夢迷
「おはようございまーす。」
何時に来ればいいのかいまいちわからなかったので、朝の八時ごろに会社に入った。
「あ、おはようございます。」
奥から声がした。
見ると涼子さんがブースの入り口から顔を出していた。
どうやら他には誰もいないようだ。
「涼子ちゃん早いね。」
「ええ、まあ、私いつも暇なので。」
「そうなの?」
「えっと、学校も行ってないんで...」
そういえばこの子はなぜ17歳なのにこんなところで働いているのだろうか。
「私、その、実は学校になじめなくて、それで学校には通ってないんです。」
彼女は唐突に切り出した。
私はなんて反応していいのかわからず黙っていた。
「その、お話を聞いてもらってもいいですか?」
「うん、いいけど...」
彼女はしばらく沈黙したのち、おもむろに口を開いた。
「私の母は売春婦でした。それで誰の子かもわからない私を生んだのです。母は優しい人でした。どんな時も私を一番に考えていて、母が母自身のために何かしてるところなんて一回も見たことがありませんでした。」
重い重い。重すぎる話が始まったな。
「でも、私の母が働いていた店を取り仕切るヤクザが、上納金が足りないって頻繁にうちに来ていたんです。私はただただ怖くていつも部屋の隅でふるえていることしかできませんでした。あの日もヤクザがうちに来ていました。その時男たちは機嫌が悪かったのか、私の髪をつかんで引きずって、私を踏みつけたのです。母は私を守るために男の一人に包丁を向けました。ヤクザどもは激昂して、母をちゃかで撃ち殺したのです。それでそのあと...」
彼女は声を震わせていた。顔を真っ赤にし、眼にいっぱいの涙をためていた。
「それで、踏みつけられて動けなくなった私の目の前で母の死体を犯したのです。まだ幼かった私には何をしているのかがわからなかった。でも、私も成長して理解できるようになって、それで、男の人というものが信じられなくなってしまったのです。あの光景がどうしても忘れられないのです。」
彼女の頬を静かにしずくが伝い落ちていった。
「そうだったんだ。そんなにつらいことがあったんだね。」
私は彼女を抱きしめた。
彼女は肩を震わせていた。
「大丈夫だよ、もう大丈夫。大丈夫だから...」
涼子さんの背中を何度も優しくさすった。
「私、初めてあなたを見たときに母と重ねてしまったんです。優しそうで、目元が似ていて、それで...
それで私、今それを思い出しちゃって。」
彼女は泣き出してしまった。嗚咽交じりに泣き叫んでいた。
二人しかいないオフィスに涼子さんの声が響いた。
一通り泣いたら落ち着いたのだろうか。彼女は私の隣のデスクに戻った。
「ごめんなさい...急にこんな話して、泣き出してしまって。」
「うんん、大丈夫だよ。少し楽になったかな。」
「はい、ありがとうございます。それと、その、もし迷惑じゃなければでいいんですけど...」
彼女はもじもじしていた。
「どうしたの?」
「わ、私のことをりっちゃんって呼んでくれると嬉しいです。」
彼女は恥ずかしそうに早口でまくしたてた。
「りっちゃん?」
「その、母がいつも私のことをそう呼んでくれて。」
「わかったよ。じゃあこれからもよろしくねりっちゃん。」
彼女は恥ずかしそうに、それでもどこか嬉しそうに顔を赤らめて笑った。
そうだ。彼女は甘えたいのだ。母という存在に。
きっとお母さんが死んだとき、私くらいの年齢だったのだろう。そして涼子さんはまだそのとき子供だった。
十分に甘えられなかったからまだ大人たちに甘えたいのだ。
それならりっちゃんと呼ぶことなんてお安い御用である。
りっちゃんの方を見ると、仕事に熱心に打ち込んでいるようだ。早速執筆活動を始めている。
いつもより心なしかはかどっているようだ。
9時半を過ぎたあたりから人が増えてきた。
そして昨日と同じくそれなりに騒々しいオフィスへと戻っていった。
「やあやあ、調子はどうだい?ミスピンチヒッター。」
見るとあのメガネの髙岡とかいうおやじだ。りっちゃんに適当な奴と豪語されたあの。
そうだ、どんな契約なのか確認しなければ。
「ミスじゃなくてミズかミセスです。そんなことより髙岡さん、ちょうどよかった。一つ質問が。」
「なんだい?」
「私の契約ってどうなってるんですか?給料とか労働条件とか。」
「あれ?言ってなかったっけ?」
「言ってないです。」
本当に適当な奴だ。
「えーっとね、君は一カ月の契約だったはずだ。伊藤君が戻るまでのね。それで交通費は全部支給するよ、あとは、一か月分の給料をまとめて後で振り込むよ。給料はざっと30万弱。いい夢のシナリオを書いたら正式採用や昇給も考えよう。」
意外と悪くない契約内容だ。
私は20代だし、20代の平均年収は320万くらいだ。なら、これは平均より高い。
たしかに毎日コンスタントに短編を書き続けるのは大変だが、悪くはない。
意外とあたりを引いたんじゃないのか?
「ただ、残業手当はないよ。それに今は研修期間だから短い奴だけだけど、そのうち長い奴も書いてもらうからね。それじゃあ、そろそろ会議の時間だから失礼するよ。」
髙岡さんはすたすたと歩いて行った。
「長い奴って何です?」
りっちゃんに聞いた。
「えっと、長編のことです。たまーにいくつかの夢に連続性があって、内容が続いているようなものがあると思いますが、あれです。伊藤さんもそれを書いてる途中に倒れちゃって...」
「それってもしかしてアンドロイドだかAIが異世界転生するみたいな。」
「はい、伊藤さんが書いていたのはそれです。よく知ってますね。」
あの夢は書きかけのやつだったのか。でもなんでそんなのが私の夢に?
「私それ見たんです。夢で。」
「あ、あの夕方に起きた誤送信の送り先はあなただったんですか!」
りっちゃんは目を丸くしていた。
「まあそうなのかな?」
「なるほど、それで...」
彼女は何か納得したようだった。
「その、ある程度慣れたら伊藤さんの長編も手伝ってください。夢で実際に見たあなたなら書けるはずです。」
「それはどうだろう...」
私は素直にうなずけなかった。あの夢を見て自分でも小説を書いてみたが、どこか陳腐な感じでうまく書けない。そんな私が果たしてこっちで執筆したからってうまく書けるのだろうか。
「大丈夫です。昨日だってすごくよく書けていましたし、それに私と一緒に書けばきっといいものが書けます。だからその時になったらよろしくお願いします。」
彼女は言った。
「わかったよりっちゃん。頑張るよ。」
りっちゃんは優しくうなずいて応えた。
この先どうなるかなんてわからない。
それでもとりあえず今目の前にあるタスクを消費しなければ!
私は昨日と同じようにないアイデアを無理にひねり出し、パソコンにそれを打ち込んでいった。