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2 偏屈な老魔導師と香る四和風冷製パスタ

 エルザが去って一週間。

 夜の営業を終えたテトラ・アコードの庭で、四和一家は寄り添うように小さな花壇を囲んでいた。エルザが残した種から芽吹いたそれは、暗闇の中で淡く、透き通った青い光を放っている。風に揺れると光の粒子が蛍のように舞い上がり、藍色のタイル壁を幻想的に彩っていた。


「お父さん、見て! この子、夜になると蛍みたいに光るよ」


 陽菜が声を弾ませる。理恵はその葉を少しだけ千切り口に含んだ。


「不思議な味。爽やかなレモンのような香りの後に、ピリッとした山椒のような刺激。でも最後にはバニラみたいに甘く消える。もしかしてあのメニューに使えるかしら?」


 理恵が愛おしそうに葉に触れると指先からふわりと、レモンをより鋭くしたような清涼な香りが立ち上った。


「この光、魔力が凝縮されている証拠かもしれません。お父さん、この子、どんな料理に応えてくれるかな?」


 大吾は腕を組み厳格な面持ちでその青い光をじっと見据えていた。


「香りが強い。だが、後味には独特の甘みがあるな。結衣、この植物の特徴を記録しておけ。おそらく熱を通し過ぎると、この輝きと香りは死ぬ」

「わかったわ。明日の朝、成分の定着具合を確認してメニューの構成案を作ります」


 眼鏡を光らせた結衣が手帳を閉じる。一家の視線の先で異世界のハーブは、いずれ訪れるであろう誰かを待つように、静かに強く闇を照らし続けていた。


 

 翌朝、昨夜の幻想的な風景を塗り替えるような清々しい朝日が路地を照らしていた。四和家が朝の仕込みを始めようとしたその時、店の重厚なオークの扉が遠慮のない力で叩かれる。


 ――ドンドンドンドンドンッ!


「はい、ただいま! ――って、うわわっ!」

 

 陽菜が扉を開けるなり後ずさりした。

 そこに立っていたのは、地面に届きそうなほど長い、煤けた灰色の髭を蓄えた老人だった。深い緑の外套はあちこちが焦げ、巨大な水晶が埋め込まれた杖を突き、なによりその瞳には世界中のすべてが気に入らないと書かれたような深い不機嫌の溝が刻まれている。


「おい。ここが魂を震わせる味を出す店か? 噂を聞いて次元の裂け目を超えてきたが――ふん、ただの小汚い飯屋ではないか? カビ臭い空気だ」


 老人の名はバルガス。異世界ではその名を知らぬ者はいない大魔導師だが、今はただの偏屈で不健康そうな老人にしか見えなかった。


「いらっしゃいませ。朝早くからのご来店、光栄です」


 結衣が一歩前に出て完璧な会釈でバルガスを迎え入れる。その瞳は瞬時に彼の状態を読み取っていた。


(歩幅が狭い。呼吸に混じる微かな喘鳴。それから異常に発達した鼻腔。美食家特有の神経質なまでの嗅覚を持っているわね)


「なにを見ておる、小娘。わしを驚かせる一皿を出せ。さもなくば、この店を巨大なカエルに変えてくれるわ。どうせ、なにを食べても今のわしには泥を噛むのと同じだがの」


 カウンターに座るなり吐き捨てられた言葉に厨房の大吾と理恵が視線を交わす。


「大吾さん、バルガスさんは魔力の使い過ぎで内臓が疲れ切っているんじゃないかしら? 濃い味は受け付けない。それなのに精神が極度の刺激を求めているわ」

「ああ。しかしただの刺激じゃあ、あの肥えた舌は誤魔化せんぞ」


 大吾は昨夜見た青いハーブの光を思い出した。


「結衣、彼に最高に冷えた炭酸水と少しの岩塩を。理恵、例の青い芽を摘んできてくれ。四和家の総力戦だ」


 厨房に緊張が走る。

 大吾が選んだのは髪の毛のように細いパスタ――カッペリーニだ。


「麺のコシを殺さずソースを最大限に絡める。0.1秒の茹で加減が彼の喉を通るか否かを決めるぞ」


 大吾の鋭い眼光が沸騰する鍋を見つめる。タイマーは使わない。麺の踊り方、水蒸気の匂いの変化だけで完璧なアルデンテを見極めるのだ。


 一方、理恵は採取したばかりの青いハーブを冷やした大理石の乳鉢ですり潰していた。


「異世界のハーブの刺激を和のコクで包み込む。隠し味は自家製の白味噌よ」


 ハーブの鮮烈な香りと白味噌のまろやかな大豆の香りが混ざり合い、まったく新しい未知の香りへと昇華していく。


 結衣はバルガスの目の前に敢えてなにも言わず、氷を削り出して作った特製の氷の器をセッティングした。


「ほう、演出だけは一人前だな」


 バルガスが鼻を鳴らす。そこへ陽菜がハーブの一片を浮かべた透明な炭酸水を魔法のように美しい所作で注いだ。シュワシュワと弾ける気泡がバルガスの表情を微かに和らげる。


 完成したのは光るハーブがソースに溶け込み、まるで銀河を皿に盛ったような『青いハーブと真鯛の冷製パスタ白味噌の調べ』の完成だ。


 バルガスは眉を顰めながら一口啜った。


(――――っ!)


 その瞬間、バルガスの杖がガタガタと震えた。

 最初は冬の朝の空気のようなハーブの清涼感が鼻腔を突き抜けた。次に白味噌のまろやかさと薄く削ぎ切りにされた真鯛の甘みが乾き切った舌の上で踊る。


(味が……する。泥じゃない。これは……風の味だ。わしがまだ若く魔導の頂を目指して草原を駆け抜けていた頃の――あの青い風の味だ)


 食べ進めるほどに冷たいパスタが彼の熱を持った胃を鎮め、ハーブの魔力が血管を通じて全身に再充填されていく。煤けていた彼の外套が呼応するように淡い光を放ち始めた。


「美味い。いや、懐かしいな」


 最後の一筋を啜り終えたとき、バルガスの瞳には、曇りのない世界の色彩が戻っていた。


「カエルにするのは今度にしてやろう」


 彼はそう言って懐から小さな石造りのガーゴイルの像を取り出しカウンターに置いた。


「わしの古びた魔力が少し籠もっておる。この店の守り神くらいにはなるだろう。また――あの風が恋しくなったら来る」


 去っていく老魔導師の背中は来た時よりもずっと軽やかだった。


「さて、守り神さんも増えたことだし」


 陽菜が早速ガーゴイルを入り口のアイビーの影に設置する。


「私たちも朝ごはんにしましょうか? 大吾さん、余ったソースで私たちのも作って!」


 理恵の明るい声に大吾は少しだけ口角を上げた。四和家の新しい一日が、今日もまた、賑やかに始まろうとしていた。

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