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夙夜夢寐  作者: 龍岡
7/9

夢中

休み明けに会社に行くと菊田さんから菓子折りをいただいた。この前は飲みすぎて記憶がないとのことで、何かしでかしたかもしれないのでお詫びにくれた。

ここで未成年飲酒をさせた罪を突き付けてもよかったのだが、私はなかなかどうして寛容なようだ。

『大丈夫ですよ。』の一言と愛想笑いで流してしまった。


りっちゃんはまだ少し恥ずかしいのか、私を少し避けていた。まあ酒の失敗の一つや二つはあるものだし、私は全然気にしていない。りっちゃんのそのうぶな感じがかわいらしかった。


しかしそんなほっこりヒューマンドラマで終わる職場ではない。

長編の締め切りの足音が確かに聞こえるくらいまで大きくなってきていた。

これはそろそろ残業、それも給料が増えないのでサービス残業だが、それを視野に入れないといけないかもしれない。


しかし設定がいまだに微妙である。

どの設定も面白いことには面白いのだが、そもそもこういうラノベのような設定の小説は私の肌に合わないのかもしれない。

りっちゃんもどうやら似たような状況のようだ。

設定をどれにするか決めては文章が進まない。又は大して面白くない。

いっそ別のものを作ってしまおうか。

そうも思ったがそんなアイデアは降って湧いてくるものでもなく、何も浮かばなかった。


どうしようどうしよう!

そんな風に困った顔をりっちゃんと突き合わせているだけで時間だけが過ぎていった。


今日も特に大きな進展もなく会社が終わってしまった。

残業を考えたが、ただ会社にいたからと言ってアイデアは沸いてこないので家に帰ることにした。

別に面倒くさいから帰っちゃえ!とかそんなことを考えたわけではない。断じて違うぞ!


「お帰り。今日はスーパーでケーキが安くなってたから買ってきたよ。チーズケーキが好きだったでしょ。」


「ただいま。本当?うれしい。ありがとう。」


「ご飯は君の当番だけど大丈夫そうかい?」


「うん。今から作るから待ってて。」


そう言って私はスーツのジャケットを脱ぐと手を洗ってアプロンをかけた。

今日はギンダラの照り焼きとほうれん草の胡麻和え。それと肉じゃがを作ろう。

夫は私の肉じゃがをおいしいと言ってくれるのでよく作っている。


「なんか最近困ってる?」


「え?なんで?」


「ここのところいつも考え事をしているような気がして。」


「うーん、そうかも。いま書いてるやつがうまくいかなくて。」


「そっか。設定とかがうまく浮かばないとか?」


「ちょっと、読心術でも使ってるの?気持ち悪いわ。」


「気持ち悪いって、そんな...」


「冗談よ。」


「ははは、わかってるよ。でも設定か。君が書くのは少し純文学チックなところがあるからな。エッセーとか似合ってると思うんだよね。だから無理に合わないジャンルを書かなくてもいいとは思うんだけど。」


夫は文学に関してはそれなりに的確なことを言ってくる。


「でも少し長いのを書かないといけないの。あと少しファンタジーっぽいかな。」


「ふーん。そうだな。何か緩い感じの作品って肌に合ってない気がするし。それだったらもっとキャラクターの感情やそれを象徴するような情景にフォーカスして、文章の美しさが作れるような、そんな設定に変えてみたら?もっと哀愁や悲愴を感じるように。」


「そうかなー。私緩い作品も好きなんだけどね。」


「まああくまでアドバイスだし、好きなように作ることが一番だとは思うけどね。

そろそろ魚焼けたんじゃないかな。いい匂いがしてきたよ。」


フライパンの上では照り輝く銀だらが醤油の少し焦げた香ばしい匂いを醸していた。

料理を盛り付けて食卓を囲んだ。


「いただきます。」


我ながら今日はうまくできた。どれもおいしい。

夫も箸が止まらない様子であった。


「そういえばあの子。りっちゃんだっけ。彼女はどんな感じなの?」


「うん。あれ以来少し私を見ると恥ずかしそうにしてるけど、特に問題はないかな。」


「そっか。これからもそばにいてやらないとね!ママさん。」


「ちょっと!」


彼はへらへら笑っていた。


食事を終えると風呂に入った。

風呂は良い。とても落ち着く。

湯船につかりながら私は考えた。

設定か。設定をどうすればよいのだろうか。

根本から変えるのは無理そうだしな。

でも確かに少し今の設定では書きづらい。

うーん...

そもそも高性能アンドロイドっていう設定だけだからかな。

続きを考えていたけど、そもそものもとの世界の方の設定を変えてみたらどうだろうか。

そんなに大したことのない発想なのに、今まで思い至らなかった発想が頭をついた。


私は急いで風呂から上がると自分の部屋に閉じこもって原稿用紙に向かった。

そうだ最初の設定をいじるのだ。

ただの戦略アンドロイドでは面白くない。

いや、いっそ転生するのだからアンドロイドである必要がない。もっと形而下的な物質に縛られない電脳空間のAIのようなそんな設定でもいいのではないだろうか。

私は筆を進めた。


次の日。私はいつも通り8時過ぎに出社した。

そしていつも通りりっちゃんがいた。


「おはよう。」


「あ、おはようございます。」


りっちゃんの方が先輩なのに、私がため口で彼女が敬語である。

まあ歳の差が11もあるわけだし、そうなっちゃうとは思うけど。


「昨日家で少し設定を考え直してみたんだ。それでそもそも最初のところから変えてみようと思って。」


「なるほど。たしかにいつも転生した後のところで考えてましたからね。」


「ストーリーの大まかな流れを書いてみたんだけど少し見てくれないかい?」


「はい!」


彼女はしばらく目を通すと、


「そうですね。たしかに悪くないと思います。ただ、うまく書けるかどうかは書いてみないとわかりませんね。」


「そうだね。とりあえず書き始めよっか。」


そうして私たちは執筆を始めた。

いつも通り短編も仕上げながらの作業は大変だったが、夢中になって文章を考え、推敲し、悩んでいた。

そこにあるのは創作の苦しみだけでなく、楽しさだった。いや、そんな安直な言葉では表せない。何かもっと崇高でありながら俗物的な、自分のうちにあるものを無限に吐き出していく苦しみに近い快楽ともいうべきだろうか。きっとアクメというのは本来こんな感じなのではないだろうか。自分という存在が吸い取られてすり減らされて無くなってしまうような。

悶絶しているのに同時に悦楽に浸っている。


私は夢中でキーボードを打っていた。

今までで一番集中できている。自分がずぶずぶと深淵の闇の中に落ちていくような、そんな感じがした。


気が付くと窓から差し込む日は真っ赤に染まっていた。

昼休みもすっ飛ばしてずっと執筆していたようだ。

集中力が切れた。というかこんな感じで集中するキャラじゃない私には意外ときつかったようで、立ち上がろうとすると腰に鈍い痛みが走った。

柄でもないことはするものではないのだ。


「えっと、お疲れ様です。これコーヒーです。」


りっちゃんがコーヒーを持ってきてくれた。


「ありがとう。りっちゃんもずっとやってたの?」


「はい。まあそうです。ただ、途中コンビニでおにぎりかってはきましたが。これ、一応その時買ってきたので。今日お昼何も食べてないですし。」


そう言うと彼女はウィダーインゼリーを渡してきた。


「悪いね。お金は...」


「大丈夫です。いつもいろいろお世話になってますし。」


「そうかい?じゃ遠慮なくいただくよ。」


私はチューブの口を噛むと、袋の部分をゆっくりと握りつぶした。

独特の甘いゼリーが口の中に流れ込んできた。

美味しい。

全くお腹はすいていなかったが、体が糖分を欲しているようだった。


「今日はすごく集中してましたね。なんかもう、少し近づきがたい感じになってました。でもそのおかげで一気に全体の1/4くらい進んだと思います。この調子でいけば十分締め切りに間に合いそうですね。」


「あはは、そんなに気迫あふれる感じだったのか。」


なんか変な風に周りからひかれていなければいいけど。


「でも本当に良かったよ。明確な締め切りのある仕事なんて初めてだし。しょっぱなから原稿を落としちゃったらなんかいろいろとまずい気がしてたんだ。」


彼女はくすっと笑った。


「日もだいぶ傾いてきて、暗くなってきています。そろそろ帰りましょうか。」


会社内を見回すと、いくつかの部署でデスマーチが流れていたが、それ以外ではすでにみんな帰っていた。


「そうだね。一緒に帰ろっか。」


私たちはあの夢で見た血塗られた十字架のように赤黒くなった空の下、家路についた。

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