悲しき魔女の歌声は炎の闇に消えた
閑静な住宅街にサイレンの音が四方八方から鳴り響いている。私大の男子専用の学生アパートの一室でソファーベッドに横になり週刊誌を顔の上に乗せ寝ていた学生らしくない学生が週刊誌を払いのけて起き上がった。狭い一間限りの部屋には小さなキッチンとトイレが設けられているが風呂場は無かった。部屋の隅に折り畳み式のテーブルがあり、その上にパソコンが一台置かれている。部屋の中には小さな冷蔵庫と洋服掛けのファンシーケースが一つある他は何もないが床には古雑誌が散乱している。キッチンの下には大きなゴミ袋にコンビニ弁当の空やカップ麺の空等が詰め込まれている。
頭の斬バラ髪をかき上げた無精ひげの学生は、よく見ると色白の背の高いイケメン学生である。薄汚れた白色のトレーナーにすね毛の足がはみ出た灰色の短いズボンを履いていた。
開目一心。二十三歳私大の二回生。今年で三度目の留年である。
一心は履き古したビーチサンダルをつっかけ部屋を出た。何台ものサイレンの音が学生アパートからそう遠くない住宅地の中で音を止めていた。アパートを出ると一心はその方向へと歩いて行った。
百メートル程歩くと数台のパトカーと捜査用車両が赤色灯を回転させて止まっていた。その先の住宅の門扉に立ち入り禁止の黄色いテープが張られて制服の警察官が二人立っていた。その家の前辺りには近所の野次馬が十数人、テープを張られた住宅を見つめていた。その野次馬の中にコンビニで顔を合わす近所の老人を見つけて一心は声を掛けた。
「小父さん何事ですか・・」後ろから声を掛けられ振り返った白髪の老人は漸バラ髪の若者を見上げて笑顔になった。「あんた又留年したらしいな・・両親は悲しまないのかね」それだけ言うと顔を改め「強盗には居られたらしいよ。不登校の女高生が一人でいたらしい・・」と門扉の奥の白い二階建て住居を見上げた。
「白昼強盗・・」時刻は午後二時を少し回った時間だった。
玄関先では背中に白字でポリスと印字された紺色のジャンパーを着た鑑識課員が動き回っている。玄関ドアが内側から開けられ五十前後の壮年の男が姿を現した。続いて青白い顔の長い髪の女の子が三十代と思われる女性に伴われ玄関から出て来た。
赤いトレーナーにジーンズ姿の女の子に、渋いこげ茶色の背広を着た白髪交じりの男が何事か話しかけている。女の子が手振り身振りで何事か説明している様だった。
一心からの距離は十数メートルはあるだろう。一心は腕を組んでその女の子の顔を見ていた。
何を想ったのか一心は門扉の前に立っている一人の警察官の前に歩み寄った。
「すいませんが・・メモ紙とボールペンを貸していただけませんか・・」
声を掛けられた警察官は怪訝な顔でボサボサ頭髪の怪しげな若者の顔を見た。
「・・何に使うつもりだ・・それを・・」若者の口元が緩んだ。
「この事件解決を早める情報を提供しようと思って・・」
「何だって・・君は犯人を知って居るとでも言うのか・・」「はい・・それは・・そうです・・ですからメモ紙を・・」若者にそう言われて半信半疑ながら警察官はポケットからメモ帳を取り出し白紙のページ一枚を千切ってボールペンと共に手渡してくれた。「すみません・・」ペンと紙片をうけとった若者は手の平に乗せた紙片に何やら書き込み、その紙を小さく折り畳みボールペンと共に警察官に手渡してこう告げた。
「この紙をあの女の子の側にいる年配の刑事さんに渡してください・・そうすれば事件解決が早まります・・お願いします・・」若者の無精ひげの顔が僅かに微笑んだ。
紙片を手渡された警察官と若者を、もう一人の警察官が不審な顔で見つめていた。紙片を受け取った警察官が立ち入り禁止のテープを潜り門扉を開いて、女の子と会話している年配の刑事に近寄り何事か呟き紙片を手渡した。若者の耳に「熊倉警部・・」と呼びかける声が聞こえた。
年配の刑事が折りたたまれた紙片を開くのを認めて若者は踵を返しその場を後にした。
紙片を開いて読んだ熊倉警部は門扉の外を振り返って見た。そこに若者の姿は消えていた。
熊倉警部は女の子を連れてもう一度家の中に入って行った。それから一時間事件は女の子による狂言強盗と判明し事件解決となった。
若者開目一心が警部に届けた紙片には、ー狂言は両親に対する反抗ーと記されていた。
数日後、一心と顔見知りの老人の家を警察官が尋ねて来た。応対に出た老人に警察官はー先日の事件現場に来ていた、これこれこう言う人相の若者を知らないかーと尋ねた。
「その若者なら心当たりがあるが、その若者が何か悪い事でもしたのかね・・わしの知る若者はそんな悪い事をする男とは思えないが・・」老人は即答を控えた。
「あっいや・・その若者が事件解決に一役買ってくれたので刑事課長が一言礼を言いたいと探しているのです。すいませんが御存知でしたらお教え願いませんか・・」
「本当に礼を言いたいと・・」老人は暫く考え込んだ。
ーあの時確か開目君が警察官にメモを手渡していた様だったが・・まさかあれか・・ー
「あの時、わしも現場にいた野次馬の一人だが何やらメモを警察官に手渡していた若者の事だろうか・・」尋ねて来た警察官に老人は尋ねた。
「ああ・・あの時若者の側にいらっしゃった方ですか。メモを受け取り渡したのは私です。あのメモを渡すと事件が早く解決すると若者に言われましてね。すると本当に直ぐに解決してしまった。驚きましたよ」警察官は事件現場の門扉の前に立って警戒していた警察官だった。
「成程合点がいきました。お教えしますよ。その若者は開目一心と言うその先の学生アパートに住む大学五年生ですよ」「大学五年生・・それでは大学院生で・・」
「いやいや未だ二回生で留年中ですよ。わしとは早五年越しの顔見知りだよ。少々変わり者だが良い若者だよ」「そうですか・・助かりましたよ。あの後警部から名前も聞かずに情報提供を受けたとこっぴどく叱られましてね。あの胡散臭い若者をあまり信じていなかった私のミスですから叱られて当然ですよね。それで直ぐにその若者を探してこいと言われて・・」
「そうでしたか。アパートに行けばきっと部屋に居るはずですよ。行って見なさい」
老人は笑顔で警察官を送り出した。
あの日一心から届けられた紙片を見た熊倉警部は被害状況、犯人像の聞き取り調査を打ち切り女の子を室内に導いた。熊倉警部は女の子に対する質問を変えた。
「お嬢さん。お嬢さんは警察に110番した後ご両親に連絡をされましたか・・」
突然の質問に女の子は少し慌てた様子だった。
「連絡なんてしていません・・」「何故連絡しなかったのですか。お父さんやお母さんの勤め先は知っているでしょう。携帯電話の番号も知って居るはずですよね・・」
「勤め先も携帯電話の番号も知りません・・」
「ほう・・それは信じられないね。お嬢さんは十七歳ですよね。今時小学生の子供でも親の携帯電話の番号位は知っているよ。何故知らないのですか・・」
「それは・・親とは話したくない言いたくないからです・・」
女の子は俯いた。「言いたくない。それは何故ですか。最近お父さんやお母さんと何かお話をしましたか・・」「・・・」「黙っていては判りませんよ。事件に遭遇すれば位の一番に親に連絡をすると思うのですが、貴女はそれをしなかった。それは何故ですか・・教えて下さい」
女の子は俯いたままで部屋の中を歩き回っている。
「座って話しましょうか・・」熊倉警部は洋間のソファーに座る様に促した。女の子は諦めた様にドッカとソファーに腰を落とした。
「私はお父さんもお母さんも嫌いなんです。自分勝手で私のことなんて気にも掛けない。冷たい家庭何ですよ。我が家は・・」
「それで強盗の作り話で親の気を引こうとしたと言う訳だね。これも犯罪と言う事を知っていましたか」「・・・」
「お父さんやお母さんは今此方に帰ってきていますよ。お嬢さんを心配してね・・」
「本当に・・帰って来ている・・」「ああそうだよ。子供が可愛くない親などいないよ。お嬢さんがどう思おうが我が子が家庭が一番と思うのが親と言うものですから・・」
「・・・」「一人で寂しかったんだな・・親に構って欲しかった・・そうだな・・」
女の子がコクンと頷いた。玄関のドアが開く音がしてドタバタと廊下を走る音が洋間の前で止まった。しばらくして静かに洋間のドアが開き親と思われる男女が部屋に入って来た。
家に入る前に、娘による狂言強盗の経緯を聞かされたらしく二人は熊倉警部に深々と頭を垂れた。「京子お前は・・」怒りを目に宿し娘に詰め寄ろうとした父親を熊倉警部は手で制して言った。「お父さん落ち着いてください。それから娘さんを責めないでください。こうなったのも元はと言えば貴方方ご夫婦にも責任があるのですから。いいですか・・仕事が忙しいのは御察ししますよ。仕事あっての家庭ですからね。でも家に帰ったらネクタイを緩めて家族の会話をして欲しいものです・・これは出過ぎた事を申しました。そう言う私も反省させられる事案でした」
熊倉警部は名乗って今回の事案は無かった事にする旨を伝えこの住宅を出た。夫婦が玄関先で頭を下げ見送っていた。門扉に張られた立ち入り禁止の黄色いテープは取り除かれ、鑑識課員等の姿も既に消えていた。表の市道には赤色灯を消した捜査用車両一台だけが熊倉警部等の帰りを待っていた。
ー何故あの若者はあの事件が狂言強盗だと分かったのか・・それも家庭に原因があると言うことまで・・あの家庭と何らかの繋がりがあったのだろうかー
熊倉警部は机の上の紙片を眺めて自問自答していた。
部長刑事の瀬島の机上電話がなった。受話器を取った瀬島は「そうか・・ありがとう。ご苦労様・・」と通話内容を聞き取ると受話器を置き熊倉警部の前にやってきた。
「警部・・今聞き込みに行った巡査長から連絡がありました。判ったそうです。あの若者の正体がです・・」
熊倉警部の顔が一瞬明るくなった。
「そうか。判ったのか・・それであの若者は何処の何者だ」
「はい。あの若者は私大の学生で五回生だそうです。実際は二回生だそうですが留年しており入学以来学生アパートで暮らしているそうです。名前は開目一心と言うそうです。少々変わり者だが悪人ではない様です。私はあの日玄関先からそれらしい若者を見たのですが、確かに風変わりな若者が道端の野次馬の中にいました。ボサボサ頭の薄汚れた若者が・・」
色黒でスポーツ刈り頭のがっしりタイプの瀬島が何を思ったのか頬を緩めた。
「そうか・・そんなに風変わりな男だったか・・一度会って置かなければならないな」
熊倉警部は天井を仰いだ後、机上の紙片に目を落とした。
私大近くの学生アパートの前に一台の捜査用車両が止まった。事前に調べて来たのであろう車から降りた熊倉警部はアパート隣に建つ平屋の管理人住宅に向かった。警部が玄関ベルを鳴らすと六十絡みの頭の毛が薄い丸い顔の男が玄関ドアを開けて顔を出した。
警部が名刺を差し出し名乗るとと男は慌て玄関先に出て来た。
男は学生アパートの管理人久保と名乗り要件を聞いた。
「ちょっと聞きたいのですが、この学生アパートに開目一心と言う学生が住んでいますか」
警部が尋ねると、管理人は驚いた表情になり「開目が何かやらかしましたか・・何時かはこんな事になる様な気がしていました・・」何を勘違いしたのか卑屈な笑みを浮かべて言った。
「こんな事とは・・彼に問題でも・・」警部に尋ねられ管理人の久保は話し始めた。
「いやね。開目一心と言う男は私大に五年間も在籍していながら未だ二回生のままで今年も留年しています。学校には殆んど顔を出さず、外出は食事と買い出し位で日頃はアパートでゴロゴロしています。変わっているのは、そんな開目を慕って学生達が開目の部屋に出入りしている事です。聞くところに寄りますと、何でも部屋の入口ドアにー何でも相談請負・開心堂ーと書いた紙が貼ってあるそうです。相談一軒につき解決料金千円との事で学生達が出入りする理由はそこにあると私は踏んでいます。あくどい小遣い稼ぎであらぬ問題でも起こしたのでしょうよ」
それを聞いていた警部は即座に否定した。
「管理人さん。私はそんな話を聞きに来たのではありませんよ。彼は今部屋にいるのですか・・
何号室か教えてください。彼はそんな悪い事が出来る男とは思っていませんよ」
「えっ・・」と警部の顔を見直し、やっと自分の勘違いに気付いた管理人は三階建てアパートの二階の部屋番号を伝えた。
熊倉警部が学生アパートの階段口まで来ると階段を降りて来る女子大生と思われる女の子と行き当たった。長い髪をピンクの髪留めで束ねた色白の背の高い女の子だった。赤いトレーナーの上に白いカーディガンを羽織っている。ズボンはジーンズだった。
その女の子はペコリとお辞儀をし「いらっしゃい・・一心さんは部屋で待ってます・・」それだけ言うと風の様にアパートの外に駆けだして行った。声を掛けようとして諦め熊倉警部は階段を上って行った。
ー私の来ることが何故分かった・・と言う事はあの女の子は開目一心の部屋にいた事になるがー最初から機先を制された思いで二階の一番奥にある開目一心の部屋のドアをノックした。
管理人が言った様にドアには太いマジックペンーで書かれたー何でも相談開心堂ーの張り紙があった。
「どうぞ・・カギは掛かっていません・・」応対に出るでもなく部屋の中から声が掛かった。
若者の声だった。「お邪魔するよ・・」熊倉警部がドアを開けて部屋に入ると、四畳半ほどの狭い部屋の床に座って、おり弁当を広げて食べている若者がいた。ボサボサの頭髪が顔に掛かるのも気にせず、下を向いて弁当を掻き込んでいる。薄汚れた白いトレーナーに毛脛が見える半パンは数日前に聞いていた服装そのものだった。
「どうぞ・・そこのソファーに腰かけて待ってください。直ぐに食べ終えますから・・」
弁当を食べ終え、側にあった買い物袋に弁当がらを放り込みペットボトルの水をゴクゴクと飲んだ。色白の顔に無精ひげが生えている。優し気な目をした若者だった。
「すいません。お待たせしました。で・・ご用件は・・」一心はソファーに座っている熊倉警部の顔を見た。「要件は先刻分かっているのでは・・開心堂さん・・」警部は笑顔で言った。
「あっ今分かりましたよ。警部さん・・先日の件ですね・・あれは出任せです。罪になりますか」
一心の涼しい目が警部の顔に注がれた。
「出任せはないだろう。現に君の助言通りの結果になったんだからな。罪には問えない」
「それは幸いでした。私の感も満更ではないでしょう。私は又叱られるのではないかと心配してましたよ」
言葉とは反対に若者は笑顔を見せていた。
「さっき。階段の登り口で若い娘さんが挨拶して君が待っていると教えてくれたが、これをどう説明するのかな」
今度は熊倉警部が一心の顔を見つめて聞いて来た。
「あっ、そのことですか。この時間にこの学生アパートを訪ねて来る人は私に会う以外にないと思ったのでしょう。現に今このアパートに居る学生は私一人ですから・・他の学生は皆大学に行って留守にしていますからね。警部は何か勘違いをなさったのではありませんか・・」
「しかし・・あの娘はこの部屋から帰って行った事に間違いはないだろう・・」
納得できないのか警部は攻め手を変えてきた様だった。
「ああ確かに、大学近くの食堂の娘が昼食弁当を届けに来ていましたがそれが何かご不信でも」
「そうか・・弁当をな・・あの娘とは永いのか・・」
「そうですね。もう五年にもなりますか・・別に隠す必要はないのでお話しますよ。その食堂は菊屋食堂と言います。学生が多く利用する食堂で、以前は私もよく通っていました。私があの娘に出会った頃は、あの娘は中学生でしたよ。それ以来の顔見知りですよ。今はこの春から当大学の一回生になっています。他に何か・・」
「それでは話を変えよう・・開心堂とは何をしているんだね。何でも相談と書かれていたが・・」
又警部は話を変えて来た。
「ああドアの書付を見たのですか・・。あれは悩み多い学生に相談事のアドバイスをしてやると言う看板みたいな物ですよ。聞かれる前にお話ししますが、確かに一件千円の料金を貰っていますよ。ただし問題が解決したらの話ですけどね。相談者が納得していない者からは金はもらいません。未だそんな者は一人もいませんけどね。これは犯罪ですか。貧乏学生のささやかな小遣い稼ぎと大目に見てくださいよ」
「勿論そのつもりで聞いている。例えばどんな相談事があるのかな・・」
「警部。もうそのくらいで勘弁してくださいよ。もう何も話しませんよ」
一心は旋毛を曲げて見せた。
「そうか・・それでは最後にどの様にして相手の望むアドバイスを送るのか教えて欲しい」
一心を見つめる警部の顔に邪心は認められなかった。それよりも一心に対する好奇心と期待がより強く見て取れた。「ふー・・」一心は長い溜息をついた。
「警部には負けますよ。それには私の家の事を話して置かなければなりません。私の家は都会から遠く離れた田舎町にあり、神道の教会所でもあります。我が家が神道に帰依したのは初代教祖の頃と聞いています。我が家の三代前の事で、当時我が祖先は教祖に次ぐ位の霊験を秘めていたとも聞いています。それがどんな事なのか詳しくは知りません。今は兄が四代目を継ぐべき教祖の祀られた本部教会で修業をしている筈です。そんな家で育った私は父親の日々の説教を聞いて育ちました。ある日教会所に来ている信者の老人を見た時、その老人に死の影を見てしまったのです。私が母にーあの人もう少しで死ぬよーと言ってしまったのです。
その老人は間なしに亡くなられたのですが、母は私を強く叱りました。口は災いの元、人に喋ってもいい事と悪い事がある。その言葉が人の幸せに繋がり、正義のためになると信じた時初めて口に出しなさいと教えられました。依頼、人々の顔相を見ても心の奥に仕舞い込んできました。それが留年が長引き、親からの仕送りが削られる破目になり、仕方なく苦肉の策で顔相を口に出して小銭を稼ぐ道具に使ったのです。これが真実です」
黙って聞いていた警部は納得したように笑顔になった。
「そうか・・顔相見か・・いずれその力を見せてもらおう。もう一度見せて貰ったがな・・」
又会おうと警部はソファーから立ち上がり帰って行った。
二年前の夜、開目一心と菊屋の娘菊池スミレの仲を近づける出来事があった。其日一心は学生アパートの後輩で私大の柔道部員である郷田雄介と二人で菊屋食堂で夕飯を食べていた。
菊屋食堂は定員二十人程の昔ながらの食堂だった。私大の近くと言う事もあって私大の学生が多く利用していた。店の店主は菊池万作で妻の伸江と二人で営み高校生の娘スミレが手伝っていた。其日も食堂内は夕食をとる学生達でごった返していた。
店奥の調理場に居たスミレが出前用の木箱を下げて「行ってきまーす」と元気よく店を出て行くと、店内の奥に座っていた会社員風の三十代の男が慌てて席を立ち支払いを済ませて店を出て行った。一心はその男の顔を見て郷田の肩を叩いた。「スミレが危ない・・出るぞ」と店の奥に後で払うと声を掛けて店を出た。
郷田が一心の言葉に従ったのは日頃から一心の人の心を読む力を信じていたからに他ならない。ー今店を出て行った男がスミレさんを襲うー一心の発する言葉は疑いようがなかった。暗い道を男が歩いて行く。二人は気付かれない様に男の後をつけた。男はしばらく歩くと自動販売機のある店の軒下に姿を隠した。それを見た一心達も近くの家の軒下に姿を隠した。会社の寮から出前の木箱を下げたスミレが出て来て歩いてくる。「スミレが襲われる前に男を止めてくれ」小声で郷田に指示を出しスミレが近ずくのを待った。自動販売機のある軒下から男がスミレの前に立ちふさがる様に出て来た。「止めてくれ・・」そう呟いて一心は男に向かって走った。郷田が先を行き後ろから男の肩を押さえた。「おい兄さん。俺の妹に何をする気だ。変な気を起こすとただではすまさないぞ」一心が日頃聞いた事の無いドスの聞いた声で男に言った。
「あっ・・」と驚いた声を出した男は二人の若者を見た。背の高いざんばら髪の若者とがっしりとした体格の良い若者が睨んでいた。「悪い事は言わない。これに懲りて変な了見は止める事だ。今日の事は見逃す。行けよ・・」一心に告げられ男は逃げる様に小走りで消えて行った。立ち止まって様子を見ていたスミレが側にやってきた。
「ありがとう。私助かった見たい・・一心さん妹を助けてくれて・・それに郷田さんもありがとう」踵を返し店に帰る一心達の後をスミレが着いて来た。店に帰ると食べかけの夕食はすでにかたずけられていた。椅子に腰を下ろし、再度夕食を注文しようかと考えていると、店の奥から大皿に盛ったカレーを二皿両手に持ってスミレが出て来た。スミレは二人の前にそのカレーを置いた。「お父さんからお二人さんにお礼だって・・ありがとう。一心兄さん・・」
嬉し気なスミレの笑い声が店の奥から聞こえて来た。其日から一心はスミレの兄になった。
月日は流れ妹スミレの成長と共に、スミレの一心を見つめる目の色が深い緑色に変わって来た。それはスミレが大人になった証だった。一心はスミレと目が合うとその目に吸い込まれそうになり、ドギマギと慌ててその目をそらした。最近ではスミレの目に春の日差しの様な温盛が見て取れる。それがスミレの愛を告げる眼差しだとは経験のない朴念仁一心には理解し難い事だった。
日曜日の午後。一心がコンビニに買い出しに出かけ帰って来ると、同じ学生アパートの住人海野智樹が部屋で待っていた。海野は私大の文学部の二回生で二十歳の裕福な学生だった。親は地方で会社を経営しており時折、季節の果物等が送られて来た。そのたび事に一心の部屋に持って来た。海野は小柄でひ弱な印象を受ける男で度の強い眼鏡を掛けている。
「やあ海野。また親から何か送って来たのか・・」
一心は海野と一緒にソファーに腰かけている若い女を無視して海野にだけ声を掛けた。
「あっ・・いや。今日は開心堂のお客を連れて来た。僕と同郷の同級生なんだ。彼女は・・」
一心は皆迄言わせず手で制して言った。
「もういい・・話さなくても分かっている。その相談は受ける訳にはいかない。彼女を連れて帰ってくれ・・」
「えっ・・まだ本題の相談事は・・」「帰ってくれと言ったんだよ。海野君・・」
そう言い放った一心には若い女の相談事が見えていた。
「何故話も聞かずに帰そうとするのですか・・噂とは随分違う応対ですね。私の相談事を解決する自信がないのでしょう・・」
冷めたい剣のある目で若い女が一心に顔を向けた。一心は顔をそらせ海野に目をやった。
「俺は善人の相談は受けるが、人を妬み嫉妬し復讐心まで持つ相談者からの相談は受けない。
そう言う訳だよ海野君。だが一つだけ彼女にアドバイスをしておこう。胸に秘めた暗い過去は身から出た錆と言うものだ。早く忘れることだ。人に愛されたいと思うなら人に愛される自分に変える努力をするべきだ。顔を飾る化粧より明るい笑顔の方が他人には魅力的に見えるものだ。・・さあ彼女を連れて・・」
一心は部屋のドアを大きく開いた。若い女の目が自分を恥じたのか、憎しみの目が心なしか潤んで見えた。。
海野が女の腕を掴み部屋を出て行った。一心はーやれやれ・・ーとコンビニのレジ袋を床に置いてソファーに腰を落とした。
海野が連れて来た若い女の姿が白い顔が目に浮かんだ。ストレートロングの茶髪で黒いミニのワンピースを着ていた。細い三白眼の目が彼女の陰湿な性格と自己顕示力の強さを表していた。それにも増して妖気と嫉妬心が半端ではなかった。そんな女の自己中で解決不可能な相談
事を一瞬でまだ見通した一心だった。暫くして海野が帰って来た。
部屋に入って来た海野は頭を掻きながら一心に謝った。
「一心さん。悪い悪い・・僕も無理な相談事だと分かっていたよ。でも同郷の同級生の頼みを無下に断れ切れなかった・・でも流石に一心さん。一目で彼女の性格や相談事を見抜いて断るなんて僕も驚いてしまったよ。僕の内心を覗かないで下さいよ。頼みます・・」
海野が手を合わして一心を拝んだ。
「海野君・・。お前のそのドギツイ眼鏡が邪魔をしてお前の顏から内心を覗く事は出来ないよ・・」
一心は笑って続けた。
「相談を断った事は間違いではなかったと思うが・・果たして彼女の相談内容はどんなものだったのか・・まだ女の名前も相談内容を聞いてなかったが・・」今度は一心がボサボサの頭を掻いて海野に尋ねた。
「彼女が僕に言ったのは、好きな男がいるがその男には彼女がいる。何とかその女を男から遠ざけたい。その男を自分の者にするにはどうすれば良いかと言う相談だったはずです。そんな相談事を一心さんが受けるはずが無いと、僕は初めから断られると分かっていましたよ・・でも開心堂に少しでも金が入るならと連れて来てしまった。僕の誤りです・・」
「そうだ。全て海野が悪い。連れて来られた女の子もいい迷惑だっただろう。何も言わない内に追い返されたんだからな。お前を恨んだかも知れない。ところであの女だがまだ名前も聞いていなかった。何処の大学生で何と言う女だ。それにお前の知る高校生時代どんな性格の女だった・・」海野はちょっと考えてから答えた。
「お嬢様女子大の二回生で小島田礼華二十歳。かなり裕福な家庭の子だと聞いているが親がどんな仕事をしているのか知らない。学校でイジメ事件があった時イジメ側の一番に名前が挙がっていたのは彼女だった。陰険で何食わぬ澄まし顔で人を落としめる。そんなイメージだった」
「そうだな。それは顔の相に現れている。男女関係はどうだった彼女は・・まさか海野お前が彼女と付き合っていたのではないだろうな・・」
「とんでもない・・あんな怖い女に近ずく様な男は居なかったよ。男の子と付き合っている女の子はイジメの対象だった。女の子も彼女を避けていた見たいだった。要は皆の嫌われ者だった」
「やはり邪心は顔に出る。しかし人に愛されない寂しさも陰湿さの中に現れていた。俺の見た手に狂いはなかったな。でも今度からは異性問題だけは勘弁してくれ。経験の無い俺の最も苦手とする相談だからな。謝る必要はないよ。今度は開心堂に利益をもたらす相談事を頼むよ海野君・・小遣い銭が乏しいのでよろしく頼む」
一心はコンビニのレジ袋から買って来た缶コーヒーを取り出し一本を海野に与えた。
部屋のドアがノックされ返答を待たずにドアが開き、レジ袋を下げたスミレが明るい笑顔で入って来た。
「愛される人の笑顔は魅力的だ・・」海野がスミレに声を掛けた。「えっ・・」と笑顔のままで小首を傾けたスミレが「海野先輩それは私に対する告白なの・・」と缶コーヒーを片手に眩し気にスミレを見る海野に聞いた。海野は慌てた。
「あっいや・・それはさっき一心さんが言った言葉の受け売りで・・でも事実ですよ。スミレさん・・」慌てて弁解したがスミレは意に介さず「私も缶コーヒーを買って来たのに・・」と
自分の持って来たレジ袋から缶コーヒーを一本取り出し、袋の中の三本を小さな冷蔵庫に仕舞いこみ一本の栓を開け口に運んだ。
「さっきの受け売りの話だけど、どんな話だったのよ海野先輩・・」
「ああそれは・・」スミレに尋ねられ海野は一心の顔を見た。一心何食わぬ顔で缶コーヒーを飲んでいる。
海野はスミレが入学した私大の文学部の一学年先輩だった。
「その話は又の機会に・・」海野は話せなかった。話せば自分の落ち度を話さなければならない。悪い内容の言葉ではないしスミレを傷つける言葉ではなかったはずだ。
「愛される人ではなく愛する人に変えるべきよ海野先輩。女の子を口説く時はね・・」
スミレが真顔で言った。「ありがとう。でも僕にはそんな勇気はないよ・・一生言えないだろう」海野は度の強い眼鏡の奥から狭い部屋の壁を見て言った。スミレが部屋のかたずけを始めた。一心はスミレが部屋を訪れてから一言も発してなかった。ポーカーフェイスでスミレの行動を見つめている。一心のスミレに対する応対は一貫している。絶えず上から目線で口を聞いた。それは年下の妹に対する言動だった。そんな一心に何の不満も見せず明るく笑顔で接するスミレを周りの者は奇異な目で見つめていた。どんな態度で接しられようと、スミレは一心の側に居られることを楽しんでいる様だった。
一心は他人と対話する時相手の表情から心情を読み取り言葉を選んだ。だが海野に対する態度は何処か違っていた。気安く接している様で何かを隠している様だった。
時折子供の頃の思い出が一心の脳裏に浚いする。中学生の頃、遠足先での出来事だった。
野外で昼食の弁当をひろげた時、隣に座っていた同級生の五色の色鮮やか弁当に一心は驚きの声を上げた。「美味しそうな弁当だ。お前のお母さんは料理が上手だな。優しいお母さんだ・・」
羨ましさで発した言葉だったが、何を思ったのかその同級生は弁当を仕舞い一心の側を離れて行った。見ているとその同級生は木の下で一人、弁当替わりの菓子パンをかじっている同級生の側に歩み寄りこう言った。「そのパンと僕の弁当を交換してくれないか」と。パンをかじっていた同級生は恵まれた家庭の子供ではなかった。二人が弁当とパンを交換したのを見ていると1人の同級生がこんな事を言った。「あいつの母親は死んで居ないんだ。あの弁当は父親の後妻が作ってくれた弁当だろう。あいつはまだ後妻を母親とは認められずにいるのさ」
ー何も知らなかった・・ゴメン・・ー同級生の表情に浮かんだ、寂しさや苦悩を読み取る事が出来なかった。この時幼い頃母親に叱責され六感を忘れさせられていた一心が、人の心を読む大切さを実感した時だった。
一心が恋と言う言葉を実感したのは高校生の秋から年明けまでの一時だった。
その始まりは校内マラソンだった。学校近くの山野の道を駆ける学年別のタイムレースだった。コース中程の山道に差し掛かった時、最後尾付近をマイペースで走っていた一心の前を同じクラスの女の子が息を切らしてヨタヨタと走っていた。今にも走る事を止めそうな走りだった。「頑張れ・・頑張れ・・マイペース・・マイペース・・」一心は同じクラスと言う気安さからの励ましだった。色黒小太りの同級生は無事にコースを走り終えた。
其日以来、一心は時折見つめられる視線を感じる様になった。ある日視線を感じ振り返ると校内マラソンで声を掛けた宮橋千草の笑顔があった。一心はその笑顔が自分に向けられたものだとは思わず顔を戻した。後ろには誰もいなかった。小首をかしげて教室を出た。何か納得し難い思いが全身を駆け巡った。ーなんだ。この思い・・この感覚はー結論は出せなかった。
冬休み。年を越し正月になった。一心の家にも多量の年賀状が届いた。母親の美智江が送り人を確認していた。一心は母親の側で母親の手元を見るとはなしに見ていた。一枚の年賀状を手に取ると母の手が賀状の両面を二度反して見た。母の目が笑っている。暫く賀状を眺めた後その賀状を一心の前に差し出した。「今年は大雪が降りそうな予感ね・・」今度は声を出して母は笑った。一心は慌ててその賀状を手に取り見た。新年の挨拶の賀状の下部一面に赤い小さな花が散りばめ描かれていた。「誰から・・」表に返し送り主を見た。校内マラソンの女性同級生宮橋千草からだった。「何故俺に年賀状なんて送って来たんだ・・」一人呟くと笑いながら母が言った。
「一心も年頃になったと言うことか。お母さんは安心したわよ。女の子から年賀状のラブレターなんかを貰うんだから・・」「年賀状のラブレター・・何処にもそんな事は書かれてないじゃないか・・」「馬鹿だね。そこに絵がかれている花はベコニアの花よ。花言葉は愛の告白、片想いよ。その子は一心が好きだと言って来たのよ。どんな女の子かなお母さんは見て見たいわ」
「止めてくれよ。クラス写真を見せるから・・俺に取ってはいい迷惑だよ・・」
一心は賀状を母の手に戻し自分の部屋からクラス写真を持ってきて母親に見せた。一心が指で示した写真を見た母は「この子は男にも友達にも恵まれない子だね。可哀そう・・」とクラス写真を裏返した。母親も父親同様に霊感が働く。神道宗教の先生なのだ。
校内マラソンの話を聞いた母は言った「。優しさが招いた勘違いの恋って事ね。貴方は迷惑でも、その子に取っては余程嬉しかったのよ。邪険にしないでお友達でいなさいよ」と。
母親の言葉はあれど一心は卒業まで彼女と言葉を交わす事はなかった。彼女にとって恋とは儚いものだったに違いない。一心に取っては苦い経験だった。
一心は二階のアパートの窓からアパートの敷地に植えられた白い花ミズキの花を見ていた。
空は鈍よりと曇り、遠くでゴロゴロと天空の雷が喉を鳴らす声が聞こえている。やがて雷はピカリと光る怒声を張り上げた。ドドーン光の帯が遠くの空で光った。パラパラと大粒の雨が落ちて来た。「降り出したのね・・」スミレも窓の外を眺めて呟いた。「あの子は無事に帰ったかな・・」海野も窓の外を見て呟いた。一心は他の事を考えていた。
ーあの女子大生・・何もやらかさなければよいが・・俺の杞憂であれば・・ー
海野が連れて来た小島田礼華の全身から発せられた暗い妖気が犯罪発生を予見された。
一心の部屋のドアが開き、タオルを頭に乗せた郷田が部屋に入って来た。
「まさかこんなに早く雨が降るなんて・・今日の講義は全く理解できなかったよ・・」
雨とは関係ない話をしながら郷田は、一心の小型冷蔵庫を開け遠慮もなく缶コーヒーを取り出して飲んだ。ソファーに一心と一緒に座っているスミレに向かって「ゴチになります。スミレさん・・」と手に持った缶コーヒーを捧げて言った。冷蔵庫に缶コーヒーが入っていれば、それは一心と郷田の為にスミレが買い置きしてくれた物と招致していた。もう二年スミレからの差し入れは続いている。スミレを襲おうとした男から助けたお礼が続いているのだ。
四人が入れば部屋は一杯になった。「僕は部屋に帰って来る・・」と海野は部屋を出て行った。
三カ月が過ぎ夏盛りになっていた。部屋の中まで蝉の声が聞こえて来る。
一心はクーラーのきいた部屋でスミレが届けてくれた一日遅れの新聞を読んでいた。新聞の市民欄に目を落とすと変わった記事が目に入った。
「市民公園内に複数の猫の死骸、公園近くにカラスの死骸が」との見出しが付いている。
これらの死骸を調査した結果,殺鼠剤の成分であるワルファリン等が検出された。殺鼠剤を食べて死んだ鼠を野良猫が食べ毒にあたって死んだ。その毒により死んだ猫をカラスが食べ食物連鎖により死んだと推測されたが、野鼠に殺鼠剤を与えたとは考えられず誰かが故意に殺鼠剤を与えたのではないかと公園を管理する市は警察に届け出た。警察では動物虐待の罪で捜査を始めた。と記事は伝えていた。
市民公園近くには私立の女子大などがあり、また市民の利用者も多い事から犯人捜しは難航が予想された。
警察は公園近くに設置されている防犯ビデオの確認を急いだが不審者に繋がる情報は得られず、付近の聞き込みにおいても公園内で野良猫に餌をやる人は数え切れず犯人に繋がる人物は特定されなかった。
その記事が新聞に掲載されて十日が過ぎた朝方、公園内の木陰のベンチで横たわる若い男性の死体が発見された。死因はヒ素による中毒死だった。ベンチの横には飲みかけのスポーツドリンクが落ちており、そのドリンクからヒ素が検出されたため自殺他殺両面での捜査になった。
死んで居た男のベンチの頭の下にあった手提げバックの中から財布と名刺入れが発見され男の身元が判明した。男は商社に勤める小森雄太で会社に問い合わせた処、年齢は二十三歳。合わせて住所も判明した。会社での勤務状況は良好で自殺に繋がる様な態度は見受けられていない。
遺書も発見されていない事から、何者かに貰ったヒ素入りスポーツドリンクを飲んで死亡したと推測された。
瀬島部長刑事は後輩刑事を連れて市民公園の見回りと聞き込みを続けていた。市民公園には南側の正門と北側の裏入口があり周囲は生垣と金網フェンスで囲われている。刑事二人はその北側入口付近を見回っていた。「ミイちゃん・・タマチャン・・」猫を呼ぶ様な女の声が聞こえた。声の元を追って行くと高齢の女がレジ袋を提げて植え込みの下を覗き込んでいた。
「小母さん・・猫を探しているのですか・・最近公園の猫が数匹死んで居た事を知らないのですか・・」顔を上げた高齢の女が訝るように刑事の顏を見上げた。「死んだって何時の事よ・・
そんな話は聞いた事がないよ・・嘘は言わないで・・」高齢の女は怒っていた。
「小母さん・・死んだ猫が発見されたのは十二日前だよ。新聞にも載っていただろう。知らないのか・・」「十二日前・・私が体調を崩して入院したのが二週間前だった、その日の朝には猫に餌をやったんだよ。此の場所で・・呼ぶと必ずやって来たのに・・」高齢の女が涙ぐんだ。
「ここで猫に餌をやっていたのは小母さんだけかい。他にも公園の猫に餌をやっていた人を知って居ますか・・」瀬島刑事が尋ねた。「貴方達妙な事を聞くんだね。公園に来る者は誰彼無しに猫に餌をやっているよ。貴方達何者だよ・・」胡散臭そうに高齢の女が瀬島を睨んだ。
「あっこれは失礼・・俺達はこう言う者だよ・・」瀬島が手帳を見せた。まじまじと瀬島の顔を見た高齢女性は「何だ刑事さんか・・何を調べているんだい・・」と尋ねて来た。
「小母さんの猫を殺した犯人を捜しているんだよ。何か知らないかい。不審な者を見なかったかな。猫に餌をやる・・」「刑事さんまさか私を疑っているのでは・・とんだお門違いだよ。
私は独居老人だけれど同じ境遇の捨て猫を殺める事など出来ようはずがないだろう」
「俺達は小母さんをこれっぽっちも疑ったりしていないよ。動物を虐待する犯人を捕まえたいだけだよ」「そうかい・・そう言われれば思い出した事がある。私が入院する前の事だけれど若い女がこの場所で猫に餌をやっていたよ・私が来ると慌てた様に去って行ったよ」
「その若い女はどんな女だった・・小学生中学生それとも大学生オーエル風・・」
「そうだね・・どちらかと言うと女子大生風はな・・私が来ると直ぐに居なくなったので良く見ていなかった・・参考にならないか・・」
「いや・・大変参考になったよ・・死んだ猫の冥福を祈ってくれ・・」
瀬島部長刑事は後輩刑事を連れてその場を立ち去った。
小森雄太が死体になって発見された翌日、警察署を訪れた父母と雄太の恋人だと言う伊澤瑠美と共に熊倉警部は捜査員を連れて小森雄太の住んでいたアパートに向かった。
伊澤瑠美は小森雄太が今年卒業した国立大学の後輩であり、教育学部の二回生でスラリとした誰でも好きになるタイプの美人だった。
キッチン、トイレ、シャワー室付二間の部屋は綺麗にかたずいており本人の几帳面さが見て取れた。白い小さな整理ダンスの上に伊澤瑠美と並んで撮った写真が飾られていた。
部屋に入ると伊澤瑠美は泣き崩れた。二人は結婚を約束した仲だった。部屋の中にも遺書と思われる物はなかった。「彼は自殺なんかではありません。前日にも会って話しました」
泣きながら話す伊澤瑠美に警部が尋ねた。「彼との交際は永いのですか。何か悩んでいたことは・・」と。すると伊澤瑠美は興味を引く発言をした。
「彼との交際は高校時代からでご両親からも認められた仲でもう五年目になります。私達は地方の同郷の出身なのです。少し気になる事が・・一月ほど前、彼から見知らぬ女に後をつけられていると聞いた事があります。彼が異性に好かれるタイプだと思っていたので、その時もさほど気に掛けませんでした。もしかしたら、その女と何か関係が・・」
「その女の年齢や容姿を聞いていませんか・・」「はい・・ただ若い女とだけ・・」
「分かりました。お辛いでしょうが元気を出してください。我々も原因究明に全力を傾けます」
警部は捜査員を連れて部屋を出た。すすり泣く母親の声が聞こえた。
其日から捜査は続けられているが進展はなかった。
市民公園での男性変死事件から二週間が過ぎている。ヒ素に関する捜査は続けられていた。
ヒ素取扱いの業者等を調べていた捜査員が一つの事実を熊倉警部に報告していた。
死亡した男性が勤めていた会社は健康食品医薬品等を輸入する会社で、その輸入品を専門に検査する会社に出入りしていた事が判明。その会社はヒ素も取り扱っている事から問い合わせた結果、国家資格を持つ毒物劇物取扱い責任者が僅か一グラムの薬品の出し入れも厳重にチエックしており鍵のかかるロッカーに保管しているため無断で取り出す事は不可能との回答だったと報告した。
「会社などでは一つの間違いが信用取引に大きくかかわる事から危険な薬品を厳重に管理しているだろう。他にもヒ素を取り扱う会社や工場もある筈だ。引き続き調べてくれ」
警部は捜査員に引き続きの捜査を指示した。其日新たな事実が届けられた。それは県警察本部の科捜研からもたらされた。市民公園で死んで居た猫から保健所が採取していた血液を科捜研で再度調べ直したところ殺鼠剤の他僅かにヒ素が発見されたと言うものだった。これで死んだ動物と変死体の男性との関係が疑われてきた。
未だ犯人に結び付く様な情報は何一つ得られてなかった。有るとすれば瀬島部長刑事が聞き込んできた、公園で老女が見たと言う若い女位のものだった。
数日後、死んだ小森雄太に関係する新たな情報が女性刑事桜田玲子によってもたらされた。
桜田刑事は死んだ小森雄太の勤め先を中心に聞き込みを行っていた。それは小森雄太と直属の上司である泉川早奈との関係だった。泉川早奈は独身だった。
聞き込みによると泉川は営業に出向く際は必ず小森雄太を同伴させ、夜の飲食にも同伴させていた。深夜まで飲み歩く姿も目撃されていた。社内で小森雄太は泉川の男と噂されていた。
泉川早奈について調べたところ地方の某大学の薬学部を卒業し薬剤師免許を所得している事が判明し、当然ヒ素の知識があるものと認められた。
暦の上では早秋になったが外は真夏並みの陽が照り付け夏を惜しむ様に蝉の声が姦しい。
一心はソファーベッドに横たわり海野が持って来た探偵小説を読んでいた。海野は探偵オタクだった。自分が読み終えた小説は全て一心の部屋に持ち込んだ。狭い自分の部屋では邪魔だったに違いない。
ノックも無に部屋のドアが開きスミレが顔を覗かせ、一心の他に誰も居ない事を確かめ部屋に入って来た。黒いタンクトップと白いホットパンツを履いていた。一心は小説を手にスミレを見て再び小説に目を向けた。スミレの白く長い足がソファーの横に立ち、小説が奪われた。
「私が来た時くらい本を読むのは止めてよ・・」スミレは山と積まれた雑誌の上に小説を置いて手に持っていたレジ袋を一心の顔の上に置いた。「冷・・たい・・」一心の顔の上からレジ袋を除け「コンビニでアイスを買ってきたわ。食べようよ」とスミレは袋の中からアイスクリームを取り出した。「お母さんが一心さんに何か話があるみたいよ。昼食に来てと言ってた・・」
プラスチックのスプーンでアイスを食べながらスミレは言った。
「お母さんが俺に話・・何の話か知って居るか」この時ばかりはスミレの母親の意図が判らなかった。「私にわかる訳がないわ。でも悪い話ではないはずよ。昼食は焼きそばにしようか、冷たい冷麺にしようかって言ってたから」「そうか・・それなら焼きそばがいい・・」
一心もアイスを食べながら言った。
アイスを食べ終えるとスミレは学校に行き、一心は斬バラ髪を後ろで束ねゴム輪で止めた。
汗臭いランニングシャツを脱ぎ捨て、灰色のテーシャツと灰色の毛脛が見える七部のズボンを履き古いビーチサンダルをひっかけて一心は学生アパートを出た。
「こんにちは・・ご無沙汰・・」菊屋の軒先の暖簾をくぐり表戸を開けた。
「本当にご無沙汰もいいところね・・スミレが伝えたのね。何が食べたいの・・」
奥の調理場から笑顔の母親が出て来た。
「それではお言葉に甘えて・・焼きそばを・・」「ハイハイ焼きそばね。座って待っていて」
そう告げるとスミレの母伸江は調理場に消えた。昼には時間があり客は居なかった。
暫く待つと大盛の焼きそばの皿を持って伸江が出て来た。一心の前に皿とコップに水を入れて置いた。
「さあ食べて・・」一心が割り箸を割って食べ始めるのを見て伸江が話始めた。
「最近、学生アパートの誰かが女の子を連れて行ったでしょう。開心堂とやらへ」一心は箸を止めた。
「小母さん何故そんなことを・・」「そんな事を知って居るのかと言いたいのでしょう。教えてあげるから早く食べなさいよ・・」
ー小母さんの話とはその事か‥ー一心はには少し話の内容が見えて来た。
「そう昔の話ではないのよ。ちょっと前の話だけど店に来た二人ずれの若い女性が気になる話をしていたの。開心堂と一心さんの話よ。女性の一人は少し年上の女性で美人と言うか若いのに化粧の濃い女で整形でもした様な感じがしたわ。もう一人は色の白い何と言うか・・」「白狐を連想させる女でしょう・・」
「そうそう・・その女が一心さんのところへ来た・・」
「はい。来たことは来たけれど追い返しました。何か遺恨がありそうな気がしたのでね」
「それは良かった。実はね。その女と一緒にいた年上の女が貴方の事を知って居る素振りで話しているのを聞いたの。貴方が昔から恋愛も出来ない唐変木で何でも相談とか言う触れ込みで学生を集めているとか。他には詐欺まがいのアドバイスをして金を巻き上げているとか。学生アパートの住人が連れて来る人間以外は相談に乗らないとか言っていたわ。まさかそんな悪どい事はやってないわよね。信じているけどね」
「成程・・言い得手妙なり・・当たらずも遠からじって事かな・・でもその年上の女って言うのが気にかかる・・何処の誰だろう・・あっ小母さん俺はそんな悪い事はできないよ。仮にも我が家は神道の家ですから、そんな事をすれば罰があたりますよ」
一心が最後のそばの一本をすすり込み口に入れた。
「一心さんがそんな悪どい商売をしていると思わないけど気になってスミレには内緒にしていたの・・やっぱり言わない方が良かったわね」
「そうですね・・でも本人は学生アパートの海野がその女を連れて来た事をもう知って居ると思います。海野はスミレさんの一学年先輩で交友関係があるので話していると思いますよ」
「そうなの・・海野君があの女を連れて来たの・・知らなかったわ。海野君はあの女とどう言う関係だったの・・」「何でも高校の同級生だとか話していましたけどね。仲の良い友達ではなかったようです」「そうよね・・何か冷たい感じの若い女性だったから・・友達も少なかったでしょうね」「その通りです。何でも思い通りになると考えている様な女性ですからね。ですから何も話さず帰ってもらいました」
昼食目当ての客が店に入って来た。「いらっしゃい・・」伸江が笑顔で迎えた。
「御馳走様・・」一心は店を出た。
熊倉警部の席に瀬島部長刑事がやってきた。
「小森雄太の彼女だった伊澤瑠美から再度聴取したところ小森の勤め先の女上司泉川玲子の他に小森に言い寄った女が居た様です。まだはっきりとはしませんが女子大生の様です。他には小森の上司泉川の事で伊澤瑠美と小森の間に隙間風が吹いていた様です。小森と言う男は女運がいいのか悪いのか・・いい男に生まれても殺されてはね・・」
「瀬島君その小森に言い寄ったと言う女も洗い出してくれ。事件に関係ないとは言い切れないのでな」「分かりました。小森の周囲をもう一度洗って見ます」
瀬島部長刑事は熊倉警部の前を辞した。
一心の部屋に郷田雄介がやってきた。太い首にスポーツタオルをかけ分厚い胸に汗で濡れたランニングシャツが張り付いている。履いていたのは、はち切れそうな太モモが覗いている半パンツだった。手には飲みかけのスポーツドリンクを握っていた。
「やっぱりこの部屋は涼しいや。熱い俺の部屋に帰るよりこの部屋の方が快適だと思ってきてしまった」郷田は床に大の字になって寝ころんだ。
「なんだ・・この暑いのに柔道ではなく外で運動でもしてきたのか」
「ああ久し振りに青い芝生の上で身体をほぐそうと市民公園に行ったんだ。ところが人が余り居ないんだ。良く考えたらあの事件のせいだと分かったよ。まだ解決していない様だしな」
「あの事件か・・猫が死んで居たという・・」
「そうじゃなくってベンチで男が死んでいた事件だよ。毒殺されていたと言う」
「ああそうか・・まだ解決されていなかったな・・まあ俺達には関係ない事件だからな」
「関係はないが同じ年頃の男が殺されたとなるといい気持ちにはなれないよ」
「でもそんな場所にお前は行ってきた。どれお前の相を見てやろう・・」
ソファーに横になっていた一心が起き上がった。
「止めてくれ・・縁起でもない見ないでくれ・・」郷田がタオルで顔を覆った。
「冗談だよ。お前は長生きの相だから殺されても死なないよ」
一心は笑って言った。脳裏に熊倉警部の顏が浮かんでいた。携帯電話の着信音が鳴っていた。
電話は母美知恵からだった。祖父母の法要に帰って来いとの連絡だった。
三日後、三年越しで一心は志川町の実家に帰って来た。この時ばかりは無精の一心も髪をすき白い綿カッターシャツ白ズボン姿だった。一心の側にスミレがいた。親戚もなく何処にも出かけた事がないスミレを誘い連れて来ていたのだ。
田舎町の町はずれ堀口と言う集落の中に一心の実家はあった。都会育ちのスミレに取って見る風景は新鮮で蝉の声さえ違って聞こえた。志川町の駅に降り一心の実家まで歩いて来た。
色ずきはじめた稲穂の海の向こうに山並みが続き、その山裾に堀口集落はあった。集落の家々が近くなる。スミレは少し緊張気味だ。知らない他人の家を訪問するのだ。
「見えるか・・あれが俺の家だ・・」一心が手で指示したのは集落の端にあるこんもりとした立ち木が茂る上に見える大屋根だった。「えっあの大きな屋根が実家なの・・」
「そうだよ・・古い屋根瓦だろう・・三代屋根葺き替えはやっていないからな・・」
「そんなに・・」「そうだ。まるでお化け屋敷だ驚くなよ・・」スミレの不安げな顔に一心は笑っている。
家に着いた。寺を想像させる大屋根の古い建物のすぐ横に白い一般的な住宅が建っていた。
一心は家には入らずスミレを古い大きな建物に誘った。石板敷きの広い入口を入ると一枚板の長い踏み台があり開け放たれた古いガラス障子が有った。靴を脱ぎ、踏み台から五十畳はあろうか思われる広間に上がった。正面にしめ縄飾りのある神棚があり、その脇に黒い座卓が置いてあった。一心はその神棚の前に正座し、スミレに側に座れと手招いた。スミレが側に座ると
「二礼四拍手一礼・・」と呟き二度大きく頭を下げた。スミレは一心を真似て頭を下げた。
「四拍手・・」一心が四度柏手を打った。一呼吸遅れてスミレは手を打った。「一礼・・」
一心が腰を曲げて頭を下げた。スミレが真似て終わると「やれ終わった・・」と他人事の様に言って立ち上がった。
「広いお座敷ね・・ここに信者さん達が集まるの・・」と改めて付近を見回し一心に尋ねた。
「そう言う事だな。この建物を教会所とよぶ。ここで親父が神道の説教を垂れる・・俺も子供の頃から聞かされて育った。さあその親父とお袋に会いに置こうか」
二人はその建物を出て隣の住宅の玄関を入った。「只今・・」一心が声を掛けると奥から母親の美知恵が顔をだし破顔した。
「お祈りの拍手が二人だったのでまさかと思っていたら、こんな綺麗な彼女を連れて帰ってくるなんて・・早く上がりなさい・・お父さんお父さん・・」と家の奥へと小走りで消えた。
一心がスミレを連れ洋間のソファーに腰を下ろすと、母の美知恵が冷たいウーロン茶を入れて持って来た。「遠くまで来てくれて・・暑かったでしょう・・」スミレの顔を改めて眺めて又破顔した。スミレは「一心さんのお言葉に甘えて着いて来てしまいました。菊池スミレです。どうぞよろしくお願いします」と頭を下げた。「帰ったか・・この出来損ないが・・」白髪交じりの頭髪にチョビ髭。大柄な初老の男が洋間に入って来て母親同様に破顔した。「菊池スミレです。お邪魔してます・・」と緊張した面持ちでスミレは頭を下げた。
「良く来てくれました。父親の開目宗次郎です。こちらが母親の美知恵です。よろしく・・」
父親の宗次郎がスミレの顔を凝視した。スミレは思わず俯いてしまった。
「親父そんなに見つめるなよ。恥ずかしがっているじゃないか。この人は俺が世話になっている菊屋と言う食堂の娘さんで私大の後輩だよ。都会の外をあまり知らないと言うのでこの田舎に連れて来た・・」「それはようこそ・・我が家には娘が居ないので歓迎するよ。スミレさんと言ったかな。ゆっくりしていって下さい」父親はそう言うと又破顔した。
挨拶が済むと父の宗次郎が一心を教会所の神棚の前に来るように告げた。
「あの娘の顏に受難の相が見て取れる。お前は気が付いていないのか・・」父親の宗次郎が眉を寄せて言った。「このところ、最近会うたびに俺の心に不吉な影がさす・・それが何か判らず連れて来た・・親父これにどう対処すればいい・・」
「先ずは神にお尋ねしてみよう・・」父宗次郎が神棚にぬかずき柏手を打ち床に両手をつき頭を垂れた。宗次郎は神道教祖を導いた神に問うていた。しばらくして宗次郎は頭を上げ柏手を打った。一心に向き直った父宗次郎は言った。
「どうやらスミレさんの受難の根源はお前にありそうだ。おまえの気魂の強さがお前に向けられた受難の根源をスミレさんに飛び火させてしまっている」
「親父それは・・それでは俺はスミレさんにどう向き合えば良い・・どうすればスミレさんを受難から救うことが出来る・・その方法はあるのか・・」
正座し膝に手を置いて一心の顔に焦点を当てていた父宗次郎は静かに言った。
「お前の深い情魂がスミレさんと相通じていれば胸騒ぎ、第六の直感が危機を知らせてくれるだろう。全てお前次第だ一心・・」
父宗次郎は静かに立ち上がり教場に一礼して母屋に帰って行った。
ーそうか根源は俺だったか・・俺にスミレを守れるかー 対策はないと一心には判っている。
神棚に向かい柏手を四度打ち一礼して教場広間を出た。
母屋の洋間からスミレと母美知恵の笑い声が聞こえている。一心も笑いの輪に加わろうと洋間に入った。途端に笑い声が途絶え、「くっくっくっ」と含み笑いが母とスミレの口から洩れた。
「おいスミレ俺の悪口を言っていただろう。後で仕置きをしてやるからな・・」
少し怒って見せた一心に「スミレさんにお前の日頃の生活を聞いていたのよ。何年経っても何も言ってこないお前が悪いのよ。今のままではスミレさんの方が先に大学を卒業してしまいそう・・その内スミレさんのご両親からも愛想をつかされてしまうわよ。今日こそはスミレさんより先に卒業すると約束してちょうだい」と反対に母親から反撃を食らってしまった一心だった。スミレが俯いて笑っていた。
二日後開目家では祖父母の法要が執り行われた。一心の兄光一も修行先の教祖神殿本部から帰郷してきていた。その兄光一が一心の脇腹を指で突いて言った。
「兄が恋愛も許されない修行の身と知っていながら恋人同伴とはどう言う了見だ。少しは兄の身にもなってみろ。それにしても可愛い子だな。羨ましい・・」
「兄貴。彼女とはまだそんな関係ではないよ。ちょっと親父に尋ねたい事があって連れて来た。今は話せないが彼女の身に何も起こらなければその時話すよ・・」
「何だ・・妙な話だな・・でも美人で可愛い子だ。離すんじゃないぞ・・」
兄の光一は納得せずともスミレが気にいった様だった。
開目家の親族、主だった信者等三十人程が集まり祖父母の法要は執り行われた。スミレは一心の母美知恵と信者の女子衆と共に参列者接待の裏方の仕事をしていた。法要の後スミレが一心が連れて来た婚約者との噂が信者に広まったのは言うまでもなかった。
三日目の夕方一心はスミレを連れ菊屋に送り届けると、その足で学生アパートに帰って来た。
危惧していたスミレの受難の日はまじかに迫っていた。
其日スミレは大学での講義を受けての帰りだった。大学構内を出て自宅近くにまで帰って来ると前から小走りで駆けて来た登山帽にサングラスマスク姿の小柄な男とすれ違った。季節は秋とは言えまだ日差しは強くマスク姿は異常だった。ー変な男ーと思いながらスミレはその男とすれ違った。右腕に痛みを感じ思わずバックを持つ左手で薄いカーディガンの右腕を押さえた。ぬるりとした感触が左手の手の平に伝わり腕を見た。指の間から血が涌出ていた。
ー切られたー咄嗟に男の後ろ姿を見た。すでに男は近くの路地に駆け込み姿は見えなかった。
スミレは切られた腕を押さえ懸命に走って菊屋の家に駆けこんだ。
其頃一心は強い胸騒ぎを覚えスミレの受難が迫っている事を感じ取っていた。急ぎ足で一心はスミレの家に向かっていた。途中リュックサックを肩に掛けた女とすれ違った。
一心とすれ違った際その女の顔に笑みが浮かんだ。一心はその女を振り返って見た。
ー何処かで見たような・・ーそんな感じがしたが心が急いて道を急いだ。
パトカーのサイレンの音と救急車のサイレンの音が自分の進む方向に聞こえた。一心は駆けだした。一心が菊屋の店先に辿り着くと同時にパトカーと救急車が菊屋の前に到着した。
ースミレー一心は心の中で叫んで店の中に飛び込んだ。救急隊員が手早く傷の部位を確かめ応急処置を施し、駆け付けた警察官が襲われた時の状況を聴取し無線で手配している。
スミレはタンカー無で救急車に乗った。母の伸江がエプロンを外しハンドバックを手に救急車に乗った。救急車はサイレンを鳴らし病院へと発進していった。
見送る一心の前にダークグレーの捜査用車両が停車し熊倉警部が降りて来た。
「被害者はあの子なのか・・」一心が頷くと「病院に行くのだろう。乗れよ」と車に誘ってくれた。一心を乗せた捜査用車両は病院に向かった。
「一心君あんたがこの事件を予想しなかったとはな・・」少し皮肉めいた警部の言葉に言い返す言葉はなかった。受難の予測はしてスミレに思念を送り続けてはいた。しかし一足遅かった。
一心は修行の必要を感じていた。
病院に着くと警部はスミレから再度聴取を始めた。
「会うのは二度目だなスミレちゃん。ひどい目にあったな。大怪我でなくてよかった。ところで犯人の男に全く覚えはないのかい。何でもいいから思い出して見てくれ」
腕の治療を終え待合室の椅子に座って聴取を受けるスミレの横に、寄り添う様に一心が居た。俯いて考えていたスミレが顔を上げた。
「私勘違いをしていたのかも知れない・・あれは男ではなく女だった。すれ違った時化粧の匂いがした。腕の痛みに気を取られ忘れていたの・・でのあの女手に凶器見たいな物はもっていなかった・・」
「化粧の匂いか・・しかしそれだけで女と断定はできないが・・」
「私より身長が低い男は少ないわ。それに登山帽にサングラス、おまけにマスク姿だなんて不自然よ。あの女は私を狙って切りつけた・・私に何の恨みが・・私、人に恨みを買う様な覚えはないわ。・・でも凶器は・・」
「ああ凶器は剃刀だよ。手の平に隠せる鋭利な刃物だからな。医師も切り口から剃刀に間違いないと言っている。そうかスミレちゃんは犯人は女だと思うんだな・・」
「思い出した。赤いスニーカーよ。履いていたのは・・女物のスニーカーよ。間違いないわ」
スミレが警部ではなく一心に顔を向けて訴えた。
一心は思い出した。胸騒ぎで菊屋に向かう途中で出会った女は赤いスニーカーを履いていた事を。「警部。赤いスニーカーの女と菊屋に向かう途中に出会いましたよ。黒いナップザックを肩に掛けた茶髪の二十歳過ぎの女に・・」
「それだ・・直ぐに手配を・・」警部は側に居る二人の刑事に手配を命じた。
警察では連続切りつけ事件を警戒し非常警戒に入り市民に注意を呼び掛けた。しかし事件はスミレの一件だけで一週間が過ぎても発生はなかった。だがそれよりも重大な事件が他県で発生していた。管内居住の女子大生の死体が港の岸壁で発見されたのだ。
当初自殺と思われていた女子大生の右手首の切り傷が自傷ではなく他人によるものと断定され殺人事件に発展した。此の事により他県との合同捜査本部が熊倉警部率いる警察署に設置された。
殺された女子大生は宿泊していたホテルに残された所持品から小島田礼華二十歳管内女子大の二回生と判明していた。この事件は全国紙で報道され管内住人の関心を集めた。
一心の部屋に海野が飛び込んで来た。手には新聞を握っていた。
「一心さん大変だ。僕が連れて来た小島田礼華が殺された・・どうしよう僕は疑われないよな」
震える声で海野は訴えた。
「なぜお前が疑われなくてはならないんだ・・お前と女はそんな関係だったのか」一心は笑った。海野は大仰に首を横に振り否定した。「なら心配することは無い。万が一疑われたなら俺が口を聞いてやるよ。海野は関係ないとな」
一心は海野が持つ新聞を手に取り記事を見た。新聞は三日前のものだった。
見出しに「漁港岸壁に女性の変死体・殺人か」と太文字で記載されていた。
女子大生は十日前、一人で海辺のホテルに二泊三日の予約で滞在していたが三日目の朝部屋から姿を消しホテルの従業員が探していた所。近くの漁港の岸壁に浮いている所を発見したと記事には書かれていた。
ー小島田礼華が何故県外で殺されたのかー三白眼の白い顔が目に浮かんだ。
ーあの時死相は見えなかったー続けて記事を読んだ。
被害女性は多量の睡眠薬を飲んでいたが手首の傷は深く、利き腕ではない左手では無しえない傷で又ためらい傷もない事から、睡眠薬でもうろうとしている女性を何者かが海岸に誘い出し手首を切って海に落としたものと推測される。と捜査関係者からの声を伝えていた。
新聞から目を離した一心の脳裏に、何故か道ですれ違った見知らぬ女の笑みが蘇り消えた。
熊倉警部は他県の事件発生警察署の捜査本部員と電話で会話していた。
「そうですか・・携帯電話は見つかりませんか・・犯人の持ち去り・・ですね。宿泊ホテルの部屋からは何も出ませんでしたか・・例えばメモとか・・そうですか。事件当日の宿泊人名簿をファックスで送ってもらえますか・・それから他の宿泊施設に一人宿泊した者がいればお知らせください・・はいお願いします・・」警部が受話器を置いた。
部屋の片隅で新聞の束に目を通していた桜田女刑事が紙面に拡大鏡を当てた。
全国版の記事に管内発生の切りつけ事件に関連した事件はないかと探していたのだ。でもたまたま開いた紙面に気になる物を見つけたのだ。今桜田女刑事が拡大鏡を当てて見ているのは県内地方版に乗せられていた読者の写したフォトグラフィーの品評会の写真だった。佳作に評価された「お昼寝タイム」と題された写真に拡大鏡を当てて見ているのだ。
そこには新聞を顔に乗せ木陰のベンチで横になり寝ている会社員風の男が映っていた。桜田女刑事が見ているのは寝ている男ではなかった。その男の後ろ、木陰の奥だった。折しも立ち木の間から姿を現した女とその後ろに男の暗い影が映っていたのだ。女刑事が顔を上げて警部を呼んだ。
「警部此方に来てこれを見てください。市民公園のベンチが写っています。事件当日の写真の様です。確かではありませんが・・」
熊倉警部が席を立ち桜田女刑事の席にやってきた。拡大鏡を手渡された警部が紙面の写真に拡大鏡を当てて見た。
「桜田君これは・・確かに小森が死んで居た市民公園のベンチに違いない・・この寝ている男は・・これは小森だ。死んで居た服装その物だ・・」
「警部その寝ている男ではなく、そのベンチの奥の木立の木陰ですよ。何か見えませんか・・」
熊倉警部は掛けていた眼鏡をはずし、拡大鏡を上下して目を細めた。
「見えた・・奥の木陰に女が・・その後ろに微かに男の影が・・これは貴重な証拠になるかもしれない。直ぐに新聞社に掛け合いこの写真の投稿者を当たってくれ」
「はい直ちに・・」高揚した面持ちで桜田女刑事は席を立った。
ー女の影に男有りかー事件の輪郭が見えない。警部は席に戻り腕を組んだ。
一心は悩んでいた。スミレの事ではない。他ならぬ友人と信じる海野智樹の事だった。半年ほど前から海野の相に女難の相が現れていた。だが一心にはそれを口に出せなかった。口に出せば女への執着から離れるとは限らない。かえって執着が深まり取り返しのつかない事態に及び兼ねないと感じたからだ。しかしその最悪の相が事件の載った新聞を持ってやって来た海野の顔に現れていたのだ。ー海野お前は何をやらかしたんだ。俺が疑われると言ったがそれが本心ではなかったのかー邪悪な強い誘惑に取り込まれたなら助けられないと一心は感じていた。
昨年の秋、海野は友人に誘われ女子大の文化祭を見に行った。その時同郷の同級生小島田礼華に出会った。小島田とは親しい間柄では無かったが同郷の同級生と言う事で親しみを感じて少しだけ話をした。その会場で会ってはならない人に会ってしまった。年上と思われる背の高いイケメン男性と腕を組み歩いているグラビアから抜け出てきた様な綺麗な女の子を目にしてしまったのだ。海野の一目ぼれだった。「いい男でしょう。国立大の四回生小森雄太よ。何でも芸能界から誘われた事があるそうよ。あの女は伊澤瑠美あの子も芸能界プロダクションから目をつけられている様だわ。あの二人見せつけるわね」小島田礼華が細い目で二人を見つめていた。
海野は其日以来伊澤瑠美の虜になってしまった。学校帰りの伊澤瑠美の後をつけストーカーになっていた。自分には縁のない相手と知りつつも何度も後をつけた。芸能界の女優に憧れる追っかけフアンの様な存在だと自分では思っていた。伊澤瑠美が小森雄太と待ち合わせ手を取り合って繁華街に消える時ーあの男さえ居なければーと殺意とは言えない小森雄太消滅を祈った。小心者の海野だった。そんな海野を取り込んだ女がいた。
ドアがノックされスミレの屈託のない笑顔が覗いた。
「やっぱり学校には行かなかったのね・・そんな気がして来てみたの・・開目のお母さんとの約束忘れないでね。私より早く卒業するって約束をね」
「ああ忘れてはいないよ。それより腕の状態はどうなんだ・・痛みはないのか・・」
一心はスミレの右腕に巻かれた包帯を見て言った。守ってやれなかったとの後悔がある。
「あはっ大丈夫よ。痛みなんてないよ。これ此の通り・・」スミレが腕を上げ下げして見せた。
スミレの左手には膨らんだレジ袋が下げられていた。一心の腹が鳴った。
捜査本部の刑事部屋が騒がしかった。桜田女刑事が持ち帰った写真のネガが事件のカギを握っていると公表されたのだ。桜田女刑事は新聞社から写真の投稿者を聞き出し投稿者に会った。
新聞社から聞いて訪れた住宅地のその家を尋ねると、既に新聞社から連絡を受けていたらしく初老の投稿者は気さくに桜田女刑事の質問に答えてくれ写真のネガを渡してくれた。撮影場所は市民公園で間違いなく日時も事件当日と確認された。其日の昼下がり写真投稿者は趣味の写真撮影を兼ねて市民公園を散歩していた。たまたまベンチで気持ちよさそうに昼寝する男を見つけ写真を撮ったとの事でベンチの奥までは見ていなかったとの事だった。
ネガが拡大された写真になって鑑識課の暗室から出て来た。
熊倉警部がうなった。「この女は・・小島田礼華・・手にペットボトルを・・後ろに確かに男が立っているが小枝が邪魔をして顔は写って居ない。小島田の男関係を調べろ」
警部は桜田女刑事等に捜査を命じた。
捜査本部の刑事部屋に事件発生署の捜査本部からファックスが届いた。管内宿泊施設の宿泊者についてと題された捜査報告書だった。内容は宿泊施設。観光ホテル三軒旅館三軒民宿四軒。
事件発生当日と前日の全宿泊者数四十三名。身元が判明しなかった者二名。この二名は被害者宿泊ホテルの近隣のホテル宿泊者で、堀口心、哲也のいずれも二十歳代の姉弟と宿帳に記載していた者であるが記載氏名住所共に存在しない偽名と判明した。この二人については現在捜査を続行中であるとの報告書だった。
この報告書を呼んだ熊倉警部は席を立った。
ーこの二人が小島田礼華殺害に関係しているに違いないー警部は女の心と言う名に開目一心との関係を疑った。
学生アパートの横に捜査用車両が止まっている。アパートから出て来た熊倉警部は助手席に乗り込んだ。車は動かなかった。「留守ですか・・」運転している若い刑事が尋ねた。
「ああ留守だ。買い物にでも出かけているのだろう。暫く待って帰って来ない様なら菊屋に行って見よう」助手席窓を開け警部はタバコを咥えた。若い刑事が運転席の窓を急いで下げた。暫く待つうちに一心がスミレを連れて帰って来た。手にはコンビニのレジ袋を提げていた。
「何時もながら仲がいいな・・スミレちゃん傷の具合はどうだ。少しは良くなったかい」
捜査用車両から降りて来た警部に声を掛けられスミレは少し微笑み「警部さん。御心配をお掛けしました。御蔭でよくなりました」と頭を下げた。
「おうそれは良かった。・・一心君、君に聞きたいことがあってやって来た。良かったら車の中で聞かせてくれないか・・二人で乗ればいい・・」警部がスミレを見てニヤリと笑った。
捜査用車両の後部座席に二人が乗ると助手席の警部が後ろも見ずに問いかけて来た。
「女子大の木島田と言う女子大生が殺された事件はもう知って居るだろう。その事件当時木島田が泊まっていたホテルの近くにある別のホテルに偽名で泊まっていた姉弟がいた。その偽名は堀口心と言う、何か思い当たる事はないか・・」警部が振り返り一心の顔を見た。
「堀口は俺の実家のある集落の名前ですが・・名が心とは・・やはりその女は俺と関係がありそうですね・・誰だろう・・俺が知って居る女と言えば・・このスミレくらいなものですよ」
「痛い・・」一心が腰を浮かせた。スミレが尻を爪ったのだ。「スミレ位じゃなく女の人の名前を思い出しなさいよ」スミレが警部に向かって片目を閉じて見せた。
「そうわ言われても・・」一心は腕を組んで考え込んだ。脳裏にすれ違った女の笑い顔がある。ー誰だろう・・あの女・・ー考えていると「思い出さんかね・・」警部が尋ねた。
「警部・・スミレを切りつけた女だと思えませんか・・俺はそうとしか・・」
「私もそれを考えていた・・知らぬ間に一心君もこの事件に加わっている・・」
「そうですね。確かに黒い糸が俺と繋がっている様です。もう少し考えさせてください警部さん。何か思い出しそうな気がします・・もう少し切っ掛けがあれば・・」
「焦らなくていいよ。何か思い当たる事があれば私に連絡してくれ。邪魔したなスミレちゃん」
後部座席から二人が降りると助手席の警部が手を上げ捜査用車両は走り去った。
「本当に心当たりはないの・・良く考えて見てよ・・これまでに相談に来た女の人が居るでしょう」ソファーに腰かけ腕を組み考え続ける一心にスミレが尋ねている。
「相談に連れて来られた女性は何人かいたが・・就活や家庭問題、町で声を掛けられ付きまとわれた話とか、甘い言葉でもう少しで詐欺に合いそうな話とかいろいろ相談に乗って来たけれどどれも問題なく解決したはずで人に恨まれる事はしていない筈だ・・」
「だとすると・・もう子供の頃から高校生時代までの身近な友人知人とかしか考えられないわね・・」「子供の頃・・の知り合いか・・高校時代一人気になる女は居るには居るが・・卒業以来会った事もない・・」「その女の人どんな人だった・・」
「どんな人か・・それは見め麗しい人だったよ・・」言って一心は噴出してしまった。
「何よ・・真面目に話してよ・・どんな女の人だった・・」
「言っちゃあ悪いが可哀そうなほど不美人だった・・その子が俺に年賀状をくれたんだ・・」
「へーっ。その子は一心さんに惚れていたんだ・・でも勇気があるね。相手してくれる訳はないのにね・・」「同級生には無視され孤独だったと思うよ・・誰も助けてやらなかった・・」
「でも一心さんが声を掛けてくれた・・」「何故わかった・・俺は一言も声を掛けたなんて言ってなかった・・」「それでなければ年賀状なんか出さないよ・・」
「そうだな・・俺は声を掛けた・・頑張れと・・」「やっぱりね。彼女嬉しかったんだよ・・
私涙が出そうよ・・ありがとう一心さん・・」「お前が有難がる事はないと思うが・・」
「それでもありがとう一心さん」「もういい・・その話は無しだ・・俺に覚えがないなら親に聞いて見るか・・」「それがいいと思うよ。お母さんなら何か知って居るかも知れないわよ」
一心の脳裏に浮かぶ女はその同級生だった。ー何故あの女なんだー何かが心に語り掛けている。ー宮橋千草お前なのか。姿を現せー一心は腕組を解いた。
二週間前、宮橋千草は故郷に帰っていた。大学を一年休学し整形手術を受け初めての帰郷だった。
「本当に千草なの・・綺麗になって・・本当に・・信じられない・・」
母親の涙は止まらなかった。「この容姿ではろくな仕事にありつけない・・生まれて来なければ良かった」と母親に泣いて縋った日々が蘇って来る。父親を早くに亡くし、母親一人の手で娘を育てて来た。山間の集落から町の工場まで原付バイクで通った。雨の日も風の日も全て娘の為だった。爪の先に火を灯す様に蓄えた金で娘を大学に入学させた。更に娘が嫁ぐ日の為にと貯めた金は娘の整形手術代に消えていた。
「千草お願いがあるの。明日堀口の教会所に行って欲しいのよ。明日は開目先生の父母の法要なの。この北峰集落の信者から一人手伝いに行く事になっているの。お母さんにと頼まれたけどお母さんは仕事があるので千草が行ってくれないかなと思って・・」
「でも私は・・こんな顔だし皆知らない人達だから怪しまれないかな・・」
「大丈夫だよ。北峰の宮橋から来たと言えば、北峰の宮橋姓の信者は四軒あるのだから何処の誰か判りはしないよ」
「そうだね。私が行ってもいいわ・・どうせ台所で湯茶の用意や家事仕事位のものだから人目に付かない様に働くわ」
「お願いね。明日は親戚身内、主だった信者さん達もお見えになるから粗相のない様にね」
この日、一心とスミレが乗った列車に偶然にも宮橋千草が乗り合わせていたのだ。千草は先に一心達を見つけて違う貨車に乗り込んだ。一心が同伴している女が菊屋食堂の娘と知っていた。一心が何故スミレを連れて居るのか理解できなかったが、家に連れて帰る処だとは理解した。ーあの二人の仲はどうなっているのだろう‥今の私を見たら一心さんはどう思うだろうー流れる車窓を眺めながら考えていた。
開目家の法要の日、千草は開目家の台所にいた。大勢の信者が手伝いに来ていた。
ーこれでは人目につく恐れはないーと屋内の様子を伺いながら家事を手伝っていた。
その中にあってひと際目を引く若い女がいた。スミレだった。明るい笑顔で手伝いの信者達と会話しながら立ち働いている。教会所の大広間に茶菓子やお茶を運んでいるのはスミレだった。出前なれしているスミレの動きはテキパキとスムースだった。時折一心の母美知恵が台所に顔を出しスミレと笑顔で会話している。一心も何度も顔を出し笑顔でスミレを見て直ぐに家の奥へ去っていく。まるで他人には興味がないような行動だった。
ーそう言う仲だったのかー千草の胸に冷たい炎が燃え上がった。自分には一度も見せた事の無い一心の笑顔だった。法要が終わり神棚にお供えされた山ほどの品が台所に運ばれてきた。
その品を信者達が出席者の人数分の手提げ紙袋に詰めて行く。千草はスミレの横で袋詰めを手伝った。ー悔しいけれど本当に綺麗で可愛いわー嫉妬心が殺意に変わっていった。
仕出し料理が教会所広間に運ばれ打ち上げが始まると千草は教会所を後にし帰宅した。
家に帰り疲れて横になると、一心とスミレの笑顔が脳裏に浮かび嫉妬の炎が又燃え上がった。
スミレがソファーに座りコンビニで買って来たショートケーキを食べている。
一心が携帯電話を手にした。発信音に続き「はーい・・」と母美知恵の声が聞こえて来た。
「一心かわりない。学校行ってる・・スミレちゃん元気・・」立て続けに母は言った。
「母さん・・ちょっと聞きたいことがある、俺の小さい頃の女友達なんて居たかな・・」
母の笑い声が聞こえた。「居るじゃない・・貴方に年賀状くれたあの子よ。北峰の宮橋さんの娘さん。うちの信者さんの娘だった。あの時は何も考えなかったけれど後になって翌々考えて見ると宮橋さんの娘だと分かったの。あの色の黒い個性的な顔の娘だとね」また母の笑い声が、
しかし笑い声は直ぐに止まり声が改まった。「その子法要の日、手伝いに来てたわよ。台所でスミレさんと手伝っていたわ。私も信者のお婆さんから聞いて分かったのよ。あの子全くの別人になってたよ。若いのに厚化粧の綺麗な娘がいるなと見ていたの。それが宮橋の千草ちゃんだった。貴方小さい頃遊んでいたじゃない。もう忘れたの・・」
「宮橋千草が信者の娘・・子供の頃一緒に遊んでたって・・」「それでは母さんその千草は元から俺を開目の息子と知っていたと言う事か・・」「そうに決まってるでしょう。それにお前に好意を持っていたって事でしょう」「その話は止めてくれよ。迷惑な話だ。そうか・・それで合点がいったよ。母さんありがとう・・切るね・・」「ちょっと待ちなさいよ。何が合点がいったのよ。母さんには解らないでしょう。あの千草って子が何かあったの・・教えてよ」
「母さんには関係ない話だよ。事が終わったら話してやるよ。切るよ・・」
一心が携帯電話を切った。
「あの台所にいた若い女の人が年賀状の人なの。随分話が違うのね。不美人て言ってたけど美人だったわよ・・嘘つき」
「スミレそれはお前が昔の宮橋千春を知らないからだ。整形したんだよ。きっと。でなければ俺が宮橋千春を見誤ることは百パーセントなかった・・千草がスミレを襲ったんだ・・俺のせいで・・すまないスミレ・・」
「ちょっと何よ。何を謝っているのよ。判る様に説明してよ・・」
「今は言わずにおくよスミレ。俺に後ろめたい事は微塵もないから信じてくれ」
「そう言われれば信じる他ないよね。離してくれるまで待つ事にするわ」
スミレがショートケーキがのっていた銀紙をぺろりとなめて、丸めてゴミ箱に捨てた。
夜に郷田が来た。「コーヒーをくれ・・」と勝手に冷蔵庫を開けゴクゴクと缶コーヒーの栓を開けて飲んだ。「海野の様子がおかしい・・今帰って来たが何も言わない。顔を見てやってくれ。
やつれて青ざめた顔を・・」
「そうか・・重症の様だな・・可笑しいと思ったのは何時からだ」
「もう一週間いや十日になるかな。学校にも行かず朝から何処かへ出かけている。帰って来るのは決まって夜だ。ぶつぶつと独り言をつぶやいて帰って来る。僕は関係ない・・僕はやっていないと言っていた様だ・・可笑しいだろう。何か事件にでも引き込まれたのではないか・・」
「それも考えられるが他にもある筈だ・・精神的に異常をきたしている。やけになって何かやりそうだな。後をツケて見るか」
「それじゃあ明日、海野がアパートを出たらツケて見よう。一日仕事になるかも・・」
郷田は帰って行った。一心は海野の荒んだ心が見える。一番の原因は小島田礼華の死だろう。
ー海野は全てを知って居るー口を割らせるには弱みを握る必要があると一心は考えた。
携帯電話の着信音が鳴った。ー誰だこんな時間にー一心は携帯電話をとった。午後の八時だった。 発進者は熊倉警部だった。「熊倉だ。見て貰いたい防犯ビデオがある。協力してくれ。迎えの車を送るから」「警部そのビデオは例の堀口心が映っているビデオですか・・」
「そうだ。弟と言う男も映っている・・」「分かりました。迎えの車をアパートの前で待っています」電話を切ると一心は帰ったばかりの郷田の部屋をノックした。「明日の尾行は中止するかも知れない」と、それから熊倉警部に呼ばれ警察署に行ってくる旨を伝えた。
アパートの前に出て待っていると捜査用車両ではなく普通の黒いワンボックスの軽四乗用車が来た。運転していたのは瀬島部長刑事だった。
捜査本部の刑事部屋で熊倉警部が待っていた。他の捜査員達は全員帰宅せずに集まっていた。
「夜分にすまなかった。一刻も早く君に見て貰いたかったのでね。君も堀口心を見たいと思ったからね・・」「はい。興味がありますよ。僕が考えていた女性と同じであるか、どうか・・」
「ほう・・流石に開心堂。では見てくれ・・」警部は机の上のパソコンを開いた。
パソコン画面にホテルの防犯ビデオのコピーだろう、荒い画像が映し出された。
ホテルのフロントでチエックインする男女が映し出された。続いて夜間だろうかホテルのロビーを出て行く二人が。時刻が写っている。午後の十一時三十五分だ。午前零時十七分男が一人で帰って来た。それから遅れる事二十分女が帰って来た。翌日のチエックアウトのフロントの状況が映し出され動画は終わった。
一心は黙ってパソコンの動画を見つめていた。
「一心君映っているのは君の考えていた女だったかな・・」「警部。僕の考えていた女に間違いありませんよ。スミレを襲ったのも映っている女です。宮橋千草・・女子大の四回生、同郷の幼友達、高校の同級生・・男は学生アパートの後輩、海野智樹に間違いないです・・まさかと思っていましたが、そのまさかでしたよ警部」
「そうか。君の御蔭で女の名と男の正体が判った。その二人は小森雄太の殺害現場に居た事は判っていた」「さすが警察ですね。僕は足元にも及びませんよ・・」
「そう謙遜するもんじゃないよ。開心堂さん・・」
熊倉警部と一心の周りを捜査員達が取り巻いていた。
「警部その開心堂とは何ですか・・」若い刑事が尋ねた。警部は一心の顔を見て笑った。
「君は知らなくていいことだよ。知りたいなら自分で調べて見ろ。刑事だろう」
警部は話を戻した。
「明日朝、男を任意同行しよう・・女の居住先を知って居るのか・・」警部が一心に尋ねた。
「宮橋千草の居住先は残念ながら知りません。女子大で聞けば判るのではありませんか・・」
「女を先に呼びたかったが仕方がない・・一心君御蔭で事件解決が早まりそうだ。感謝する」
熊倉警部が頭を下げた。
翌朝早く学生アパートの横に捜査用車両が二台停車した。一心は目覚めていた。ドアがノックされた。熊倉警部が顔を出し、後ろに管理人の顔が見えた。
「警部早いですね。海野はもう・・」「居ないんだよ。海野が・・昨夜は居たと他の学生も言っているが・・」「居ない・・何時出て行った・・捜さなければ・・」
一心は手早く着替えをすまして郷田の部屋のドアを叩いた。郷田は寝ていたらしく目を擦り乍ら出て来た。「一心さん。こんなに朝早く・・海野はまだ寝ているだろう・・」
「海野が居ないんだよ。何時の間に出て行ったのか・・」
「一心さん捜しましょう。何か仕出かしてからでは遅すぎます・・」
郷田はバタバタと着替えをして出て来た。他の刑事達は学生達の部屋を見て回っていた。
郷田の前に警部が顔を出した。「郷田君か・・それでは一心君と一緒に海野を捜してくれるか」
一心から刑事課長だと告げられ郷田は慌てて頭を下げた。
警部は警察署に戻り捜査員達は町に散って行った。
「捜すとは言っても何処を捜せばいいのやら・・日頃の海野の行動は全く知らないからな」
郷田が首を捻って考えている。当てのない二人は菊屋の前を通りかかった。その時店の戸が開きスミレが出て来た。布製の手提げを持っていた。どうやら学校に行くらしい。
一心と郷田に気が付いたスミレが寄って来た。
「朝から二人でお出かけとはどう言う風の吹き回しかしら・・雨が降りそうだわ。傘を持ってこなくては・・」
憎まれ口を聞きながらスミレは笑っていた。
「スミレちゃん冗談を言っている場合ではないんだよ。今は大変な事が起こっているんだよ」
郷田は笑みも返さず真顔で言った。
「えっ・・大変な事って何が起こったの一心さん・・教えてよ」
「教えてやるよ。海野が居なくなったので捜している。海野は宮橋千草と繋がっていた」
「繋がっていたとは・・信じられないけど又どうして彼女と・・」
「それを聞くために捜しているんだよ。警察も捜している・・」
「警察も・・ちょっと待って。私も捜しに行くわ。荷物を置いて来るから・・」
スミレは店に駆け込み小さなショルダーバッグを肩にかけ出て来た。
「さあ行きましょう・・何処から捜すの・・宛が有るのでしょう・・」
「スミレ宛などないよ。何処から探そうかと考えていたんだよ・・」
「海野さんは警察に追われているって知って居るの・・」
「いや奴は何も知らずに犯した罪に気が付いて悩んでいたはずだ。当てもなく歩き回っているかも知れない。町を出て居なければの話だけれど・・まだ町に居る俺はそう思っている・・」
一心は歩き始めた。その後ろを二人が追って行った。
一行は繁華街からJR駅、市電駅から市営バス発着場歩きに歩いて女子大構内入口まで来ていた。「「海野はこの辺りに居る様な気がするが・・殺された小島田瑠美と宮橋千草の関係を考えると宮橋千草はこの女子大の学生なのかもしれない。俺と同じ歳だからもう今年卒業している筈だが・・」一心は校舎に続く並木道を眺めた。通学の学生がちらほらと見える。
「私が学校の事務局で聞いてみようか。女の私なら案外教えてくれるかも知れないよ」
スミレが自信ありげな顔で男二人に行った。
「駄目で元々、スミレ行って見てくれるか・・学生で在籍しているかの確認だけでいいよ」
一心は宮橋千草に切りつけられたスミレの気持ちを推し量って見た。スミレの顔に迷いはなかった。ースミレは強いー一心はスミレを送り出した。女子大構内入口に立つ若い男二人を女子大生達が横目で睨んで構内に入って行く。
三十分程待つとスミレが帰って来た。「高校の先輩を探していると言ったら案外簡単に調べて教えてくれたわ・・在籍してたよ。薬学部の四回生だって昨年は病気で休学してたらしいわ。
だから一年留年した誰かと似てますよね」スミレが笑った。
「そうか彼女は薬学部にいたのか・・なら毒劇物に詳しい筈だ。これで読めた・・」
頷く一心にスミレは首を傾げていた。
「スミレ悪いが薬学部の校舎に行って見てくれないか。宮橋千草が通学しているかどうか確かめて欲しいんだ・・」「ああ私もそうしようと思ったけど二人が待っていると思ったから事務局から直接戻って来た。行ってくるよ・・」「待てよ。もしかしたら宮橋千草がいるかもしれない。
薬学部の近くで一回生らしい学生に、それとなく来ているかどうかを尋ねてくれ。いても居なくても良いから直ぐに帰って来てくれ」「ああ心配してくれてありがとう。私だって宮橋千草の顔は知って居るから用心するわ。行ってくる・・」スミレが校内に消えた。
一心と郷田の横をパトカーが速度を落として通り過ぎた。重要参考人として海野と宮橋千草は県下に手配されているはずだった。もう時間は昼前になっていた。熊倉警部からの連絡はなかった。スミレが帰って来た。
「聞いてきたよ。ここ最近宮橋千草は見かけないそうよ。四回生は就活で忙しいそうで皆滅多に学部に顔を出さないそうよ」
「そうか・・就活か・・学部に顔を出さなくても誰も不思議がらない。宮橋千草は影を潜めたか・・それでは海野を捜す他はなさそうだ」
三人は歩き出そうとした。「ちょっと待て・・」郷田が皆を止めた。「あの女だ・・」
郷田が顎で示した先を大学構内から出て来た女が歩いて行く。
「あの女って何だ。郷田知って居る女なのか・・」一心もその女を目で追いながら尋ねた。
「海野が隠し撮りした写真を部屋の壁に張っていた女だ。海野が夢中になっている女だよ」
「成程スタイルといい顔といいモデルか芸能人の様だな・・」
「ああ男って生き物はどうしようもない生き物だわ。側に私って女がいる事をお忘れなく」
スミレが一心の尻を蹴った。「スミレ怒ったのか・・矛を下ろしてあの女の後を追うぞ」
三人は女から距離を取って尾行を始めた。女は小森雄太の恋人だった伊澤瑠美だった。
伊澤瑠美はバス通りの脇の歩道を歩いて行く。コンビニの前を通り過ぎた。
コンビニから一人の男が出て来て伊澤瑠美の後ろを着いてゆく。
「おい・・海野だ・・海野がいたぞ・・」駆けだそうとする郷田を一心のが止めた。
「待て郷田・・奴がどんな行動をするか見て見よう・・逃がしはしない」
伊澤瑠美がバス停の前で止まって腕時計を見ている。海野が背後から伊澤瑠美に迫った。
「やめろ海野ー」郷田が叫んで海野の肩を押さえた。驚いた顔の海野が振り返った。伊澤瑠美も驚いた顔で振り返り立ち竦んだ。目の前に若い男三人と女が一人、一人の男が駆け寄って来て一人の若い男の腕を捕まえている。
海野は一心と郷田それにスミレの姿を見るとその場に座り込んだ。
目の前のバス停にバスではなく捜査用車両が滑り込んで来て止まった。車から降りて来たのは熊倉警部と二人の刑事だった。
「やっと捕まえてくれたか・・流石開心堂、期待は裏切らないな」笑顔の警部が言った。
「警部どうして此処が・・」「怒らないで聞いてくれ。今朝学生アパートで郷田君に発信機を渡していたんだよ。一心君君なら必ず海野を見つけてくれると思ってな」
警部は呆然とたたずむバス待ちの女に声を掛けた。
「伊澤瑠美さんだったな。ストーカーの被害届を出していたが、どうやらストーカーはこの男らしい。少し注意しておきたい事がある。署迄来てくれるかな。強制ではないが・・」
伊澤瑠美が頷いた。警部とは恋人小森雄太の事件以来の顔見知りだった。
「一心君君達はこれからどうするね。署の車で送ろうか・・」
「警部遠慮しておきます。俺達は昼飯でも食べてゆっくり帰ります。では・・」
一心は郷田とスミレを連れて引き返し掛けて警部の耳もとに囁いた。
「警部宮橋千草は女子大の薬学部の学生ですよ」警部が顔を上げた。
三人は後ろも見ずにその場を離れた。
警察署に任意同行された海野は、憑き物が落ちたかの様に自分が事件に関わってしまった事情を泣きながら全て自供した。そこには小心な男の弱さが語られていた。成人するまで異性と交わる事が出来なかった男が恋に目覚めた時、既に悪魔に魅入られて泥沼に足を踏み入れ後の祭りだった。海野の供述の内容は次の通りだった。
一つ目 同郷の高校の同級生だった小島田礼華とは親しい中ではなかったが、彼女が通う女子大の文化祭に私大の先輩に誘われて着いて行きそこで小島田礼華と再会した。その時小島田礼華と共に居たのが小島田の先輩学生宮橋千草だった。
二つ目 女子大の文化祭会場で美男美女の小森雄太と伊澤瑠美のカップルを目にしてしまい海野は伊澤瑠美に初恋の片想いをしてしまう。この時美男の小森雄太に小島田礼華も片想いの恋心を抱いてしまった。だが小森と一緒にいた伊澤瑠美は美人過ぎて小島田礼華は小森に近ずく事が出来なかった。
同じ恋心を抱いたもう一人の女宮橋千草の場合は違っていた。宮橋千草は通学するバスで小森に出会った。しかし満員のバスで小森に「側に寄るな。臭い」と睨まれ悲しみのどん底に突き落とされた。依頼小森は憎しみの存在だった。此の事があって宮橋千草は学校を一年休学し顔の整形手術を行こなった。
三つ目 小島田礼華と宮橋千草との出会いは学食だった。友人も出来ず一人学食で昼食をとっているテーブルに整形しコンプレックスから脱した宮橋千草が同席し友達になったと小島田礼華が海野に語っていた。
四つ目 海野は恋心を押さえることが出来ず伊澤瑠美の通学途中を追尾するストーカー行為にはまってしまった。その行為を宮橋千草に動画撮影され脅され言うがなりの奴隷になった。
五つ目 市民公園近くの喫茶店に宮橋千草に小島田礼華と共に呼び出され、公園のベンチで寝ている小森雄太に小島田礼華が声を掛けるチャンスだとレジ袋に入ったサンドイッチを小島田礼華に渡した。小島田礼華が喫茶店を出ると海野はスポーツドリンクのペットボトルを渡され小島田礼華を追いかけ公園内でサンドイッチと共に小森に渡すようにと宮橋千草に指示されペットボトルを小島田礼華に手渡した。
六つ目 自分が手渡したスポーツドリンクを飲んで小森が死んだと知って小島田礼華は精神的に可笑しくなった。眠れないと睡眠薬を常用するようになり何時も朦朧としている状態だった。そんな小島田礼華が旅に出た。知れを知った宮橋千草は海野を同伴させて小島田礼華の後を追った。そして海辺のホテルに宿泊している小島田礼華を海野を使って呼び出し、海野を帰らせた後、小島田礼華の手首を切り海に落とし手殺害した。
七つ目 宮橋千草は高校生の時、片想いの一心に年賀状を出したが無視され、悲しみに暮れた過去が忘れられず、一心と仲睦ましいスミレを害する事で一心を苦しめ様と犯行に及んだ。
七つ目については後に一心が熊倉警部に話した内容が推測として語られていた。。
ヒ素の件は女子大薬学部の劇毒物保管庫から少量であるが盗み出されている事が判明している。
以上が海野の供述から得られた宮橋千草の残忍な犯行のあらましだよと熊倉警部が話してくれた。後は宮橋千草を早急に逮捕することに絞られていた。
一心はソファーに座りスミレが持って来た差し入れの昼食を食べている。スミレは床に寝そべり一心の大学の教材を読んでいた。
一心の携帯電話が鳴った。一心は箸を置き携帯電話を取った。発進者は熊倉警部だった。
「警部今昼飯中です。要件は手短に・・」一心は寝そべるスミレに片目を閉じて見せた。
「そうか。それは悪かったな。手短に話す。宮橋千草が実家に帰っているらしい。地元警察から先程連絡が入った。そこで頼みがある。宮橋逮捕に同行して欲しい。逮捕に応じない場合、君に説得をお願いしたい。以上だ。あと少しで迎えに行く。用意して待っていてくれ」
通話が切られた。有無を言わせぬ一方的な通話だった。
「一心さん警部にやられたね。手短だったよ。今の通話・・」スミレは笑っていた。
「仕方ないか・・気の重いお願いだった・・」一心は食べかけの昼食を掻き込んだ。
「実家のある志川町に帰るのね。私も着いて行こうかな・・」
「おいおい遊びに行くのじゃないよ。宮橋千草の逮捕に付き合えと言って来たんだよ警部は。人の気持ちなんか無視してさ。俺の家の信者を逮捕するんだぞ。どう考えても理不尽だろう」
「それが警察じゃない。人情なんて考えていたら仕事にならないじゃない」
「だから警察に協力するのは好きじゃないんだよ」「とか何とか言って協力してるもんね。
今日は私は着いて行かないよ。あの年賀状の可哀そうな人が捕まる処なんて見たくはないわ」
スミレはファンシーケースから上着とズボンを取り出して「早く着かえなさいよ」と一心の前に置いた。ドアがノックされた。「早いな。もう来たのか・・」熊倉警部が顔を出した。
「取り込み中悪いな。スミレちゃん一心君を借りるよ・・」「どうぞ、どうぞ遠慮なく使ってください。タダですから・・」「ありがとう。嫁さんからそう言って頂ければ安心して連れていけるよ」警部が笑った。「嫁だなんて、私はまだ結婚はしませんよ。この男が大学を卒業するまではね」「怖い怖い警部用意が出来ました。行きましょう・・戸締りをお願いね」
スミレに送り出されて一心は警部の乗る捜査用車両の後部座席に座った。車は一路志川町の北峰集落に向かった。おおむね三時間程の行程である。
一心は車内から実家に電話を掛け父の宗次郎から北峰集落の宮橋千草の家を教えて貰っていた。父宗次郎は尋ねられた家が信者の家だった事に不信を覚えた様だったが、それについては尋ねなかった。
車は志川町に入った。
志川町の北峰集落は一心の実家のある堀口集落の山一つ先にある集落で町からは三キロほど離れている。車はナビゲーションを頼りに北峰集落に近寄って行った。色ずきはじめた田圃の中の道を山間地へと向かった。山と山との間の谷間に沿って棚田が上へと続いている。その棚田の左手山の傾斜地に七軒の民家が肩を並べる様に建っている。集落手前の山裾の林に頭を突っ込んだ形で黒い八人乗りのワンボックスカーが止まっている。頭隠して尻隠さずの状態だった。その車の後ろに捜査用車両は止まった。
ワンボックスカーの中から二人の捜査員が降りてきた。先発して来ていた捜査員達だった。一人は女性刑事の桜田だった。
「状況はどうだ・・」車から降りず熊倉警部が二人に尋ねた。
「今林の奥から二人双眼鏡で宮橋の家辺りを見張っていますがどの家が宮橋の家かよく分からないので集落全体を見ています。でも今のところ人の動きがないので集落から出てはいないでしょう」「分かった。一心君、君が宮橋千草の家を教えてやってくれ」「分かりました・・」
一心は車から降りて谷の奥に見える集落を眺め指さした。
「あの赤い屋根の平屋の古い家がそうです。父に教えて貰ったので間違いはないはずです」
「あの赤瓦の家ですね・・」一人の捜査員が林の藪の中に消えた。
「姿を見せれば・・だが集落の住人を騒がしたくない。暗くなってから向かおう。一心君休んでいてくれ」そう言うと警部はリクライニングシートを倒した。
午後六時三台の車が集落へ続く道を登って行った。仕事を終えて帰宅する車だろう。一台の女性が乗る原付バイクが登って行った。
車内に置いてある携帯無線が母親らしい女が原付バイクで帰って来て家に入ったと伝えて来た。 午後七時日が山に落ちかけている。一心達の乗る車の後ろに白い軽四輪トラックが止まり一心の父親開目宗次郎が降りて来た。大きな包みを提げていた。
「お父さん無理を言ってすいません」一心が車を降りて包み話受け取った。包みは一心達の夕食。炊き出し弁当七食分だった。
警部が慌てて降車し宗次郎に頭を下げ礼を述べた。父宗次郎は人目に付くと早々に引き返して行った。一心から夕食を頼まれた母美知恵は近所の婦人に声を掛け食材を集めて七人分の弁当を作った。何歳になっても息子は可愛いものなのだ。
午後八時辺りが薄暗くなっていた。集落に明かりが灯っている。「出かけるか・・」
警部が車を降りた。
宮橋千草の家では町工場から帰って来た母の妙子が夕食の準備をしながら言った。
「帰りに村の手前の雑木林に止まっている車を見たよ。黒い大きな車と灰色の車だったよ。あんな場所で何をしているんのだろうね・・」
それを聞いた千草の顔色が変わった。「母さん今夜はうんと御馳走を作ってね・・」と甘えた調子で言った。「はいはい千草の好物ばかり作ってやるよ」母は笑って言った。
「千草どうしたんだね。ちっとも食事が進まないね。もっと食べなくっちゃ駄目だよ・・」
「母さんちょっと腹が持たれて・・」千草は腹を押さえて見せた。
「母さん。私が吹き込んだカセットテープは聞いているの・・」
「ああお前が居ない時は毎晩聞いているよ。掛けてみようか。千草の歌声を・・」
母の妙子がテープレコーダーを持ち出しスイッチを入れた。若い女の綺麗な歌声が流れて来た。「母さん。もっとボリュウムを上げてよ・・」
母がボリュウムを上げた。「うっ・・ううっ・・」母親は首に巻き付いた荷作りロープを外そうと足をバタつかせ、やがて動かなくなった。カセットテープの千草の歌声が流れている。
千草は灯油タンクの油を部屋じゅうにまき散らせ火を点けた。火が燃え広がるのを見て千草は母の側に寄り添い母を抱きしめた。「母さん今日までありがとう。一緒に行こうね・・お父さんの元へ・・」テープレコーダーを引き寄せ母と自分の間に挟みボリュウムを最大に上げた。
「警部宮橋の家から火の手が・・」宮橋千草の逮捕に出発しようとしていた捜査員達は車を走らせ宮橋千草の家へ駆けこんだ。隣の同じ宮橋家の男が燃える平屋の家を見つめていた。
燃え盛る火の中から歌声が聞こえて来る。
かあさんが・・よなべ・・をして・・てぶく・ろあんでくれた・・こがらし・・
「これは・・この歌声は・・」熊倉警部と一心は共に火の中から聞こえて来る歌声を聞いた。
火勢は強まりやがて歌声は消えた。
集まって来た集落の人も手の施しようがないと見守るばかりだった。遠くでサイレンの音が鳴り響いている。
「家人はどうしてますか・・」警部が立ち竦む初老の男に尋ねた。
「あの歌声を聞いたでしょう。妙子は何時も娘が吹き込んだカセットテープを聞いていましたよ。あのテープの声が流れていたと言う事は、可哀そうに二人共逃げ出してはいないでしょう」「あの妙子さんとはどう言うご関係で・・」「妙子は私の従兄妹にあたります。苦労して娘を育てもう少しで楽になると言っていたのに・・」初老の男の目に涙が滲んでいた。
翌日火災現場から焼死した二人の遺体が発見された。
葬儀は神道の儀式に乗っ取り開目宗次郎が取り仕切った。一心は既に学生アパートに帰って来ている。 ーうさぎおいし・・かのやま・・こぶなつりし・・かのかわ・・ー
スミレが歌っていた。
「ねえ。この辺りには山はないし、ウサギもいない。川と言ったら用水路しかない。小鮒も見た事ないし・・故郷って何処にあるのよ一心さん・・」
ー完ー