後編 そして魔女は安らかに微笑む
しかし幸運の女神は、まるで何か弱みでも握られていたかのように、頑なに魔女のもとを離れようとしませんでした。
やっとの思いで見つけた希望を失い、再び絶望の闇に染まりかけた時、魔女にとって二度目の幸運が蝶のように舞い込んできたのです。
それは魔女が薬を作り始めて三百二十四回めの新月の夜のことでした。
薬の効果がもう発揮されることはないと理解していながらも、僅かな奇跡に縋るしかなく、魔女はずっと薬を作り続けていたのです。
そうしていつものように薬の材料を捕らえるために街にやってきた魔女の耳に、不思議な声が聞こえてきました。
「——おい魔女よ。打ち捨てられし闇の女王よ。貴様、どうやら太陽の光が浴びたいらしいな」
それは男とも女ともつかない不思議な声でした。魔女はたちどまり、声の主を探してあたりを見渡しましたが、誰の姿もありません。
空耳かと思いその場を離れようとした魔女の耳に、もう一度おなじ声が聞こえてきます。
「おい無視するな。聞こえているんだろ? 魔女よ。このろくでなしの夜の使いよ!」
「うるさいねぇ、アタシは忙しいんだよ! こそこそと隠れていないで、アンタが姿を見せたらどうなんだいっ!」
無遠慮な声にたまらず言い返した魔女に、けれど声の主は無遠慮に笑って言いました。
「くっくっく。いいのかな? そんなに私を袖にして……お前の太陽の下を歩きたいという願い。私にはそれを叶えてやることができるのだぞ」
「なんだってぇ?」歩き出そうとした魔女は驚いて言いました。「アンタ、それは本当かい」
「無論だ」と声の主は鷹揚な雰囲気を持った声で応えました。「——私はその方法を知っている」
「まさかアンタの言う方法ってのは〝秘薬ソレイヌ〟のことじゃないだろうね? それだったらアタシはもう知ってるよ」
「あんなちっぽけな代物と一緒にするな、殺戮の僕よ。私が教える方法はもっと完全で、簡単にできるモノだ。もしもそれを使うならば、明日にでも貴様は昼の世界を歩けるようになるだろう」
「いっひっひ。こりゃあ大きく出たね」
笑いながらも魔女は頭を巡らせていました。いまだ正体を見せようともしない声の主は得体の知れない存在です。本当のことを言っている保証はどこにもありません。
しかしだからといって声の主の言葉を無下にすることは、今の魔女にはもうできませんでした。たとえそれが絹の糸よりも細い可能性であったとしても、希望を失った魔女には縋るしかなかったのです。
それにまた、信用するかどうかを決めるのは話を聞いてからでもできることでした。
魔女は心を決めて言いました。
「ならさっさとその方法とやらを教えな」
「いいだろう」声の主は応じました。「だが無論タダというわけにはいかない。条件がある」
「条件だってぇ?」魔女は首を傾げました。「なんだいそれは」
「——今後いっさい人間を襲うのはやめろ。それが私が貴様に出すたったひとつの条件だ」
それを聞いて、魔女は心の中でせせら笑いました。
——いっひっひ。馬鹿な奴だ。アタシが人間を捕らえるのはソレイヌを作るためさ。もし本当にあの燃えるような光の下を歩けるようになるんなら、もはや人間に用はないさね。いっひっひ。けれどまあ、せっかくそんな破格な条件で教えてくれると言うんだ。せいぜい利用させて貰うよ。
魔女は忘れているようでしたが、魔女が人間を襲い始めたのは〝秘薬ソレイヌ〟の存在を知るよりもずっと前のことでした。
しかし考えてみれば、それもおなじようなモノです。
結局のところ、魔女が人間を襲うのは、嫉妬からくる感情に由来するモノであり、いわば八つ当たりも同然の行為だったのですから。
太陽の光の下を歩くことが叶うならば、もう魔女に人間を襲う理由はありません。
「いっひっひ。仕方ないさね」と魔女はさも残念そうにしながら言いました。「その代わり、嘘だったら承知しないよ」
そうして魔女は声の主からその方法を聞き出しました。声の主のいう方法は〝秘薬ソレイヌ〟とは別の薬——それは塗り薬でした——を使うものでしたが、それは実に単純で、画期的な方法だと魔女には思われました。
「——こりゃ凄い! まさかこんな方法があったなんてねぇ」
魔女はさっそく新たな薬の調合に取りかかることにしました。どこまでも幸運なことに、必要な材料は全て揃っていたのです。
ものの数時間で薬を完成させた魔女は、夜が明けるのを待ちました。
夜明けまでの間、魔女は昼の世界を歩けるようになればやりたいことについて考えていました。
——いっひっひ。まずは日光浴というモノをしてみようかね。太陽の光を浴びながらハンモックに揺られるのはさぞ気持ちがいいだろうて。いっひっひ。やりたいことが山のように浮かんでくるわい。ああ、ほんとうに楽しみさねぇ。
……しかし、魔女の願いが叶うことはありませんでした。
案の定と言うべきか、これは罠だったのです。
あの声の主の正体は、王様から魔女の討伐を依頼された冒険者でした。
数多の迷宮を攻略し、歴戦の冒険者として名を馳せていた彼の腕を見込んだ王様が、民草を苦しませていた魔女の討伐を命じたのです。
冒険者は頭を悩ませました。
相手は一晩のうちに何百もの人々を殺すような恐ろしい魔女です。いくら腕に覚えのある冒険者といえども正面から立ち向かうことは到底できません。そんなことをすれば一瞬で森の養分になってしまうことを冒険者はよくわかっていました。
しかし王様から直々《じきじき》に依頼された手前、必ず目的を果たさなければなりません。そうしなくては、苦労して得たせっかくの名声を失ってしまうことになります。
八方塞がりの状況に途方に暮れていた冒険者でしたが、ふらりと立ち寄った酒場で、耳寄りな情報を得ることができました。
どうやら魔女には太陽の光の下を歩きたいという夢があるらしいのです。
どうして魔女がそんなちっぽけな夢を持っているのか理解できませんでしたが、冒険者にとってそれはまさに降って湧いたチャンスでした。これを利用しない手はありません。
冒険者は一計を案じることにしました。
すなわち、魔女を騙すということです。
魔女が太陽の光を浴びると、瞬く間にその身を稲妻に撃たれたかのように焼かれ死んでしまうということは、子どもでも知っていることでした。
迎えた新月の晩、魔女が街にやってくるのを待ち伏せていた冒険者は、しかし自分の無謀さに恐ろしくなってきました。
必死に考えてきた作戦とはいえ、魔女がどうでるかはまったくの未知数です。
失敗すれば、十中八九殺されてしまう。
冒険者はいますぐ逃げ出したいという誘惑に駆られました。
しかし時間は待ってくれません。
冒険者が悩んでいる間に、とうとう魔女が街にやって来ました。
もう逃げ出すことはできません。
魔女の姿を認め覚悟を決めた冒険者は、全身から滲む恐怖に怯えながらも、なけなしの勇気を振り絞って魔女に語りかけました。
「——おい魔女よ。打ち捨てられし闇の女王よ。貴様、どうやら太陽の光が浴びたいらしいな」
声色を変え、薄氷をふむ思いでのぞんでいた冒険者でしたが、魔女との会話が終わる頃には、そのあまりの呆気なさに拍子抜けてしました。
言葉では疑うようなことを言いながらも、魔女は冒険者の言葉をすんなりと信じたのです。
魔女は夜が明けるとすぐに嬉々《きき》として光の世界に飛び込んで行きました。その姿はクリスマスプレゼントを抱えたまま家中を走り回る少女のようだと冒険者は思いました。
太陽の光を身体いっぱいに浴びた魔女は言いました。
「ああ、これが太陽の光! なんて温かいんだろう……身が焼けるようさねぇ…………」
そして哀れな魔女は死んでしまいました。
物陰で様子をうかがっていた冒険者は、魔女の身体が完全に動かなくなったことを確認してから、魔女だったモノの側までやってきました。
そして全身を激しく焼かれながらも、魔女の顔に張り付いていた安らかな表情を見たとき、冒険者はなんだか自分が悪いことをしたような気になりました。
冒険者がこれまでに目にした魔女は、素直で、まるで騙されることを知らない純粋な子どもでした。
あるいは、本当にそうだったのかもしれません。
大人という存在を知らないままに育った子どものように、魔女は自らの欲望に正直だった……。
しかしだからといって、魔女に同情を抱くことは、本質を見誤った錯覚に過ぎません。
魔女がたくさんの人間たちを身勝手に殺し続けたことは事実なのですから。
せめてもの情けとして、冒険者は魔女の亡骸を麗かな陽気溢るる丘の上に埋めてやりました。
それから冒険者は墓標に何を書くか少し考えたあと、こんなふうに言葉を刻みました。
——安らかに眠れ、煌めく太陽とともに。
魔女が滅びたことで、その時代の人間たちはもう新月の晩を恐れることはありませんでした。
見事魔女の討伐を果たした冒険者は人間たちから英雄として崇められ、王様からたくさんの報酬をもらい裕福に暮らしていきましたとさ。
めでたし、めでたし。