1 銀髪の騎士と黄金のオムライス
嵐が街を飲み込んでいた。
東京の片隅、その店は賑やかな商店街の喧騒を通り抜け、古い石畳の路地を曲がった突き当たりにひっそりと佇んでいる。外観は昭和初期に建てられた洋館を改装したもので、深い藍色のタイル壁に、年月を経て味わいを増したオーク材の重厚な扉が嵌め込まれている。
特筆すべきは入り口を縁取るように這わされた見事なアイビーの蔦だ。一年中枯れることのないその緑は、雨に濡れるとエメラルドのように輝き、都会の真ん中にありながらそこだけが深い森の中であるかのような錯覚を抱かせる。軒先には真鍮製のアンティークな看板が一つ。四つの音符が重なり合ったような紋章の下に、控えめな書体で『Tetra Accord』と刻まれている。夜になればガス灯を模した暖色のランプが揺らめき、雨のヴェールに霞む路地をオレンジ色に染め上げるのだ。
「ラストオーダー、過ぎちゃったね」
次女の陽菜が窓の外を眺めながら呟いた。19歳。ショートボブの髪を揺らし、フリル付きのエプロンを整える彼女は、店内の空気まで明るくするような向日葵の笑顔が持ち味だが、今夜ばかりは少し心細げだ。
「ええ。でも、まだ看板は仕舞わないで」
カウンターで予約台帳を整理するのは長女の結衣だ。23歳。眼鏡の奥の知的な瞳は常に冷静で、夜会巻きに結い上げた黒髪が凛としたプロの風格を漂わせている。
厨房からは、シュッ、シュッ、という規則正しい音が響く。
オーナーシェフの大吾が包丁を研いでいた。50代前半。白衣の上からでもわかる厚い胸板と、長年の修練が刻まれた節くれだった手が、歩んできた料理人としての歴史を物語る。
その隣で妻の理恵が焼き上がったばかりのクッキーの香りを確かめていた。柔らかなウェーブヘアをシニヨンにまとめ柔和な微笑みを絶やさない。彼女がそこにいるだけで厨房の緊張感は心地よい調和へと変わる。
――カラン、カラン。
激しい風の音に混じり、真鍮のドアベルが鳴った。吹き込んだ雨風と共に一人の客が倒れ込むように入ってくる。
「いらっしゃいま――っ!」
陽菜の挨拶が止まった。
現れたのは奇妙な格好の女だった。背中まで届く長い白銀の髪は泥と血に汚れ、纏っているのは、現代にしては重厚過ぎる本物の白銀の甲冑だった。
「ギ……ギル……ス」
女は異国の、いや、この世界のどこにもない言語を漏らし、そのまま床に膝を突いた。
「陽菜、毛布を! 理恵、お湯を沸かすんだ!」
大吾の鋭い指示が飛ぶ。一家は瞬時に動いた。結衣が駆け寄り意識を失いかけた女騎士の身体を支える。倒れ込んだ女性に対し、陽菜は毛布を掛ける際、単に防寒するだけでなく、心臓の音を落ち着かせるための特定のリズムで背中を叩き続けた。
「大丈夫、ここは世界で一番安全な場所だよ」
一方、結衣はエルザの甲冑の紋章から貴族の礼法を察知した。大吾に対し「お父さん、彼女には銀のスプーンではなく、あえて使い込まれた木のスプーンを! 今の彼女に必要なのは格式ではなく家庭の安らぎです」と助言し、料理のプレゼンテーションを最適化させた。
甲冑の傷の角度から女騎士が敗走ではなく仲間を逃がすための殿を務めたことを見抜き、大吾に彼女の誇りを傷つけない騎士への敬意を込めた盛り付けを提案したのである。
「酷い衰弱です。呼吸が浅い。お父さん、この人、お腹を空かせています」
大吾は女の顔色の青白さと震える指先を凝視した。
「理恵、あれを作るぞ。人の命を繋ぐ一皿だ」
大吾が手に取ったのは使い込まれた銅製のフライパンだった。
「陽菜、自家製の鶏ガラスープを。理恵、薬草園のセリと生姜、それと黄金の卵の準備を」
まず大吾が着手したのはライスだ。
バターで細かく刻んだ玉ねぎと鶏肉を炒める。バチバチと跳ねる軽快な音。そこに理恵が丁寧に裏ごしした特製のトマトソースを投入する。
「ただのケチャップじゃない。酸味を飛ばして甘みを凝縮させた魔法の雫よ」
悪戯っぽく笑いながら理恵はシナモンとほんの少しだけクローブを隠し味に加える。
一方で大吾は黄金色の液体を小鍋で温めていた。数種類の根菜と鶏、そして理恵のハーブ園で採れた命の草(高麗人参に似た和漢ハーブ)を12時間煮込んだコンソメである。
「結衣、このスープでライスを炊き上げる。彼女の冷え切った内臓を内側から温めるんだ」
メインの卵液には厳選された地卵に少量の生クリーム、そして理恵が作った焦がしバターを混ぜ合わせる。強火で熱したフライパンに一気に卵を流し込む。
――ジュワッ!
食欲を激しく揺さぶる濃厚なバターと卵の香りが店内に充満した。大吾の手首がしなやかに返る度、卵は半熟のまま形を整え、ライスの上にふわりと鎮座した。
最後に大吾がナイフでその中央に一筋の切れ目を入れる。ドレープのように溢れ出すトロトロの黄金。その上から理恵が仕上げた琥珀色のデミグラス・コンソメソースを静かに回しかける。
「お待たせ致しました。こちら『生命のオムライス、琥珀のソースを添えて』です」
椅子に座らされ陽菜が差し出した白湯でようやく意識をはっきりさせた銀髪の騎士は目の前の料理を見て瞳を見開いた。
「……これは?」
結衣が優しく毅然とした所作でスプーンを差し出す。
「どうか、温かいうちに。あなたの力になるはずです」
騎士は震える手でスプーンを握り、黄金の塊を一口――口に運んだ。
(――――っ!)
衝撃が彼女の脳を突き抜けた。
まず舌に触れたのはベルベットのように滑らかな卵の質感。次の瞬間、焦がしバターの芳醇な香りが鼻を抜け、凝縮された鶏の旨味が津波のように押し寄せる。
(温かい。お腹の奥に小さな太陽が灯ったみたいだ)
噛み締める度、ライスの粒から溢れ出す薬膳コンソメの滋味が、凍りついていた彼女の血管を解きほぐしていく。トマトの優しい酸味は戦場で荒み切った彼女の精神をやわらかく包み込む。
騎士の脳裏に、景色が浮かぶ。
それは白銀の甲冑を纏う前の幼い日の記憶。遠征に向かう父を送り出す朝、母が「生きて帰るのよ」と持たせた、あの温かい温かいスープの味だ。
「う……ううっ……」
騎士の目から大粒の涙がぽろぽろとオムライスの上に落ちた。
「ああ……美味しい……こんなに優しい味が、この世にあるなんて……」
彼女は夢中で食べ進めた。一口ごとに失われていた魔力が、体力が、そして生きたいという意志が肌に朱を刺していく。最後の一口を飲み込み琥珀色のソースまで綺麗に拭い去ったとき、彼女の表情からは悲壮感が消えていた。
「感謝する、異世界の賢者たちよ。私はアステリア王国の騎士、エルザ。この御恩、生涯忘れない」
彼女は腰の剣を抜き、その柄に嵌め込まれた一粒の魔石を大吾の前に置いた。
「今の私にはこれしか持ち合わせがない。だが、これは我が国では城一つに匹敵する価値がある。どうか、受け取ってほしい」
大吾は魔石を一瞥し、それから家族を見た。
陽菜は微笑み、理恵は頷き、結衣は静かに眼鏡を上げる。
「お代は、もう頂きましたよ」
大吾は空っぽになった皿を指差した。
「料理人にとって空の皿ほど高価な報酬はありません。それはあなたがまた元の世界で戦い抜くための軍資金にしてください」
エルザは目を見開き、やがて深く、深く頭を下げた。外の嵐は、いつの間にか止んでいた。
夜明けの光が差し込む頃、彼女は「また食べに来てもいいだろうか?」と言い残し、すうっと光の渦へと消えていった。
カウンターには彼女が最後まで握り締めていた、異世界の珍しいハーブの種が一つだけ残されている。
「さてと」
大吾がエプロンを締め直した。
「理恵、その種を植えよう。陽菜、片付けだ。結衣、次のお客様のために新しいメニューを考えなくてはな」
テトラ・アコードの朝が、静かに、そして力強く始まった。




