬には黄みを含んだ柔らかなコーラルを入れた。最初はごく少量だったのに、もう少し血色がある方が華やかだと思い、ブラシへ色を取り直して、最初より少し高い位置まで重ねた。
唇も、最初に選んだ落ち着いたローズベージュではなく、もう一段鮮やかな色を試したくなった。
「最初より少し華やかな色も似合うと思うんですけど、こっちも試してみませんか?」
「はい。私にはどっちがいいか分からないので、箕島さんがいいと思う方でお願いします」
低い位置で結んでいた髪まで解き、肩へ下ろした。
「いつもとかなり雰囲気が変わるけど、今日は髪も下ろしてみません?」
「……はい。変えた方が可愛くなるなら、それでお願いします」
返事は、全部同じだった。
結婚式3日前、鏡の中には見違えるほど華やかな舞子先輩がいた。いつもより輪郭のはっきりした眉、陰影を強めた目元、血色のある頬、鮮やかなローズ色の唇に、肩へ下ろした黒髪が重なり、普段とはまったく違う印象になっている。
綺麗だし、華やかだった。これなら東京から来るおしゃれなお嫁さんの隣でも見劣りしないと、私は確信に近いものを抱きながら、大きな姿見を舞子先輩の正面へ向けた。
「できました。かなり雰囲気変わりましたけど、先輩が気にしてたところも綺麗に見えると思います」
ところが、返事がなかった。
舞子先輩は鏡へ映った自分を長い時間見つめ、左右へゆっくり顔を傾けた。前髪、眉、目元、頬、唇と確かめるように視線を移すほど、膝の上で握った指先へ力が入っていく。
「綺麗です。本当に、私じゃないみたいなくらい綺麗です」
「ですよね。これなら結婚式でも、写真に映った時にかなり華やかに――」
「でも、本当に私じゃないみたいで……見ていると、ちょっと怖いです」
その一言を聞いた瞬間、それまで膨らんでいた達成感が一気に萎み、胸の奥へ冷たいものが落ちていくのを感じた。
◇ ◇ ◇
舞子先輩が帰ったあと、部室には蛍光灯の白い光だけが残った。開いたままのパレットや使ったブラシ、コットン、綿棒が机の上へ散らばり、昼間にはきらきら見えていた化粧品が今は妙に無機質に見える。
「失敗した。絶対可愛くなったと思ったのに、本人は全然嬉しくなかった」
写真に撮れば以前より華やかに見えるし、誰かに投票してもらえば今日の方を『綺麗』だと選ぶ人が多いかもしれない。それなのに本人が怖いと思ったなら、私が作ったものは少なくとも舞子先輩の望んだ『可愛い』ではなかった。
私は机の上の鏡を見る。美容なんて興味がないという顔をした自分が映っているのに、その私は舞子先輩へ『こうすれば可愛い』という自分だけの答えを押しつけた。
『本人が望んでいないのに、勝手に変えようとしないこと』
大住先輩の言葉が蘇り、その直後には『他人の顔を玩具にすんなよ』と笑っていた海嶺会長の声まで思い出した。
私は舞子先輩を見ていたつもりだったが、途中から見ていたのは顔のパーツだけだった。目を大きく、眉を綺麗に、頬には血色を、唇は華やかに、髪は下ろした方が女の子らしいという、全部私の中にある『可愛い人はこう』だった。
昔の私も、同じだった。可愛くなるには正解があると思い、その正解へ近づけば近づくほど自分の価値まで増えるように感じていたから、元彼から否定された瞬間には、顔だけではなく自分自身の価値まで全部失ったように感じた。
「私、最低だな。先輩のためとか言いながら、途中から自分がやりたいことばっかりやってた」
「失敗したのと、コハルが最低なのは別だよ。松永先輩に喜んでほしかったのは本当なんでしょ」
「だからって、本人が怖いって思う仕上がりにしたなら、結果としては失敗じゃん」
「だったら、次はちゃんと本人に聞けばいい。結婚式までまだ3日あるんだから、今ならやり直せる」
中谷は慰めるために近寄ってくることも、私の失敗を無理に否定することもせず、少し離れた場所からカレンダーを指した。
その距離が妙に楽だった。以前の中谷なら『コハルは悪くない』と何度も言ったかもしれないが、今は私が失敗したと感じていることまで含めて受け止め、そのうえで次を選ぶ余地だけを残してくれている。
舞子先輩が帰った後に残った道具は、自分で片付けることにした。ブラシに付いた粉を落とし、洗うものは種類ごとに分け、筆先を傷めないよう丁寧に洗浄してから、十分にすすいで水気を取り、形を整えて風通しのいい場所へ置く。
スポンジも汚れが残らないよう丁寧に洗いながら、一つずつ作業を続けているうちに、さっきまで熱くなっていた頭が少しずつ冷えていった。
メイクは魔法ではない。コンシーラーはクマを悪いものと決める道具ではないし、アイシャドウは目を大きくしなければならないという命令でもなく、チークもリップも、結局は使う人が選ぶための道具にすぎない。
使うかどうか、どこへ使うか、どんな色を選ぶかを決めるのは、その顔で生きている本人でなければいけなかった。
◇ ◇ ◇
翌日の放課後、私は文芸部の教室前で舞子先輩を待った。何度も廊下の角まで戻りかけるほど逃げたかったが、それでも昨日のまま終わらせる方が嫌だったので、扉が開くまでその場へ立ち続けた。
「松永先輩、昨日はごめんなさい。先輩を可愛くするって言って、自分がやりたいことばっかりしました」
「そんな、私の方こそ嫌だって言えなくて――」
「そこも含めて、私がちゃんと聞かなかったんです。私の可愛いを勝手に押しつけました」
舞子先輩はしばらく黙ったあと、鞄の持ち手を握り直した。
「私が綺麗だと思う顔にすれば、先輩も嬉しいと思ってました。でも違ったから、もう一回だけやらせてもらえませんか」
「……もう一度、お願いしてもいいんですか?」
「今度は、先輩がどうなりたいのかを最初からちゃんと聞かせてください。嫌なことも、好きなことも」
長い沈黙のあと、舞子先輩が少しだけ笑った。
「私も、もう一度お願いしたいです。昨日は嫌って言うのが怖くて、全部『はい』って答えてました」
「次は嫌なら嫌って言ってください。私も、今度はそれを聞き逃さないようにします」
二人で顔を見合わせたあと、ようやく少しだけ笑えた。
◇ ◇ ◇
最初からやり直した。今度は舞子先輩の顔を見る前に、普段どう過ごしているのか、何を好きだと思うのか、逆に何をされると落ち着かないのかまで、前回より時間をかけて話を聞いた。
「髪を下ろすの、苦手ですか?」
「少し苦手です。勉強してる時に顔へ掛かると落ち着かなくて、いつも結んじゃいます」
「じゃあ結びましょう。いつもの髪型が嫌いじゃないなら、無理に変える必要なんてないです」
「昨日は、下ろした方がいいって言ってましたよね」
「昨日の私は、先輩じゃなくて髪型しか見てませんでした。今日は先輩が好きな方を選んでください」
言ってから少し恥ずかしくなったが、舞子先輩は笑わなかった。
「前髪は目に掛からない方が好きです。でも短くするのは落ち着かなくて」
「だったら長さは残して、目元だけ見えるよう横へ流しましょう。それなら普段も邪魔になりにくいと思います」
「それがいいです。短くしない方が安心します」
昨日とは違う答えだったし、その違いが分かるだけで、私の手つきまで少し変わった気がした。
「メイクはどのくらいしたいですか? しっかり雰囲気を変えたいのか、普段の顔を少し整えたいのか」
「少しだけがいいです。でも、写真で目が細く見えるのだけは、ずっと気になってます」
「笑った時ですか?」
「はい。いつも目がなくなったみたいに見えるから、それだけは少し嫌で」
私は、舞子先輩が最初に部室へ来た日の顔を思い出した。普段は俯いているけれど、笑うと頬が持ち上がって目が細くなり、その時だけ控えめだった表情が一気に明るくなる。
「それ、消さなくてもいいと思います。笑った時の顔なんだから、無理に大きく見せなくても可愛いですよ」
「でも、可愛くするなら目って大きい方がいいんじゃないですか?」
「誰が決めたんですか、それ。大きくするんじゃなくて、今の目が綺麗に見えるようにしましょう」
舞子先輩は不思議そうに私を見たあと、少しだけ頬を緩めた。
肌は昨日より薄く仕上げることにした。必要なところへだけ下地を使い、目元や小鼻など気になる色むらだけをコンシーラーで補い、顔全体を均一に塗りつぶすようなことはしなかった。
「昨日よりかなり少ないですね。これだけでも大丈夫なんですか?」
「隠す必要のないところまで隠さなくていいので。先輩、頬の肌は元々綺麗だし、そこはそのまま残します」
フェイスパウダーも顔全体を白く覆うためではなく、べたつきやすい部分を中心にごく薄く重ねた。
「粉って、もっと顔全部へ塗るものだと思ってました」
「何でも全面へ使えばいいってものじゃないですよ。必要なところへ必要なだけ使えば、それで十分です」
自分で言いながら、昨日の自分へ聞かせている気分になった。
眉は元々の毛流れを残し、黒髪より僅かに柔らかく見えるグレージュブラウンで、毛が少ない部分だけを補った。眉頭にはほとんど色を足さず、輪郭も強く取りすぎないようにすると、昨日より穏やかな印象が残った。
「昨日より薄いですね。でも昨日の眉も、ちょっと格好よくて嫌いじゃなかったです」
「先輩、今日は格好よくなりたいですか?」
「今日は可愛い方がいいです。でも、いつか格好いいのもやってみたいです」
「じゃあ今度、結婚式じゃない日に遊びでやってみましょう」
二人で笑った。昨日の「はい」と今日の返事はまったく違い、それが分かること自体が嬉しかった。
目元には、舞子先輩自身が「可愛い」と言ったピンクベージュを選んだ。肌色へ薔薇色を一滴だけ溶かしたような淡い色で、まぶたへ乗せても強く主張せず、伏せた時にだけ柔らかな色が分かる。
「これ、好きです。昨日使った色より、こっちの方が見ていて落ち着きます」
「じゃあ今日はこれを主役にしましょう。昨日は私が選んだけど、今日は先輩が選んだ色だから」
グレージュブラウンはまつ毛の際へ細く入れるだけに留め、目尻も数ミリ程度にした。
「目、大きくなりました?」
「ほとんどなってないです。輪郭が少しはっきりしただけで、元の形はそのままですよ」
「でも昨日より好きです。ちゃんと私の目に見えるから、見ていて怖くないです」
「それなら、今日はそれが一番大事です」
舞子先輩は鏡へ近づき、それから嬉しそうに笑った。
頬には、黄みを含んだ柔らかなコーラルを選んだ。桃色より温かく、橙色ほど強くない色を大きなブラシへ少量だけ取り、そのまま顔へ乗せず、手の甲で一度余分な粉を落としてから頬の高い位置へ薄く重ねる。
「なんでブラシに取ったのに、一回手の甲で落とすんですか?」
「最初から濃く付けると戻すのが大変だから。薄い色なら、必要なら後からいくらでも足せます」
一度だけ重ねると、私にはもう少し色があってもいいように見えたが、昨日と同じことはしなかった。
「先輩、もう少し色を足したいですか? 私は足しても似合うと思うけど、今のままでも十分です」
「このくらいが好きです。ほんのり色があるくらいなら、自分で見ても落ち着きます」
「じゃあ、ここで終わりにします」
そこで止められたことが、昨日との一番大きな違いだった。
唇には、最初に店で選んだローズベージュを使った。鮮やかな薔薇色ではなく、ピンクへほんの少し茶色を混ぜたような落ち着いた色で、制服へ合わせても唇だけが浮いて見えにくい。
「昨日のリップ、少し苦手でした。でも、せっかく選んでもらったのに嫌って言うのが悪い気がして」
「それ、今日から禁止です。嫌なら嫌って言ってください。私もまた調子に乗るかもしれないから」
「じゃあ、これは好きです。色が付いてるのは分かるけど、口だけ別の人みたいに見えないです」
「そういう感想をちゃんと言ってもらえる方が、私もずっと助かります」
今度の返事は、ちゃんと本人のものだった。
「リボンとか髪飾りは好きですか? いつも何も付けてないから、苦手なのかと思ってました」
「好きです。小さい頃、お兄ちゃんが買ってくれた緑の髪飾りがあって、それだけは今も覚えてます」
「じゃあ緑を試してみませんか。派手なのじゃなくて、制服にも合わせやすい落ち着いた色で」
私は用意していたリボンの中から、深いモスグリーンを取り出した。黒に近いほど暗くはなく、青緑にも寄りすぎていない森の葉のような色で、光が当たると柔らかな緑が見える。
「これ、好きです。お兄ちゃんが昔買ってくれたのも、こんな感じの色でした」
「じゃあ決まりですね。いつもの髪型に、そのまま合わせましょう」
低い位置で髪をまとめ、前髪も短くはせず、目元を隠しすぎないよう横へ流した。制服もそのままにした。舞子先輩が毎日真面目に着てきた制服だって、舞子先輩の一部なのだから。
すべて終わったあと、私は少し離れて全体を確認した。昨日より派手ではないし、写真を二枚並べて『どちらが大きく変わったか』と聞けば、昨日の仕上がりを選ぶ人の方が多いかもしれない。
それでも今日の舞子先輩には、きちんと本人が残っている。
「できました。昨日より変化は小さいですけど、私はこっちの方がずっと先輩らしいと思います」
舞子先輩は鏡を受け取ると、しばらく黙ったまま自分の顔を見つめた。左右へゆっくり顔を傾け、流した前髪や眉、目元、頬、唇を一つずつ確かめ、最後にモスグリーンのリボンへ指先で触れた。
「……私だ。ちゃんと私なのに、昨日よりずっと可愛いって思えます」
昨日は『私じゃないみたい』と言われたのに、今日は『私だ』と言ってもらえた。その違いが嬉しくて、胸の奥に溜まっていた緊張が一気にほどけていく。
「昨日は『私じゃないみたい』って言ってましたもんね」
「今日は、ちゃんと私です。私なのに可愛いって、なんか変な言い方ですけど」
「全然変じゃないですよ。それが一番いいと思います」
舞子先輩の口元へ、ゆっくり笑みが広がった。
「箕島さん、本当にありがとう。昨日嫌だって言えなかったことまで、もう一回聞いてくれて嬉しかったです」
その言葉を聞いた瞬間、昨日から胸の中へ溜まっていたものが、ようやく少しずつほどけていった。
メイクを落としながら、ずっと気になっていたことを聞いた。
「松永先輩、何に勝ちたかったんですか。言いたくなければ、もちろん言わなくていいんですけど」
「お兄ちゃんに、昔から可愛いって言われてたんです。舞子は可愛いなって、ずっと言ってくれてました」
舞子先輩は少しだけ嬉しそうに笑った。
「でも、お嫁さんの写真を見せてもらった時、お兄ちゃんがすごく幸せそうな顔で『可愛いだろ』って言ってて」
「それで、自分の場所を取られたみたいに感じたんですか?」
「お兄ちゃんを取られたくないわけじゃないんです。結婚も嬉しい。でも、私もまだ可愛いって言ってもらいたくて」
子供みたいな理由かもしれないが、私は笑えなかった。自分へ向いていた言葉が別の誰かへ向けられる感覚を、私は嫌というほど知っている。
「じゃあ、お義姉さんに勝つんじゃなくて、自分に勝ちましょう。昨日より自分のことを好きになれたなら、それで先輩の勝ちです」
「それなら、今日は勝てた気がします。少なくとも昨日より、この顔で結婚式に行きたいです」
「それなら十分です。私も、今日の先輩の方が好きです」
その時に浮かんだ舞子先輩の笑顔が、今日一番可愛かった。
◇ ◇ ◇
結婚式当日の朝、私は自宅にいるくせに、何度もスマートフォンを確認していた。最後のメイクは舞子先輩が一人でもできるよう、前日に一緒に練習してあり、下地は少量、コンシーラーは必要な場所だけ、眉は足りないところだけと、手順も簡単に紙へ書いて渡してある。
チークも最初から濃くせず、リップは元の唇の形を活かすよう伝えたのだから、私にできることはもう何もない。それでも気になってしまうあたり、少し前まで他人が可愛くなるかどうかなんてどうでもよかった自分からは、随分変わったと思う。
昼前、ようやくメッセージが届いた。
『できました。昨日教えてもらった通りにやってみました。緑のリボンもちゃんと結べました』
鏡越しに撮った舞子先輩の写真が添付されていた。
私は『かわいい』と打ちかけ、指を止めた。他人から与えられる『可愛い』という言葉を、昔の私は全部信じていたのに、その後は反動で全部信じなくなった。
けれど今、写真を見て私は確かに可愛いと思う。それは絶対的な判定ではないし、誰かが同じように感じなければならないものでもなく、私がこの写真を見てそう思ったというだけの話だ。
『すごく似合ってます。先輩らしくて、とても可愛いです。結婚式、楽しんできてください』
送信ボタンを押しても、今度は少しも怖くなかった。
◇ ◇ ◇
結婚式の翌日、舞子先輩から一枚の写真が届いた。制服姿の舞子先輩は、黒髪へ深い緑のリボンを結び、その隣には真っ白なドレスを着た綺麗な女性が立っていて、二人とも大きな口を開けて笑っていた。
『お義姉さんに、舞子ちゃんすごく可愛いって言ってもらえました。お兄ちゃんにも、久しぶりに可愛いって言ってもらえました』
少し間を置いて、続きが届く。
『でも、お義姉さんもすごく可愛かったです。完全に負けました。でも、負けても全然嫌じゃなかったです』
最後のメッセージまで読むと、私は思わず声を出して笑ってしまった。
『お義姉さんのこと、好きになりました。今度一緒に化粧品を見に行く約束もしました』
『おめでとうございます。昨日の先輩も、すごく可愛いです』
今度は何の迷いもなく送れた。
◇ ◇ ◇
舞子先輩の話は、文芸部の後輩から同じクラスの女子へ、その友人から別の学年へと、思ったより早く学校中へ広がった。かわいい研究同好会には少しずつ相談者が訪れるようになり、私の知らなかった外見の悩みが次々と持ち込まれた。
「眉が濃いのが嫌なんです。友達に男の人みたいだって笑われてから、ずっと気になってて」
「自分では、その眉嫌い?」
「前は別に嫌いじゃなかったです。言われてから鏡を見るたび、変なのかなって思うようになって」
「じゃあ細くする前に、今の眉を綺麗に見せる方法から試そう。嫌いじゃなかったなら、消す必要ないよ」
眉を細く削る代わりに、長く飛び出した毛だけを整え、透明な眉用ジェルで毛流れを揃えた。
「ほとんど変わってないのに、前よりこの眉が好きかもしれません」
「それなら、その方がいいんじゃない? 変化が大きいことだけが成功じゃないから」
最初の頃の私なら、もっと目に見える変化を求めただろう。今は、変えなかったことまで含めて成功だと思えるようになっていた。
◇ ◇ ◇
眼鏡を気にしている女の子も来た。
「コンタクトにした方が、やっぱり可愛いですよね。元彼に眼鏡が似合わないって言われてから、ずっと気になってて」
「眼鏡そのものは嫌い?」
「楽なので好きです。朝も簡単だし、目も疲れにくいから、本当はそのままがいいです」
「だったら外す前に、好きな眼鏡を探そうよ。似合わないって言った人のために、不便な方へ変える必要ないでしょ」
フレームの形や幅、色を一緒に調べることになり、その日はかわいい研究同好会なのに一度も化粧品へ触れなかった。
それでも相談者は、来た時より少し顔を上げて帰っていった。何かを塗ったり削ったりしなくても、本人が自分で選べたのなら、それで十分なのだと思えるようになった。
◇ ◇ ◇
日焼けしやすい肌を気にしている1年生は、もっと白く見える下地を探してほしいと言った。
「白い方が可愛いって、友達にも親戚にもずっと言われてきたので。私も白くなった方がいいのかなって」
「自分では今の肌色、嫌い?」
「そこまで嫌いじゃないです。でも、白くないと可愛くないのかなって思ってました」
「それなら、白くするより今の肌に似合う色を探す方からやってみない?」
本人が白い肌に憧れているのなら、それ自体を否定する必要はない。ただ、本人自身は今の肌色を嫌っていないと分かったので、肌を白く見せることより、今の色へ自然に馴染むベースと本人が好きだという温かな色のチークを試した。
「これなら、ちゃんと自分の顔って感じがします」
「だったら今日はそれを正解にしよう。次に別の色が好きになったら、その時また変えればいいから」
舞子先輩と似た言葉を聞くたび、私は少しずつ答え合わせをしているような気持ちになった。
◇ ◇ ◇
もちろん、本人が大きく変わりたいと言う日もあった。髪を切りたい、普段なら絶対に選ばない色を試したい、今日は思いきり華やかなメイクをしてみたいという相談まで、本人が本当に望んでいるなら止める理由はない。
私が学んだのは、『自然なままが一番』という新しい正解ではなかった。変えたいなら変えていいし、変えたくないならそのままでいい。重要なのは、誰がその選択を決めたのかだった。
人の顔を変えること自体が悪いのではなく、本人の気持ちを置き去りにしたまま、外側から『こうするべき』という正解を押しつけることが違うのだ。
◇ ◇ ◇
相談者が増えるにつれ、中谷の役割も少しずつ変わった。必要な物を尋ねれば購入手続きをし、領収書をまとめ、消耗品が減れば在庫を確認するようになったが、私が求めない限り『この色が可愛い』『こうした方がいい』と活動内容へ口を挟むことはほとんどなかった。
「今月、消耗品の購入が多いね。コットンと綿棒だけでも、前の月よりかなり増えてる」
「相談者が増えたからね。派手なパレットより、こういう衛生用品の方がよっぽど減る」
「在庫数まとめてくれたら、必要な分だけ追加で申請しておくよ。勝手には買わないから安心して」
「ちゃんと覚えてるんだ」
「スポンサーとして信用取り戻してる途中なので」
中谷は本当にスポンサー契約を守っていた。高額なものを見つけても勝手には買わず、私が必要性を説明できなければ購入しないし、金銭的な見返りを要求したことも一度もなかった。
最初は大金を出されること自体が嫌だった。誰かへ借りを作れば、その分だけ自分の自由が減るように感じていたからだ。
けれど中谷は、私が決めた境界を守った。それが積み重なるにつれ、私は少しずつ『甘えること』と『支配されること』は同じではないのだと理解し始めた。
◇ ◇ ◇
中谷が委員会の仕事で遅れてきた日、そのことを嫌というほど思い知らされた。
相談者が二人続き、使用済みの道具を分けながら次の相談内容を聞き、さらに在庫表まで確認していると、普段は中谷が黙って処理していた雑用の多さへ今さら気づいた。
「ごめん、遅れた。委員会の先生に捕まって、思ったより時間かかった」
「遅い。そっちの使用済みブラシ分けて、次の人に相談票書いてもらって。在庫表も途中」
「了解。コハルはそのまま相談続けてていいよ。こっちは俺がやる」
中谷が来ただけで、さっきまで滞っていた作業が急に回り始めた。そこへ安心してしまったことが妙に悔しくて、私はその日初めて、自分が思っている以上に中谷を頼っていることへ気づいた。
別の日には、相談に来た1年生から「今日は中谷先輩いないんですか。いつも一緒だから、てっきり付き合ってると思ってました」と言われた。
「付き合ってないよ。今日は別の用事があるだけ」
反射的に否定しただけなのに、その言葉が自分でも妙に強く聞こえた。事実を説明しただけのはずなのに、胸の奥へ小さな引っ掛かりが残り、夕方になって中谷が部室へ顔を出した時には、理由も分からないまま少しだけ腹が立っていた。
「遅かったね」
「今日は来られないかもしれないって連絡したけど、見てなかった?」
「見た。別に怒ってない」
「ならいいけど、なんかちょっと怒ってる顔してる」
「気のせい」
何に腹を立てているのか自分でも分からないのだから、説明できるわけがなかった。
◇ ◇ ◇
ある日の放課後、美化委員会へ鏡を返そうとしていると、花崎先輩が部室へ取りに来た。
「灯里に頼まれた。今日は廊下の点検で使うらしいから、俺が持ってく」
「分かりました。かなり重いので、落とさないよう気をつけてください」
私が姿見を渡そうとすると、花崎先輩は鏡面へ一度視線を向け、そのまま鏡越しに私を見た。
「箕島、前より顔上げるようになった」
「……そういうところ見てるんですね。人の外見とか、あまり興味なさそうなのに」
「見る。でも、それだけで全部決めるのは面倒」
あまりにも当然のように返され、逆に言葉を失った。
私は花崎先輩のことを、人間離れした外見の変な人としか見ていなかった。外見だけで評価されることに傷ついていたくせに、私は私で、顔の綺麗な人間を『顔の綺麗な人』という箱の中へ押し込み、その人の内側を知ろうともしていなかった。
「私も結構、人のこと外見で決めてたんだなって、今ちょっと思いました」
「みんな多少は見る。見えるものだから。でも、それだけで全部決めなきゃいい」
花崎先輩らしいのか、らしくないのかも分からない答えだった。
そこへ戸羽先輩が現れ、いつまで鏡一枚運んでいるのかと花崎先輩を連れていった。二人の背中を見送りながら、自分が見た目だけで人を決めつけていたことまで少しずつ認められるようになっているのを感じた。
◇ ◇ ◇
その数日後、部室へ入ると、大きな机の中央へ古い写真が一枚置かれていた。
「なにこれ?」
「見てほしくて持ってきた。たぶん、ちゃんと見れば分かると思う」
中谷が指した写真には、幼い子供たちが並んでいた。端にいる女の子は二つ結びで、前歯が一本なく、膝へ大きな絆創膏を貼っているのに、誰より大きく笑っている。
「……これ、私?」
「うん。その隣で泣きそうな顔してる男の子が、俺」
「え?」
もう一度写真を見ると、泣き虫で、転べば泣き、虫を見ても泣き、私が帰ると言えばもっと泣いていた男の子の記憶が、少しずつ写真の顔へ重なっていった。
「……かぐくん?」
「思い出した?」
中谷の表情が、一瞬だけ幼い頃の男の子へ戻ったように見えた。
「中谷だったの? でも県外から来たって聞いてたんだけど」
「幼稚園の途中までこの町にいたんだ。その後、親の都合で県外へ引っ越した」
「なんで最初に言わなかったの」
「忘れられてるって分かったら、思ってたよりショックで言えなかった」
忘れられていたと知って黙り込んだ幼い頃の中谷を想像すると、さすがの私もそこだけは少し可哀想だったと思う。
「昔のコハル、自分で世界一可愛いって本気で言ってたよ」
「最悪。そんな子供、今会ったら絶対面倒臭いと思う」
「俺は好きだった。転んで泥まみれになっても、『コハルかわいいから平気』って起き上がるところとか」
「意味分かんないし、今聞くとかなり恥ずかしい」
記憶が少しずつ戻ってくる。あの頃の私は、今よりもっと無茶苦茶な理屈で生きていたけれど、自分が嫌いになるという発想だけは持っていなかった。
「だから高校でコハルを見つけた時、すぐ分かった。見た目はかなり変わってても、コハルだったから」
「それで最初からあんなに距離近かったの?」
「うん。でも、それは俺が悪かった。昔のコハルを知ってるから、俺の方が本当のコハルを知ってるみたいに思ってた」
中谷は珍しく、笑わずに私を見た。
「何してもかわいいって言えば喜ぶと思ってたし、嫌がっても俺にはかわいいんだからいいだろって思ってた」
「かなり気持ち悪いね。それ、自分で分かるようになっただけ進歩したと思う」
「うん。俺がコハルをかわいいと思うことと、コハルが何を嫌がるかは別だって、今なら分かる」
舞子先輩へしたことを思い出した。可愛くしたかったし、喜んでほしかったという善意があったからこそ、それだけで相手を見たつもりになっていた。
「昔のコハルも好きだけど、今のコハルは今からちゃんと知る。昔みたいになってほしいとも思わない」
「それ、前の中谷なら『今も昔も全部かわいい』で終わってたよね」
「たぶん。今は、それだけじゃコハルの話を聞いたことにならないって分かった」
その言葉を聞いた時、胸のどこかで長い間固まっていたものが、ほんの少しだけ緩んだ。
◇ ◇ ◇
その夜、私は洗面台の鏡の前へ立った。毎朝使っているはずなのに、こんなふうに自分の顔そのものを見るのは久しぶりで、黒い髪も眼鏡も整えきれていない眉も、逃げずに見れば全部今の私の顔としてそこにあった。
昔の自分と比べれば確かに違うけれど、どちらか一方だけが本物というわけでもない。
「可愛くない」
口に出してみると、以前ならそこで思考を止めていたことに気づいた。私は不細工だから何もしない、何もしないから自分の外見を好きになる理由も増えない、それでまた不細工だから仕方ないと思うという、同じ場所を何年も回っていた。
私は棚を開け、母の化粧水を借りた。顔を洗い、タオルで擦らず水分を押さえてから、化粧水と軽い乳液を馴染ませ、最後にリップクリームを塗る。
もう一度鏡を正面から見ても、数分前と比べて外見そのものはほとんど変わっておらず、当然ながら急に別人になったわけでもなかった。
それでも丁寧に手入れした肌は少し心地よく、乾いていた唇の違和感もさっきより和らいでいて、それだけで思っていたより気分がよかった。
「悪くないな」
世界一可愛いまで戻らなくてもいい。明日は眉を少し整えてみようと思えるし、毛先を切ったり、黒いパーカー以外の服を一枚くらい買ったりしてもいい。
中谷のためではないし、元彼を見返すためでも、誰かから合格をもらうためでもない。私がそうしたいと思ったなら、その理由だけで十分だった。
◇ ◇ ◇
翌日の放課後、部室へ入ると、中谷が私を見ていつものように口を開きかけた。たぶん『かわいい』と言おうとしたのだろうが、少し考えたあとで、以前とは違う言葉を選んだ。
「今日、なんか楽しそう。眉が変わったのもあるけど、昨日よりずっと顔上がってる」
「眉を少し整えただけなのに、そこまで分かる?」
「そこじゃなくて表情。前は鏡見る時も、なるべく自分と目を合わせないようにしてたから」
花崎先輩と同じことを言われた。
私は姿見へ視線を移した。眼鏡をかけ、黒い髪を下ろし、制服を着ている姿は昨日と大差なく、眉が少し整った程度で外見そのものは劇的に変わっていない。
それでも以前の私は、鏡を見る時に顎を引き、なるべく自分の顔と目を合わせないようにしていたのに、今は正面から見ている。
「そうかも。前より鏡見るの、嫌じゃなくなった気がする」
鏡の中の自分へ向かって少し笑うと、その笑顔も以前ほど嫌ではなかった。
「コハル、今日かわいい」
「今日も、でしょ」
口にしてから、自分が何を言ったのか理解した。
中谷は一瞬だけ目を丸くしたあと、信じられないくらい嬉しそうな顔をしたので、私は急に恥ずかしくなった。
「今のもう一回言って」
「絶対嫌。聞こえたならそれで満足して」
「一生覚えとく」
「そういう重いこと言うから気持ち悪いんだよ」
それでも、以前のように腹は立たなかった。
◇ ◇ ◇
夏が近づいた頃、舞子先輩が久しぶりに部室へ来た。黒髪には、兄の結婚式の日に選んだ深い緑のリボンが結ばれていて、最初に部室へ来た頃より、顔を上げて歩くことがずっと自然になっていた。
「これ、今月号です。私、結婚式と、ここでメイクしてもらったことを短い文章にしたんです」
「私が読んでもいいんですか?」
「そのために持ってきました。名前は出してないので安心してください」
渡されたのは、文芸部が発行している月刊誌だった。ページを開くと、タイトルは『鏡の向こう』とある。
本文の中に私の名前は出てこなかった。けれど、自分の顔を嫌いだと思っていた女の子が、誰かに別人へ変えてもらうのではなく、自分の好きなところを一つずつ探していく話だった。
最後の一文だけ、何度も読んだ。
『鏡に映る人を好きになる必要はない。ただ、嫌う理由まで誰かに決めてもらわなくていい。』
文章を読み終えたあとも、その一文だけが何度も頭の中へ戻ってきて、印刷された文字が少しずつ滲んで見えた。
「箕島さん、もしかして泣いてます?」
「目にゴミ入っただけです。それより、これ本当に良かったです」
「絶対違うと思いますけど、そういうことにしておきます」
舞子先輩が笑った。
「私、お義姉さんと今度化粧品を見に行くんです。今度は似合うかどうかだけじゃなくて、自分が好きだと思える色を探してみようと思って」
「それがいいと思います。迷ったら、先輩が使いたいと思えるかどうかも大事にしてください」
「はい。お義姉さんにも、同じこと言われました」
舞子先輩は嬉しそうに頷き、リボンの端を指先で整えた。初めて部室へ来た頃には、人と話すたび前髪の奥へ隠れていた先輩が、今は私の目を見ながら、自分の好きなものについて話している。
その姿を見ていると、私が舞子先輩へしてあげたことは、顔を別人のように変えることではなかったのだと改めて思う。どんな姿を選ぶのかを他人へ委ねず、自分で決めてもいいと思えるきっかけを、一緒に見つけただけだった。
◇ ◇ ◇
舞子先輩が帰ったあと、中谷はしばらく何も言わなかった。どうやら、私が泣きそうになっていたことへ気を遣い、いつものように余計なことを言わない方がいいと判断したらしい。
「言いたいことあるなら言えば」
「泣いてたねって言ったら怒ると思って、今回はちゃんと黙ってました」
「正解。そこで学習できるようになったなら、少しだけ褒めてあげる」
「じゃあ、その褒美にスポンサーとは関係ない話してもいい?」
「その前置き、ちょっと怖いんだけど」
中谷は少しだけ息を吸い、いつもの軽さを消して私を見た。
「俺、コハルが好き。昔のコハルがかわいかったからじゃなくて、今のコハルが好き」
「それは、まあ……ずっと聞いてるけど」
「今日はちゃんと最後まで聞いてほしい。前に言ってたのとは、少し違うから」
私は黙って続きを待った。
「間違えたらちゃんと謝りに行くところも、人のためなら何時間でも調べるところも、金の使い方には異常に厳しいところも好き」
「最後、悪口でしょ」
「ゲーム始めると返事なくなるところも、怒るとかなり口悪くなるところも、全部知った上で好き」
「それもあんまり褒めてない」
「褒めたいんじゃなくて、ちゃんと知ってる今のコハルが好きだって言いたい」
以前の『何でもかわいい』とは違った。良いところだけを並べているわけでも、昔の私を重ねているわけでもなく、面倒臭いところまでちゃんと見た上で言っている。
「付き合ってほしい。スポンサーだからでも、昔から好きだったからでもなくて、今のコハルと付き合いたい」
胸の奥が少し騒がしくなったが、昔、元彼から『可愛い』と言われた時の喜びとは違っていた。中谷に選ばれたから私には価値があるわけではないし、ここで断ったとしても私は私のままだ。
受け入れたとしても、中谷の持ち物になるわけではない。そのことを、今の私はちゃんと分かっている。
「一個だけ聞いていい? 私が昔みたいに美容に全力にならなくても、それでもいいの?」
「今のコハルが好きって言ったばっかりだよ。変わりたいなら応援するし、変わりたくないならそれもコハルが決めればいい」
「……そうだった」
少し恥ずかしくなった。
「じゃあ条件ある。スポンサーと彼氏は完全に別だから、お金を出したことを理由に何か要求するのは禁止」
「もちろん」
「嫌って言った時は一回でやめる。勝手に触らないし、人前で距離を詰めすぎるのもなし」
「分かった。人前のことも、コハルが嫌ならしない」
「前なら絶対、少しくらいって食い下がってたよね」
「それを決めるのは俺じゃなくて、コハルだから」
以前なら自分の希望を押し通そうとしていた中谷が、私の意思を自分より先に置いたことが、どんな甘い言葉を聞くよりも嬉しかった。
それでも、すぐに返事はしなかった。
中谷が好きなのかと自分へ問い直すと、まだ昔みたいに一言で答えられるほど単純ではなかった。ただ、中谷がいない日は少し物足りなく、部室の扉が開いて顔を見ると安心するし、困った時には以前より自然に頼れるようになっている。
話したいと思う。
頼ってもいいと思う。
近くにいても嫌ではない。
それを恋と呼ぶのかは、まだ完全には分からない。
「付き合ってみる?」
それでも、答えを出すなら自分から言いたかった。
中谷の目が大きくなる。
「いいの?」
「嫌になったら別れるし、付き合ったからって何でも許すわけじゃない。それでもいいなら」
「うん。その時はちゃんと言ってほしい。嫌にさせないとは言わないけど、言われたことから逃げない」
「そこも学習したんだ」
「かなりしました」
以前の私なら、中谷の手がこちらへ伸びてくる気配を感じただけで警戒し、触れられるより先に距離を取っていただろう。けれど今は、中谷が私の『嫌』を守る人になったことを知っているから、差し出された手を見ても怖くなかった。
誰かに触れられることを我慢したわけでも、好かれているから応えなければならないと思ったわけでもない。私は少し迷ったあと、自分から中谷の手へ指を重ね、この距離なら近づいてもいいと自分自身で決めた。
「じゃあ、よろしく」
「よろしく、コハル」
握った手から伝わる体温は、想像していたより普通だった。胸が少し落ち着かないのは恋人になった実感がまだ追いついていないからで、その気持ちにも今すぐ名前を付けなくていいと思えた。
◇ ◇ ◇
恋人ができたからといって、それまで嫌っていた自分の顔を突然好きになれたわけではない。メイクを再開したから可愛くなったわけでも、高価な化粧品を使えば誰もが美しくなれるわけでもなかった。
反対に、何も塗らない顔だけが『本当の自分』という考え方にも、今の私は違和感がある。化粧をする日もしない日も、自分で選んだ結果なら、どちらか一方だけを本物と決める必要はない。
誰かに可愛いと思ってもらえる日もあれば、別の誰かには何の魅力も感じてもらえない日だってあるだろう。それでも、それは相手が抱いた一つの感想であって、私という人間そのものの価値を決める採点結果ではない。
そんな単純なことを理解するまで、私は随分遠回りをした。
◇ ◇ ◇
ある日の放課後、部室の扉が遠慮がちに二度叩かれた。
「はい、どうぞ」
扉を開くと、知らない女の子が立っていた。長い髪が頬へ掛かり、俯いているため表情はよく見えないが、両手で鞄の持ち手を強く握っていることから、かなり緊張しているのが分かった。
「あの……ここって、可愛くなりたい人が来てもいいところですか?」
少し前、同じように震えながら部室へ入ってきた人を私は知っている。もっと昔、可愛くなりたいという気持ちそのものを恥ずかしいものだと思うようになった自分のことも、今ならよく分かっている。
「もちろん。ただ、最初に一つだけ聞かせてください。誰かが思う可愛いじゃなくて、あなた自身は、どうなりたいですか?」
女の子がゆっくり顔を上げた。
その後ろにある姿見へ、私も映っている。眼鏡をかけ、黒い髪を下ろし、眉を少し整えただけの顔は、以前と劇的に違うわけではない。
それでも今の私は、鏡の中の自分と正面から目を合わせている。昔みたいな、何の根拠もない完璧な自信はもうないし、明日になればまた自分の顔が嫌だと思う日も、誰かの何気ない言葉に傷つく日もあるだろう。
だからといって、自分の外見をどう思うかまで誰かに決めてもらう必要はないし、世界中の全員にとって可愛くなければ、自分を可愛いと思ってはいけない理由にもならない。
昔は疑うことすらなかった言葉を、今度は他人に与えられた評価としてではなく、自分自身の意思でもう一度選び直す。
――私は可愛い。
世界中の誰よりも、なんて言わなくていい。
誰かに証明できなくてもいい。
たぶん、私は可愛い。
それでいい。
maybe cute.




