前編 魔女の夢
むかしむかしの話です。
この世界にはひとりの魔女がいました。
とてもとてもワルい魔女でした。
新月の夜が来るたびに街から人間を捕らえてきては、森の中にある自分の住む家まで連れていき、マグマのようにぐつぐつと煮えたぎる大きな鍋の中に放り込んでいました。
魔女は、鍋の中で人間たちがあげる断末魔に構いもせずに、ゆっくりと、まるで朝食に使う卵が割れてしまうのを恐れるかのように、慎重に鍋を杖で掻き回していきました。
やがて鍋の中が静かになってくると、魔女は満足げに頷いて、淡く輝きはじめた中の液体をワイングラスですくい取り、それを美味しそうに飲みながら言いました。
「いっひっひ。今宵も良い薬ができたわい。この調子でいけばもう何年かすれば耐性ができるはずじゃ。いっひっひ。それだけがアタシの楽しみじゃて」
朗らかに笑う魔女の姿は、まるで遠足の前日にてるてる坊主をせっせっと作っている子どものようでした。
薬により身体に耐性ができるのを、魔女は本当に楽しみにしていたのです。
では、人間を材料にした薬で、いったい何の耐性が付くというのでしょうか。
それを説明するためには、まず魔女の夢について言及しなければいけません。
そう、どんな敬虔な神官でも裸足で逃げ出すような残忍で冷酷な魔女にも、一つだけ夢があったのです。もう魔女自身、覚えていないくらいの昔から抱いている夢。
——魔女は太陽の光の下を歩いてみたかったのです。
これを聞くと、人間である皆さんは、何を馬鹿なことを言っているのかと怒るかもしれません。
太陽の光の下を歩きたいだって? 太陽なんて毎にち昇ってくるじゃないか。そんなことのために人間を殺してしまうだなんて、まったく馬鹿げている、と。
なるほど、たしかに太陽は日々温かな光で地上を包むように照らしています。
そして人間にとって太陽の光を浴びるなんてことは、言葉を話すことや、文字を書くことよりも簡単なことです。
朝起きて、ベッドから立ち上がり、カーテンを開ければいいだけのことなんですから。
しかし、だからこそ、人間には魔女の気持ちがわからないのでした。
全ての物事を人間基準で考えることこそ愚かなことはありません。さまざまな生き物たちが暮らすこの世界において、人間はひとつの種でしかないのですから。
魔女にとって、太陽の光の中を歩くこと、それは言葉を話すことや、文字を書くことよりも難しいことでした。
というのも、闇の世界に生きる魔女にとって、太陽の光はヘビの毒よりも強い猛毒だったのです。
ひとたび魔女が光の世界に足を踏み入れれば、その身は稲妻に撃たれたかのように焼かれて死んでしまうことでしょう。
ゆえに魔女はこの世に生を受けて以来、ずっと夜の闇の中で生きてきました。
それはとても静かで、寂しい世界でした。
街灯もない時代のことです。
人間たちも寝静まり、管楽器のような小鳥のさえずりも、日の光に照らされて少女のように微笑む美しい草花もありません。
あるのはただ、恐怖という感情だけです。夜に対する全ての生物の持つ原始的な感情だけが、暗い闇の中を粘ついた泥のように蠢いていました。
そんな夜の世界に生まれて、太陽の光に憧れを抱かないなどと、いったいどうして言うことができるでしょうか。
魔女にとって、太陽の光が降り注ぐ昼の世界は、吟遊詩人が奏でる御伽噺よりも魅力的なモノなのでした。
けれども、どんなに願ったところで、魔女は決して光の世界に足を踏み入れることなく一生を終えるのです。
魔女が太陽の光の下を歩くためには、たとえ少しの時間であっても光の世界に足を踏み入れて滅びる覚悟を持つか、太陽の光を浴びても身体が滅びない方法を見つけるしかありません。
しかし魔女には死を選ぶ覚悟はありませんでした。
さりとて都合よく身体が滅びない方法が見つかるはずもなく。
いつしか魔女は、深い混沌とした闇に飲み込まれるように人間たちを襲いはじめました。
人間たちが楽しそうに太陽の光の中を駆けまわる姿を想像するだけで許せなくなったのです。
魔女は、胸に渦巻いている黒いもやもやとした感情を振り払うかのように、人間たちをなぎ払っていきました。
しかしどんなに人間たちを殺しても、胸のもやもやが消えることは決してありません。
燃えさかる油に水をかけるが如く、血を浴びていく魔女の心には暗く濁った感情が積もっていくばかりでした。
あるいは、もしも魔女のそばにだれかひとりでも人間がいたら教えてくれたのかもしれません。
その胸のもやもやが、嫉妬という世界を滅ぼしかねない最も恐ろしい感情に起因するモノだということに。
しかし魔女は闇の中にひとりでした。
魔女はそれから何年にもわたって、駄々《だだ》をこねる子どものように人間たちを殺し続けていきました。