夢路
ランチを終えて帰ると、再び地獄のような執筆活動だ。
はぁ、自然とため息が漏れ出てしまう。
「あのー、すいません。こちらを書いたのってあなたですか?」
ブースの入り口に男性が一人立っていた。
「あ、伊藤さんの代理の人か!これは申し遅れました。私、絵コンテの梶原というものです。いやー助かりましたよ。ここ数日田中さん一人だったので、仕事が全然進まなくて。」
「いやいや、田中さん結構すごいじゃないですか。私の方が仕事全然できてないし。」
あははは...
愛想笑いしながら涼子さんの方を見ると、彼女はブースの隅にうずくまっていた。
「もしかして聞いてないんですか?」
梶原さんが小声で耳打ちした。
「田中さんは男性恐怖症なんです。なんかあったみたいで。ストーリーについて聞きたいことがあっても伊藤さんがいなくなってからは田中さんしかいなくて...
男性しかいない絵コンテ班は全く話ができていない状況でした...」
梶原さんは苦笑いしながら頭をかいていた。
なるほどね。そういうことだったのか。
「それで、今回はどんな御用で?」
「そうでしたそうでした。この楓の木なんですがね、これって雑木林の中にあるんすよね?それってイメージとしては木の生い茂る中にある感じですか?それとも林の中の少し開けた場所の真ん中に一本だけぽつんと生えてる感じですか?」
「そうですねー。私のイメージでは開けた場所って感じですかね。まあでもそこは特にこだわりはないです。あっ、でも月明かりに照らされて男の子の顔がより青く見えるシーンがあるので、開けてたほうがやっぱり描写的にも自然ですね。」
「なるほど、わかりました。ありがとうございました。田中さんに対する質問も是非中継してもらいたいのでよろしくお願いしますね!それじゃあ。」
梶原さんは私が何も答えないうちに行ってしまった。
「ほら、もういったから大丈夫だよ。」
そう言って私は涼子さんに手を伸ばした。
「えっと、その、ごめんなさい。」
彼女は私の手を握って立ち上がった。
「わたし、男の人って苦手で...」
「そうだったんだ。まあ、今は伊藤さんって人の代わりに私もいるし大丈夫だよ。」
「本当にごめんなさい...」
そうして私たちは執筆に戻った。
時計が夕方の5時を回った。
私は何とか残りも終わらせ、ノルマの5本を書き上げた。
「いやー、ようやく終わったー。きつかった。」
私は思いっきり伸びた。
涼子さんはまだ執筆中のようだ。
「涼子ちゃんはまだ書いてるの?」
「えっと、そうです。伊藤さんの作ってたやつを仕上げないといけないし。」
「私も手伝おっか?」
「いえ、大丈夫です。私ももうすぐ終わりますから。先に上がっちゃって大丈夫ですよ。」
「そうかい?じゃあお言葉に甘えて。それじゃあまた明日。」
私は会社から出た。
なんだか今日はいろいろあった日だ。
今日かいたものがいつか夢となって自分でも見られたりするのだろうか。少し楽しみだ。
まるで小説が書籍化を通り越してアニメ化、実写化されるようなものだ。
さて、仕事をおえて池袋から山手線に乗って家路についた。
最近は家にずっと引きこもっての執筆だったから、久々に夫以外の人と話して新鮮な感覚だった。
この仕事は私にとってもかなり良いものなのかもしれない。
家につくと、なんだかいい匂いがした。
「お!お帰り。今日のお仕事はどうだった?」
「うん。面白かったかな。」
「どんな仕事をしたの?」
「なんだか人の夢を作る仕事みたいなんだ。」
「は?それは何かのたとえかい?」
「いや、リアルに人の夢を作ってるんだって。それで私、その夢のシナリオライターを今日はやったんだ。」
「はぁ。」
夫はいまいちピンとこないようだ。
まあそれはそうだ。
「ちょっと、ぼうっとしてないで。今何か焼いてるんでしょ?」
「おっと!そうだった」
夫は急いで台所に戻っていった。
「お風呂入っちゃえば?今日は少し暑かったし、汗かいたでしょう。」
夫の声が台所から響いてきた。
今日は夏を思い出したかのような久々の暑さだった。真夏よりはだいぶましだがそれでも少し汗ばんでいた。
「ありがとう。」
そう言って私は風呂に入った。
ふー、生き返る。やっぱりしっかり働いた後の風呂は最高である。
熱めに設定してあるお湯が私の体の芯まで温める。
やっぱり多少暑くても、熱い風呂に限るなー。
じいさんみたいにほっこりしながら風呂にしばらく浸かっていた。
そういえば伊藤さんってどんな人だったんだろう。
涼子さんがいるのだからきっと女性ではあるのだろうが。
まあ倒れたっていうところから、私が見た不思議な夢を書いていたのは伊藤さんなのだろうか。
あのAIのアンドロイド少女が異世界に転生するっていう。
っていうかちょっと待てよ?
入社手続きみたいなことをほとんど何もやらずに流れで仕事を始めたけど、一体全体どうなってるんだ?明日聞かないとな。
考え事をしていたら少しのぼせてしまったようだ。
風呂を出て寝間着に着替えると、ダイニングにはすでに料理が並んでいた。
「ようやく出てきたね。もう食事の準備はできてるよ。一緒に食べよう。」
そう言って彼は私の椅子を引いた。
テーブルの上には美味しそうなご飯が並んでいる。
私が手伝っている時よりも美味しそうなのは少し悔しいが、彼は実際料理が上手だからしょうがない。
ラタトゥイユと、豚肉のソテーにハニーマスタードソースをかけたものだった。
ソテーは少しだけ焦げていた。
それらを冷えた白ワインで体に流し込んだ。どれもおいしい。
「どうでしょう。お気に召しましたか?」
「うん。とってもおいしい。」
「これはこれは、もったいないお言葉。」
彼はおどけた様子でバカ丁寧なお辞儀をした。
お酒が少し入って陽気になっていた私は大笑いしてしまった。
彼が本当におかしくってしようがなかった。
彼はそれを楽しそうに見ていた。
「よかった。本当に今日のお仕事は楽しかったみたいだね。」
「うん。私初めてあなた以外に小説をほめてもらったわ。」
「そうか、ようやく社会が君に追いついたんだね。」
彼は片目をつぶった。
私はいつも、『私の小説が受けないのは時代の先を行き過ぎているからなのよ!』なんて冗談で言っているからなのだろう。だからこんなふうに言ってきたのだ。
「そうね、ようやく私の最先端の文学が夢としてみんなの目に触れるのよ!」
彼は微笑んだ。
「でも少し残念かな。僕だけが読める君の素晴らしい文学が衆目にさらされるなんて。」
「もう、冗談言わないで。そんなに褒めたってなにも出ないわよ。」
私は腹を抱えて笑っていた。
「いや、本気だよ。君の小説家としてのお仕事は成功してほしいって心から思ってるんだ。でもそれで僕にしか見れない君の小説が世に出て僕だけのものでなくなるのは少し残念に思っているのも本当だ。」
彼は仕事の時とは少し違った真面目な雰囲気になっていた。
「え?その、」
彼は立ち上がり、とまどう私を尻目にテーブルの縁を歩いてきた。
そうして何も言わずに私の唇に彼は唇を重ねた。
彼の顔はまるで少年のようだった。
そうだ、彼は焼きもちを焼いているのだ。私に対する独占欲が刺激されて、それでお酒で理性のタガが外れたのだ。
お酒のせいか、キスのせいか、はたまた恥ずかしさからか、彼はほんのり赤くなっていた。
強くもないのにお酒なんか飲むからだ。
本当にしょうがなくってかわいらしい。
「もう寝る。明日も早いんだろうしそっちも早く寝なよ。」
キスの後の沈黙に耐えかねたのか、彼はそういうと一人で寝室に行ってしまった。
私は残ったワインを飲み干すと、食器をゆすぎ食洗器に突っ込んだ。
明日も頑張れそうだ。
そんな風に私は思った。