10 世界を繋ぐ至高のフルコースと王の帰還
その日は朝から風も音もなかった。
入り口のガーゴイルは伏し目がちに固まり、万年氷のクリスタルは激しく脈動している。開店の鐘が鳴るのと同時に、一人の少女が店に入ってきた。
灰色の髪に感情を削ぎ落としたような無垢な瞳をしている。幼く見えるが彼女が歩く度に現実の境界が揺らぎ、背後には無数の星々が流れる銀河が見えた。
彼女こそ異世界の理そのもの――創世神の器ステラだ。賢者が予言した世界の運命を左右する客とは、この崩壊しつつある異世界の化身だったのである。
「空腹なの。世界が壊れて味が消えていく。私に存在の証明を一口だけ頂戴」
彼女が座った瞬間、店内の色が薄れ、時間が止まった。四和一家以外の世界が、静かに消滅を始めたのだ。
「大吾さん。彼女、世界中の絶望を食べて心が空っぽになっちゃってるわ」
「計測不能ですね。でも彼女を満足させられなければ、この世界も異世界も、すべて無に帰ります」
「嘘でしょ?」
「冗談でこんなことは言わないわ。それに異世界の来客が増えた頃から覚悟はできていたんじゃない?」
「まあ、なにかは起こるかなと」
達観した結衣と不安げな陽菜、理恵は大吾へ視線を移して微笑む。
「なにか名案でも浮かんだんですか?」
「まあな」
大吾はヴォルグが残した古びた鍵を手に取った。
「この鍵は魔界の奥底にある根源のスパイスの蔵を開けるものだったらしいな。陽菜、店中の明かりを灯せ。理恵、結衣、俺たちのすべてをこの一皿に込めるぞ」
根源のスパイスを清水で溶かし、ドワーフ鋼の包丁で雲の欠片を刻み入れた。焔リンゴの熱と万年氷の冷気を、一つのソースの中で完璧に乳化させる。緊張で震えそうになる陽菜の手を握り結衣は最高に優雅な所作でステラの前に空を映す皿を置いた。
大吾が作ったのはコース料理の真髄を一皿に凝縮した『境界のアッシェ・パルマンティエ』だった。厚揚げと銀鱗マグロを叩き、深みのあるベースを作る。焔リンゴと魔界のスパイスで、魂を震わせる熱を加える。清水で伸ばしたマッシュポテトに雲の欠片を混ぜ込み万年氷で表面を冷やし固める。
オーブンから取り出されたその一皿は黄金色に輝き、食べる者の過去・現在・未来のすべての幸福な記憶を呼び起こす香りを放っていた。
ステラは小さなスプーンをゆっくりと動かした。表面のカリッとした焦げ目、その下のふわふわの雲の層、そして底に沈んだ濃厚な命のソースを楽しむ。
一口、彼女の唇に触れた瞬間。
(――――ああっ……温かい)
ステラの無感情だった瞳に光が戻った。
エルフの森のせせらぎ、ドワーフの鍛冶場の火、騎士の誇り、妖精の笑顔、この店で生まれたすべての和が彼女の空虚な心に流れ込んでいく。
「美味しい。私、まだここにいてもいいのね」
ステラの目から零れた涙が皿に落ちると、消えかかっていた街の景色が、以前よりも鮮やかな色彩を持って蘇った。二つの世界を繋ぐ境界線が、今、料理の力で調和へと導かれたのだ。
ステラは「お腹いっぱい」と微笑み、対価として四和家の扉をいつでも好きな場所へ繋げられる権能を残して消えた。
翌朝。
嵐も止み、いつもの平和な路地裏。
大吾はいつものように包丁を研ぎ、理恵は新しいジャムを煮詰め、結衣は予約台帳を確認し、陽菜は店の看板を外に出す。
「お父さん、今日はどんなお客様が来るかな?」
陽菜の問いに大吾は少しだけ目を細めて窓の外を見た。
「誰が来ても同じだ。いらっしゃいませと言うだけさ」
店先のガーゴイルが朝日を浴びて得意げに目を光らせる。アイビーに囲まれた藍色の洋館テトラ・アコード。今日もまた、カランカランと誰かの救いとなるドアベルが鳴り響いた。




