20 陽菜の覚醒と心を解く春待ちロールキャベツ
バートが去った翌日、陽菜の首元には虹色に輝く嗅覚のオーブがペンダントとして揺れていた。
「あれ? お姉ちゃん、なんだか焦げた砂糖みたいな匂いがするよ」
くんくんと陽菜が結衣を嗅ぐ。
「えっ? 私はなにも食べていないけど……」
「違うの。お姉ちゃん、明日締め切りのレポートのことで頭がちょっとパンクしそうになってるでしょ? その焦りが匂うんだよ」
陽菜の言う通り結衣は珍しく課題に追われていた。オーブの力は物理的な臭いだけでなく、感情が放つ魂の香りを可視化したのである。
「パンクってほどじゃないんだけど、ほかの院生たちの叩き台にも使われるレポートだから、頭が痛いのと落ち着かないのは確かね」
そこへ一人の若い男性客が訪れた。
彼はいかにも贅沢な服を着ていたが、表情は凍りついたように暗く、注文を聞いても「なんでもいい」と力なく答えるばかりだった。
大吾が「ステーキでも焼くか?」と腰を上げようとした時――陽菜がその袖を引いた。
「お父さん、待って。この人からはステーキの匂いはしないよ。もっと……こう……冷たい雨の中で見つけた小さな焚き火みたいな匂いがする。今にも消えそうな匂いって言えば伝わる?」
「随分と抽象的だな?」
「私だってわかってるよ。でも間違ってない。少なくてもステーキを豪快に食べたいってお客さんじゃないよ」
「いや、それは半分冗談で言ったことだから深掘りするな」
陽菜はそっと客に歩み寄り、その瞳をじっと見つめた。
「お客様……本当はお腹が空いているんじゃなくて心が寒くて固まっちゃってるだけじゃないですか? 空腹でもないのに食べ物を詰め込むのはよくないですよ」
若い男性客は図星を突かれたように目を見開いた。彼は異世界の領主で重責と孤独から食事が砂を噛むような味にしか感じられなくなっていたのである。
「ここ半年は本当に酷くてね。食べても食べても食事をした気がしないのだ。大変失礼な話だが食後しばらくして吐いてしまう。もうどうしていいかわからないのだよ」
「だからここに来たんでしょう?」
「そうだね」
「だったら任せてよ」
無責任な発言に若い男性客は黙り込んでしまう。もちろんそれを気にする陽菜ではない。
「お父さん、今日は『ほどける料理』がいいと思う。ロールキャベツなんてどうかな?」
陽菜の発案に大吾が応える。
「よし。だが、ただのロールキャベツじゃ、この男の心は解けないぞ」
「陽菜の言う焚き火を再現しましょう。外側は熱々のスープ、でも中心部はあえて少し温度を下げたとろけるチーズを仕込む。この温度変化で脳の緊張が解けるんじゃないかしら?」
「うーん、この人は少しだけお日様の匂いを足してあげたいな」と陽菜が庭で一番日当たりの良い場所で育ったハーブを添える。普段から気配りには定評があるのだが、今日は一段とお客様が見えているという印象だった。
「これでどうだ?」
キャベツの芯を叩き肉の繊維を絶妙に断つことで、ナイフがいらないほどの柔らかさを生み出す。大吾はいちいち口にしないが、ロールキャベツは手間暇に比べて、あまり評価してもらえない料理なのだ。
「はい、どうぞ。これを食べるとね……大丈夫だよって味がするはずだよ」
陽菜がそっと皿を置いた。
男がスプーンを入れるとキャベツが抵抗なくスッと切れ、中から溢れ出した肉汁とチーズの香りが彼の鼻腔を優しく撫でた。
(――――っ!)
一口食べた瞬間、彼の脳裏に広がったのは権力争いでも義務感でもなかった。子供の頃、乳母が作ってくれた、なんの変哲もないけれど温かかった食卓の記憶である。
「……美味しい……ああ……君は否定していたが……やはり私お腹が空いていたようだ」
男の頬を一筋の涙が伝っていく。陽菜がオーブを通して感じ取った孤独が、ロールキャベツの温もりによって溶かされた瞬間である。
「お嬢さん。君の鼻はどんな名医の診断よりも正確だった。また心が凍えそうになったら来てもいいだろうか?」
「もちろん! その時はもっともっと、お日様の匂いがする料理を用意しておくね!」
男は店を出る際、陽菜に深く頭を下げた。客を見送った後、大吾は陽菜の頭をぽんと叩いた。
「陽菜……お前の勝ちだ。俺はあいつがなにを食いたいかじゃなく、なにを出せば満足するかばかり考えていた」
「えへへ、お父さん! 私、もっとみんなの心の匂いを嗅げるようになるね!」
結衣は微笑みながらノートにこう記した。
『四和陽菜:特殊技能・魂の調律。彼女の笑顔は時として父の包丁よりも鋭く母の甘みよりも深く客を救う』




