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部屋の隅に縮こまってもうすぐ二時間が経とうとしていた。先生はパソコンに向かい、うーんうーんと体を捩らせながら唸っている。傍に置いてある薄汚れたコップに視線を落とし、腹を下していないことに心底胸を撫で下ろした。手持ち無沙汰ではあったが、もとより暇には慣れている。時間を持て余すことにかけてはエキスパートなのが腐れ大学生だ。ボケーっと半開きの口を気にも留めず、音に反応して動くフラワーロックのような先生の動きを思考停止で眺めていた。
二時間前、決死の覚悟で水を飲み干した私は先生に尋ねた。
「それで、何をすればいいんでしょう?」
「何を?」
当然の疑問を投げかけたつもりが、同じく疑問で返され返答に戸惑う。
「ええと・・・何をお手伝いすればいいんでしょう?」
「ああ、そうかぁ。アシスタントでしったけねぇ・・・。本当に働き・・・。」
「働きます!働かせてください!」
食い気味での返答に先生は驚きながら言葉を続ける。
「後悔しま・・・。」
「しません!お願いします!」
不採用だのと考えさせる間もなく熱意で押し切ってしまえ。先生は目をパチクリさせた後、深く溜息をついた。
「この短い時間で何があなたにそこまでの熱意を持たせたのかはわかりませんがぁ・・・。」
ふむと先生は顎に手を添えて何かを思案している。口からは独り言が漏れ出ていた。
「仕方ないかぁ・・・。背に腹ってやつですかねぇ・・・。でもなぁ・・・騙してるみたいで、いや事実そうなんだけどぉ・・・。やっぱり・・・。」
やっぱり?やっぱりに続く言葉はなんだ?反射的に続きの言葉を出させまいと立ち上がった。突然立ち上がった私を見てビクッとなる先生。
「何からやりましょうか?力仕事でもなんでも言ってください!」
「えーとぉ・・・。」
私の勢いに気圧されたのか、一瞬思考停止をする。隙をついてさらに畳みかける。
「原稿の誤字脱字チェックとかですか?自信はありませんがきっとこなしてみせます!さあ!何をやりましょう!」
勢い余って屁っ放り腰なファイティングポーズをとっていたことに
「じゃあ、何もしないでください。」
という先生の肩透かしな言葉で気づく。行き場を失った拳とテンションは中空に霧散し、どういうこと?という疑問だけが残った。
さらに三〇分経ち、先生はクネクネした動きをやめ、パソコンに向かっている。静止画を眺めているような感覚に陥るほど一転動きは無くなった。よくよく見ると唇だけが微かに動いている。耳を澄まさなければ聞こえないほどの声は次第に大きくなっていく。
「だから私は言ったのよ!銀杏を入れるべきじゃないって!」
「そんなこと今更言ったって仕方ないじゃないか!」
「茶碗蒸しに銀杏だなんて!あんな臭いもの!」
「それは君が地面に落ちて潰された銀杏しか知らないからだ!」
落語を彷彿とさせる先生の一人喋りは熱を帯びていく。
「あれが銀杏の全てでしょう?人と同じよ!」
「何が同じだって言うんだい?」
喋るのと同じ速度で先生はパソコンに入力している。カタカタと小気味よい音と言葉は前衛的な芸術を見ているのかと錯覚させるほどだった。
「地面に落ちて潰されて、臭い匂いを放つ。ある強烈な側面を見るとそれが全てだって、それしかないんだって、そう思ってしまうものなのよ!」
「それじゃあ君は目に付くところだけを見て本質を見ないって言うのかい?」
「そうよ!」
「あのー・・・。」
たまらず声をかけてしまった。何の話だ、コレ?私が目覚める直前耳に入っていた会話の正体はコレか、超常現象でなくって良かったという安堵を吹き飛ばして、意味不明な落語の内容が気になって仕方なかった。
「はい?・・・あ。」
「あ。」「あ。」って言った。完全に私がこの場にいることを忘れていたようだった。部屋の片隅に打ち捨てられた存在に気付いた先生は少し恥ずかしそうにしながら、頬を膨らました。
「せっかくノッてきて良い所だったのにぃ・・・。」
「すみません。どうしても気になってしまって・・・。何の話です?今の・・・会話?」
会話と言ってしまっていいのか少し疑問を含めながら尋ねた。
「ああ、次の戯曲のセリフですよぉ。」
「戯曲っていうと舞台の?」
「そうですぅ。人が他人を見るときのレッテルを銀杏というメタファーで表現しているんですぅ。」
「それは・・・何というか・・・。」
「聞いていてどうでしたぁ?」
感想を聞かれるとは思っていなかった。返答に困る。
「ああ、まぁ、そうですね、一周回って面白いというか。」
「つまらなかったですか・・・?」
「いや、そういうことではなく、意味不明っていうか。」
「意味・・・不明・・・。」
あからさまに意気消沈させてしまった。不意に出てしまった本音を取り繕わねば。
「いやいや、どういう意味なんだろうと考えなければならないですから、よりその内容について知りたくなるといった意味での意味不明でして!言わばいい意味で意味不明ってやつです!いい意味で!」
魔法の言葉「いい意味で」を強調する。これさえ言っておけば大概のマイナスはプラスに変わる究極の呪文。
「いい意味で・・・。」
先生はどうにか言葉を飲み込もうとしていた。
「そうですよねぇ!私もそこを考えていてぇ、普通に言ったって言葉って通り過ぎていくじゃないですかぁ。だからどうすれば耳に残るようになるかなぁって。」
「ちなみにジャンルは何ですか?」
「決まってるじゃないですかぁ。ラブストーリーですよぉ。」
決まってるのか。そうなのか。先生は「いい意味で」を無事嚥下してくれたようだった。
「あれ?先生のデビュー作ってミステリーじゃなかったですっけ?」
「そうですよぉ。」
「ラブストーリーも書かれるんですね。」
「書きたいのはこっちですからぁ。ミステリーなんてお金を稼ぐためだけに書いたようなものですよぉ。」
それでヒットしちゃってるんだから世のミステリー作家に怒られるぞ。先生がデビュー作以降鳴かず飛ばずな理由を垣間見た気がした。
「それにしても入り込んでいましたね。先生は役者もやられるんですか?」
「そんなそんな。やりませんよぉ。小さい頃から一人遊びをすることが多かったですからぁ。それのせいですかねぇ・・・。」
ふっと顔に影が落ちた気がしたが、先生は目線を上げるときょろきょろと辺りを見渡していた。気のせいか。
「本当に何もしてなかったんですねぇ。」
私が部屋に来たままの状態でいたことを言っているのだろうか。
「何もするなと言われましたから。」
「普通この部屋を見ると掃除しようとか思いそうですけどねぇ。」
「掃除、した方が良かったですか・・・。」
ゆとり教育真っ盛りの世代を舐めないでほしい。自発性なんて義務教育で教わった記憶がない。
「いえいえ、いいんですよぉ。何もするなって言ったのは私ですからぁ。」
「やっぱりここで働かせてもらえないとかですか・・・?」
「言われたことを余計な思考を挟まず、言われた通りにやるっていうのは素晴らしいことだと思いますぅ。」
褒められているのか、馬鹿にされているのか判断に困る。ふむと先生は再び顎に手を添えて何かを考え始めたようだった。
「無駄に正義感や責任感を持たれるよりはぁ・・・。ある意味・・・。適任なのかなぁ・・・。」
先生は何かの覚悟を決めたようにこちらを向き、
「本当にお仕事していただけるんですね?」
と答えるまでもないことを心配そうに聞いてきた。
「そりゃもう。もちろん。」
「分かりましたぁ。それでは来週の金曜日、三日分の着替えや荷物を持って、〇〇駅にきてください。」
「はあ。」
急に告げられた次の出勤日と持ち物にどう答えていいか分からず、曖昧なオーケーを返した。初出勤を終え、先生の部屋を出て気づく。未だ仕事内容を聞かされていない。




