6-08 落差 ※挿絵付
更衣室で弓道衣に着替えて射場に入ると、まだ部活開始前ではあるが、一般客に混ざる形で数名の部員が練習を始めていた。早く来た者は自由に練習しても良いので、とりわけ熱心な部員は、開店ダッシュとばかりに道場が開く時間にきているのだ。俺とヤスもそれなりに早く着く予定だったが、途中であんなことになってしまったので、もう巻藁練習をする程度の時間しか残されていない。
それでまずはと壁に掛けて保管されている沢山の弓袋から自分の物を手にし、中から弓を取り出して両端に弦を張り、同じ位置の壁に立て掛けておく。弦を張った後にしばらく経ってから使用するのが望ましいので、できるならこうして集合前に準備しておく方が良い。
続いて射場の隅にある部員用の矢筒置き場から、保管されている自分の矢筒を探し出し、巻藁練習用の羽根がない矢──棒矢を取り出す。早速と棒矢片手に練習部屋へ移動しようしたところ、矢を射る場所となる「的前」の中央の一席に、小澄が立っていることに気付いた。
昨日は弓道部の方へは来ていなかったので、小澄を道場で見るのはこれが初めてになる。その来なかった理由は……恐らく俺のせい――いや、単純に手芸部の方に用事があっただけかもしれない。いずれにしろ、隙を見て一昨日のことをしっかり謝ろう。夕に誇れるように、ちゃんとするって決めたのだから。
そう思いつつ改めて小澄を見れば、紺の筒袖に黒の胸当を重ね、下は黒の馬乗袴に白足袋という装いであり、ごく一般的な弓道衣に身を包んでいる。後ろでは栗色の長髪を束ねたポニーテールを微風に揺らして――ってあれ? 確か普段の小澄は、両脇二本の三編みにしていたような……? あぁそうか、髪が前や横にあると弓の取り回しの邪魔になるから、弓道場では後ろへ束ねてるわけだ。普段の三編み姿からは小澄らしい生真面目な印象を受けるが、今の髪型はスポーツ系女子の爽やかさも兼ね備えており……うん、これはこれで似合ってるじゃないか。
その小澄はちょうど射に入るところだったので、ここは上級者殿の射法をじっくりと勉強させてもらうとしよう。そう考えて棒矢を矢筒に戻し、的に向かって右手前位置へと移動した。弓道では身体の左を的に向けて構えるので、この位置に立つと、小澄の右前から動きを追うことができる。
そうして一つ一つの動作をつぶさに観察すると……予想通りではあったが、俺含む他の部員達と比べて練度が桁違いなことが見て取れた。無駄な力が一切どこにも入っておらず、水のように流麗で巧みな動きであり、ひとりの弓道人として純粋にとても美しいと感じる。
小澄は弓を打ち起こして左右へ引き分けると、弦を放すまでの数秒間の溜めの動作――「会」に入る。その真っ直ぐ的を見据える小澄の横顔は鋭く引き締まっており、普段のゆるふわした様子からは想像もつかない凛々《りり》しさだ。また、美しい五重十文字を描いて弓を微動だにせず構える小澄の周りは、凪の如き静謐さに包まれており、俺は固唾を呑んで「離れ」の時を待つ。
そうして小澄の妻手から弦が離され、ヒュンと微かな風切り音が鳴った数瞬後……
パーン!
的紙を鋭く突き破る音が響き、周りからは小さく感嘆の声が漏れる。
それはもはや必然と言える的中だが……驚くべきは、当たった位置がなんと的心なのだ。的心は的内で最小となる直径わずか七センチの円であり、俺のような一般高校生レベルでは、狙ったところで稀に偶然当たる程度……なるほど、これが参段の実力という訳か。俺も頑張って追いつかないとだな。
そう感服して頷きつつ、対となる二本目の矢──乙矢も期待して見ていたところ……
「「!?」」
バッチリと目が合ってしまった。こっそりという訳でもなかったが、じっくり観察していたのがバレると……うーむ、妙に気まずいぞ。
だが小澄レベルの弓道人ともなれば、人に見られている程度で何も変わらな――ってぇぇなんでだよ!? さっきとは別人かと思うほど、動きがぎこちないんだが!?
その後もロボットのような動きで弓を引き分けて、全身がぷるぷると震える「会」からの、不恰好な離れとなった。
ボシュッ
そうして射られた矢は、的に当たらないどころか、的場まで届く前に矢道の芝生に突き刺さってしまった。これは通称「ハケ」と呼ばれ、一般的に大変恥ずべき射とされる。
え、待ってくれ? まさかのハケ、だと!? 初心者だったり借りた弓を使ったりならともかく、小澄ほどの技量ではまずありえんことだが……まぁ、あんなロボット状態で射ればハケりもするか。
その小澄は的前から速やかに下がると、この距離でも分かるほどに顔を赤くして、いそいそと矢取りに出ていった。上級者なのにハケってしまった事があまりに恥ずかしくて、今すぐに矢を回収して証拠隠滅したいのだろう。その気持ち、分かる。
それでこれは……どう考えても俺が見てたせいだよなぁ。ほんと悪いことした。
「弓道部しゅーごー! 今引いてる人で終わりー!」
後で合わせて謝っておこうと考えたところで、部長ヤスの号令がかかり、部員が「前」に並び始めた。ちょうど矢取りから戻ってきた小澄は、何事もなかったかのような澄まし顔で最後尾に並ぶと、流れるような動作で音もなく腰を落とし、ピンと背筋の伸びた美しい姿勢で正座する。その先ほどの慌てた姿との落差に、俺は何だかほっこりしながら、列に並ぶのだった。
弓道場の雰囲気は、私の二十年ほど前の記憶に頼っているので、現在は細部が異なるかもしれません。




