第二話
リヴィアは温かい布団の中で目を覚ました。昨日とは全然違う。いや、今までとは、と言った方がいいかもしれない。ゆっくりと起き上がると、同じ部屋の一人がけの布椅子にカイが丸くなって寝ていた。相変わらずフードを被ったまま、昼間と変わらない服装で寝ている。リヴィアは昨日渡された少し大きい木靴を履いて立ち上がり、カイに近づく。決して血色がよいとは言えない顔色に、昨日はなかった薄いくまを見て、魔法使いはそんなに多忙なのかと思った。
昨日の夜もリヴィアを先に寝かせて研究室に入っていった。長い一人暮らしに突然人が増えたのだから、部屋も布団も一組しかあるはずがないのに、それを使えとリヴィアに言ったのだ。だから家主はこんな布椅子で一人縮こまって寝ている。かけているのは冬用の外套だろうか。毛布一枚も余裕がないのは明らかだ。
「…ん、なんだ、リヴィアか…おはよう」
「おはよう、カイ。寝台使っちゃってごめんね」
リヴィアはカイを起こしてしまったかと少し慌てながら身を引いて、寝具を使ったことを謝る。
「いいんだよ、普段は布椅子どころか硬ぇ椅子で寝ることもあるんだから。むしろ今日はまともな方だ」
「それは…もっとちゃんと寝た方がいいと思うな」
リヴィアの心配を他所に、カイは掛けていた外套を近くの衣掛けに掛けながら伸びをし、床に置いてあった皮長靴を履く。
「よし、今日はお前のもの買いに行くぞ。布団もだが、なにより服が必要だな。俺の服じゃちっとでかいだろ」
カイはそう言うと、颯爽と部屋を出た。リヴィアはその後に続く。リヴィアは他の服がないので昨日貰った外用の服を着て寝ていたため、そのまま外に出られる。リヴィアはカイより背が低いため、歩幅も短い。塔から出るとそれはいっそう顕著で、カイを追いかけるリヴィアは小走りになる。
「か、カイ、待って」
城下に出て少しして、細い路地に入った時にリヴィアは声を出した。前を行くカイを呼び止めたリヴィアの息は上がっている。それにようやく気がついたカイは、立ち止まってリヴィアを待った。
「…悪い、そこまで気が回らなかった」
カイはリヴィアに手を差し出す。同い年であると知っているはずなのに、リヴィアが小さいからそれをあまり意識していないようだ。リヴィアは置いていかれても困るとカイの手を取った。
「…前、一緒に歩いた人は俺より背が高かったから…歩幅は、合わせてもらう側だった」
カイはぼそりとつぶやく。リヴィアにはあまり聞き取れなかったが、カイが少しうつむきがちになっていたので、反省しているのだと思った。
「僕の背が低いのが悪いんだよ。これからは僕も気を付けるから」
「…背が低いのはそう変えらんねぇよ」
「それもそうだね…」
たはは、と笑うリヴィアに、カイは少し目を細めた。
カイは表通りの大きな店の前にやってきた。
「ここだ。ここの店主とは顔馴染みでな。…少し無茶な願いも聞いてくれる」
カイはそう言うと、店の扉を押した。ドアベルが鳴り、カイに続いてリヴィアも店内に入る。
店の中はそこまで広いとはいえず、長椅子と机があり、その他は壁にある二つの扉だけだった。一つは「試着室」、もう一つは「従業員専用」と書かれている。従業員か、女性が出てきて「いらっしゃいませ」と言う。カイはリヴィアを前に引っ張り、背中を押す。
「こいつの服が欲しい。落ち着いたデザインで、生地は汚れが落ちやすいものを五つくらいだ。あと、下着を数枚と肌着も季節ごとに三枚は欲しい。あと靴下も」
「かしこまりました。少々お待ちください」
女性はそう言うと長椅子を示して応接室を後にした。カイは長椅子に座り、リヴィアに座るようぽんぽんと隣を叩いた。リヴィアはそれに従う。
「…ここ、本当に服屋さん?」
「そりゃどういう意味だ?」
「だって、服屋ってたくさん服がつるされてて、露天商のことが多いでしょ」
「あー…そりゃ旅人向けの服屋じゃねぇか?少しでけぇ商人から上はこういう服屋を使う。俺達は別に気を遣うほど汚れてもねぇし、こういう店の方が品揃えが豊富だ。日常的に着る服は体に合ってる方がいいだろ」
「でも…こんなお店、高いんじゃない?」
「お前、俺を誰だと思ってんだ」
そんな話をしていると、先程の女性が従業員専用扉から出てきた。両手には籠があり、籠には服がいくつか入ってる。
「お待たせいたしました。こちらは子供用の下着と肌着、靴下でございます。調整可能ですので、お客様の体型でしたら問題ないかと思われます。こちらは上服のシャツと下服のズボンそれぞれ三着、それと外套をお付けいたします」
「おう。リヴィア、シャツとズボンが合うかどうか合わせて来い」
カイはそう言うとそれらが入った籠をリヴィアに渡して試着室を示した。
「う、うん…」
リヴィアはおずおずとそれを受け取って試着室へ入った。
それから十数分して、リヴィアは試着室から出てきた。カイは飲んでいたお茶から顔を上げ、リヴィアに「どうだった」と聞いた。
「全部入るよ。けど、その…」
「どうした」
「これ、けっこういい生地だよね?全然チクチクしないし、むしろ滑らかと言うか…」
「そりゃ下手な生地は扱ってねぇよ」
「これ…どれくらいするの?」
カイは少し得意げな顔をする。
「俺は宮廷魔法使いだぞ?普通に研究とその成果の提出をしていりゃ、一年食事に困らねぇ金が入ってくる。この程度の買い物、道端の小石を拾うようなもんだ」
リヴィアは驚いたように目を丸くした。店の女性がリヴィアの手から籠を取り、カイが会計する様をぼんやりと眺めるしかなかった。
カイは受け取った品々を亜空間にしまう。リヴィアには亜空間魔法がどれほどの難易度のものなのかわからないが、使える人の少なさから高難度であることは予想がついた。それをカイはまるでちょっと鞄の中を整理するかのように造作もなく使っている。
「さ、次だ。さっきはその木靴で走らせて悪かったな。靴買いに行くぞ」
「え、これでいいよ?」
「靴はなんかあった時に大切だ。半端なもんは体にも毒だしな」
カイは店の女性に軽くお辞儀をして、フードを深く被りなおして店を出た。
勝手知ったる街だからか、カイは大通りを無視して路地に入っていく。リヴィアは道を覚えることができないと判断し、カイの手を再び握った。
「…ここだ。ここの親父は耳が遠いから、話しかけるときは大きい声でな」
そう言って、カイは路地にぽつりと看板を立てている店に入った。
遅れてリヴィアが中に入ると、火魔法が踊る照明で照らされた店内が目に入る。壁にはさまざまな靴の絵が貼られている。
「おい、親父さん!仕事だ!」
「…ほ、カイ坊か。修理かね?」
「そんなしょっちゅう焦がすかよ!こいつの靴を作ってくれ。木靴と革靴だ。あと布靴を一つくれ」
リヴィアはカイに引っ張られて靴屋の男性の前に立つ。カイが横にある椅子を移動させて、リヴィアに座るよう促す。リヴィアが座ると、男性はリヴィアの足を少し大きい木靴から出す。
「ほう、ほう…ずいぶん使い込まれているな。素足のまま長い距離を歩いてきたような。旅をするのかね?」
「あ、いえ…」
「こいつは旅なんてしねぇよ。ただ、よく動くだろうから革靴は柔らかめにしてくれ」
「おお、そうかい。わかったよ。三つ合わせて1000シルトだ」
「せ、1000?」
リヴィアは驚いた。1000シルトは、昨日自分が買われた金額の三分の一だ。九足買えば奴隷一人分になるということでもある。リヴィアは自分専用の靴を買ったことがないので、それが高いのか安いのかわからない。
「カイ、だめだよ、そんな高いの」
「何言ってんだ?さっきの服だって5000シルトするぞ?」
「な…何してるんだ君は!そんな飛行魚が土に潜るような真似をして!」
カイは呆れたような表情でため息を吐く。
「だから言ってるだろ、俺はこのくらい全然余裕で買えるんだ。このくらい気にすんな。それにこれは先行投資でもある」
「せんこうとうし?」
「…お前の為じゃねぇってことだ」
カイは少しまごつきながら答える。それがカイの本心であるかどうかは置いておいて、少なくともあまり他人に聞かれたくない内容らしい。もごもごと言い終えるとすぐに布靴選びに走って、大きな声で「この橙の紐のやつでいいか?」と靴屋の男性に聞いた。
「おお、それでいいぞ。あと、金髪のお前さん、ちょいといいかい」
男性はリヴィアに耳打ちする。
「カイ坊はああ見えてまだまだ子供だ、お前さんほど落ち着きがあるやつならわかるだろうが、甘え下手なんだよ。よく見てやってくれ」
リヴィアが驚いて男性を見ると、男性はにししと笑った。そして寸法を測っていた紐を取って紙に記すと、リヴィアに再び木靴を履かせた。
「さ、布靴にも大きさはある、合わせておいで。指が痛くなくてかかとがしっかり包まれる大きさが一番だ」
「あ…はい!ありがとうございます」
リヴィアは布靴の籠の前で大きさを見ているカイの元へ走った。
「布靴にも種類があるが、防水魔法をかけるから目は細かいのがいいんだ。だからこの橙の布紐のものから選んでくれ」
「うん、わかった」
カイが差し出したいくつかの布靴をリヴィアは一つ一つ履き比べる。そう時間を置かずに、ちょうどいいものを見つけた。
「カイ、これがいい」
「おう、わかった。魔法をかけるまではただの布だからな、さっきの木靴履いとけ」
カイは布靴を持って男性の元に行き、亜空間からシルト銀貨を差し出す。
店を出てから、リヴィアは気になっていたことを聞こうと思い立った。
「…ねぇ、カイ、亜空間魔法ってそんなに簡単なの?」
カイがあまりにも何事にも亜空間魔法を使うため、リヴィアは魔法に興味を示したようだ。
「あー…説明すっと長くなるし、どっかで飯食いながらでもいいか?」
太陽はほぼ南中しているし、そろそろ昼時だ。朝食を食べ損ねていたリヴィアは頷いた。
二人は街中の料理店に入る。そこから流れてきたいい匂いにリヴィアの腹が鳴ったので、そこに決まったのだ。リヴィアにはお品書きに書かれている内容があまりわからなかったので、カイがほぼ全てを頼んだ。
「…それで、亜空間魔法ってどれくらいの難易度なの?」
「そうだな、1000人一学年の魔法大学で一学年に二人使えたら奇跡だ」
「え…」
リヴィアはフォークに刺したシチューパイを皿に落とした。
「それって、だいぶすごい確率じゃない?そもそも魔法大学に入学できる人も少ないでしょ?」
「そうだな。各地に魔法高等学院までならあるが、それ以上となるとこの国でも一つしかないからな」
カイはパンを引きちぎりながら答える。リヴィアは目の前で呑気にスープにパンを浸している人物が国でも百人いない天才であることに気がついた。
「…カイ、それって君が危険になったりしないの?」
「魔法を使えなくすることは基本できねぇからな。毒で思考能力を奪うとかはできるだろうが。俺が危険になるってことは相手は俺の魔法を利用したいんだろ?それなら魔法は思考能力で使うもんだから、思考能力は奪われない。思考能力が奪われなければ魔法が使える。亜空間を通じて別の場所に転移すれば逃げられるだろ?」
発酵卵のペーストを残りのパンに塗りたくりながらカイは解説する。カイのいうことが理解できないわけではないが、それでも犯罪にも使えそうな能力を目の前の人物が平然と使っていることに驚きを隠せない。
「犯罪に使われたりはしないの?」
「亜空間魔法がか?高級品を売ってる店じゃ奴隷首輪と同じように魔法陣か高等魔法使いじゃなきゃ解除できねぇ札がついてんだよ。それ以下の店はそもそも狙う価値が相対的に薄くなるしな、なら魔法使って仕事した方が利益になるってもんだ」
咀嚼中の口元を手で隠しながらそう続けるカイは、なにも面白くなさそうに残りの食事を嚥下した。リヴィアはまだまだ残っている自分の皿のものも早く空にしようと急いだ。
「急がなくていい。ゆっくり味わって食え。時間はまだあるんだしな」
カイがそう言うので、リヴィアは一転してゆっくりと食べる。改めて味に注目すると、ちゃんと塩が使われていて、旨味もある。肉だって入っている。奴隷だった頃はまったく食べられなかった味だ。なんだか、涙が出てくる。こんな喜びすら忘れていたのか。
「…泣くなよ。お前、どんだけ辛い生活送ってきたんだ…いや、待てよ」
カイはリヴィアをじっと見つめる。リヴィアは驚いて食べていた手を止めてカイの方を窺う。
「お前…家門はなんだ」
「へ?」
「お前の所作、よくよく考えたら奴隷のそれじゃねぇ。生まれた時は奴隷じゃなかったんだろ?それが没落して奴隷に、なんて考えるに容易い。この国出身なら貴族の名前はだいたい知ってる。それに他国出身ならそれでも連れて行けるしーーー」
「ま、待ってよ、僕は貴族なんかじゃないよ。ただ、一回老夫婦に買われたことがあって、そこで所作を教えてもらっただけで…だから、カイと離れる必要はないよ」
リヴィアは身を乗り出して話を遮った。カイはそれに圧倒されるように身を逸らして目を見開く。
「…ごめん、別に、僕は本当に一般の生まれなんだ。なにかやましいこととかがあるわけじゃない」
「…そうか。それならいい。いや、貴族の子供を奴隷として買ったなんて噂されちゃさすがに俺も大変なもんでな。貴族と関わりたくはねぇから、事を済ませるなら穏便にと思ったんだ」
カイは身を引いたリヴィアにあわせてまた座りなおした。
二人が料理店を出ると、店内の空気は弛緩した。王都とはいえ、町人が使用するただの料理店に宮廷魔法使い様がやってくるとは誰も想定していなかったのだ。王都に住んでいれば紫地に金の刺繍のスカーフが何を意味するか、誰でも知っている。そもそも紫の布が手に入りにくい上、金の刺繍なんて庶民にはできないから真似する人はいない。それに真似したら重罪だ。つまり、あの人は正真正銘の宮廷魔法使いなのだ。
そんな店内の事情もどこ吹く風といったカイは、リヴィアと手を繋いで理髪店に向かった。
「え、髪を切るの?なんで?」
「…傷んでるみたいだからな。俺ですら整えてるんだ、お前も整えないと不釣り合いだろ」
カイが店員に「こいつの髪を切ってほしい、まあ、似合って邪魔じゃなけりゃいいと思う」と言うと、店員は「かしこまりました」と言ってリヴィアを奥の部屋の椅子に案内した。カイは小応接室で昨日中断した研究の続きをしていた。
しばらくすると、小応接室の扉がノックされた。
「カイ様、終わりました」
侍女の声だろう。ここのマスターは男性だから、最近雇ったのかとカイは判断した。
「おお、終わったか。ちょっと待ってろ、資料仕舞うから」
カイは資料を亜空間に仕舞うと、「いいぞ」と言った。扉が開かれ、髪を整えられたリヴィアが現れた。
いかにも貴族の少年といった、短すぎず長すぎない金髪の少年の姿がそこにあった。長かった前髪は整えられ、水色の瞳を縁取る金のまつ毛まで美しくそこにあった。
カイは人の美醜の感覚が分からない方だと自負していたため、それを「邪魔そうではない」と判断したようだった。
「ああ、いいだろう。いくらだ」
「150シルトでございます」
「安いな?」
「髪が長く質も悪くなかったので、こちらで買い取らせていただくこととなりました。その分が差し引かれています」
「…そうか」
カイは納得したようにシルト銅貨を出した。
「悪い、500シルト以下の銅貨がねぇ。釣りを貰えるか」
「かしこまりました。少々お待ちください」
侍女が部屋を下がったのを見て、リヴィアはカイに寄った。
「500シルト以下を持ってないって、珍しいね」
「あー、市場じゃ切りのいい数を買うだけだったし、職人のものは500が最低単位だったからな…亜空間の中は時間の流れが異なるから、基本新鮮なものが保存できるんだ」
カイがそこまで言うのとほぼ同時に、侍女が扉をノックして「お釣りをお持ちしました」と言った。
二人が外に出た時、リヴィアは風になびく自分の髪がうなじにさらさらと当たるのがくすぐったいと感じた。カイが伸ばした手をリヴィアがそっと繋ぐと、二人の影が一つに繋がった。