1-02 邂逅 ※挿絵×3
俺はストーカー疑惑を無理やり頭の隅に追いやると、二階の自室で物理の宿題に取り掛かることにした。
最初の自由落下と跳ね返りの問題を難なく解き終わり、解答を確認……ふーん、四メートルから落ちると秒速九メートル、全力疾走くらいのスピードが出るのか。
次いで二問目に取り掛かろうとした時……
「!?」
窓の外から、不自然に木の枝の鳴る音が聞こえた。
ふむ、これはもう気のせいではないな…………よし。
そこで俺は、顔を問題集に向けて繰る仕草をしつつ、目線だけを窓の外に向ける。
しばらく続けていると…………動いた! やはり窓の近くの木の上に誰か隠れている。
さてどうしたものかと、しばらく思案した後……窓には一瞥もせず立ち上がると、部屋の出口に向かった。そのまま隣のトイレへ移動し、電気を点けてドアを開け、一呼吸おいた後、中には入らずに閉める。続いて忍び足で階下に行き、靴を履いて玄関から外に出ると、音を出さないように細心の注意を払いつつ薄暗い庭の方へと回り込んだ。
庭では月明かりの中で鈴虫達が合奏会を開き、聴衆の蚊達が極上のアテとばかりに俺の血を吸いに寄ってくる。いやはや、実に千客万来──とは言えもう片方の客は俺の何を求めて来たのやら。それで演奏中に音を立てるのも無粋、もとい犯人に気付かれるので、手で払うだけに留めておく。命拾いしたな。
件の木の下へ辿り着いたところで、見上げて確認してはみるが、夜間に加えて葉が生い茂っており何も見えない。ここで普通なら警察を呼ぶところだが……到着までに気付かれて上手く逃げられると、のちのち余計に面倒になる。そう考えて、自力で捕まえることにした。
まず犯人の居そうな場所の高さを目算すると、おおよそ四メートル。地面は柔らかな土であり、木に登れる程の身体能力があるなら落ちても死にはしまいし、思い切りやらせてもらおう。
さっそく木に対して正対すると、大きく息を吸い込んで左足で地面を力強く踏み、右足及び両手を時計回りに回転させると同時に左足をねじる。そして手・腰・足による遠心力の乗った右足裏を木の幹に思い切り叩き付けた。いわゆる後ろ回し蹴りである。最近特に練習はしていなかったが、子供の頃に身体が覚えたものは、意外と忘れないものだ。小脳スゴイ。
回し蹴りが見事に炸裂すると、直径二十五センチ程度の幹は激しく揺れ、同時に木の上で葉が大きな擦れる音を立てる。――さぁ、落ちてこい。お縄の時間だ。
「きゃっ、わわあぁ、ゆ、ゆれるぅぅ!?」
んん?
きゃっ?
女……の子?
予想外の声色と台詞に疑問符を浮かべていると、
「きゃあああああ」
見上げていた木の上から、声相応の小さな女の子が頭から降ってきた──っとマズイ! とは言え受け止めればこちらが怪我しかねない──そう過った考えは一瞬で吹き飛ばされた。そう、月明かりに涙を煌めかせる宝石のような瞳が、吸血鬼もかくやとばかりに俺を魅了したのである。
無意識に両腕を広げて構える中、落ちてくる少女の幼いながらに整った顔立ち、舞い上がる蒼黒の髪の美しさが――
「ぐはぁぁっ!」
そこで一瞬意識が途絶え、次いで額に激しい衝撃が走った。どうやら見惚れている間に、額同士で正面衝突してしまったようだ。その衝撃で頭と身体が仰け反り、正面から抱きとめる形で少女を受け止め――られず、あえなく後ろに転倒。小柄な少女とはいえ、この高度からのフライングヘッドバットは強烈過ぎた。少女漫画のようにはいかないものである。
仰向けに倒れた状態で目を開けば、俺に覆いかぶさる少女とバッチリ目が合う。やはり涙で濡れる大きな瞳はとても綺麗で、思わずドキリとする──って眼デカすぎない? というか、近すぎやしないか? これでは顔が接触して、てぇぇぇえ!?
そこで俺は生まれてこのかた感じた事のない程の、柔らかな感触に気付く。その感触は、顔の下方四分の一辺りに位置する、いわゆる「口」と呼ばれる器官周辺から伝えられてきていた。
そう、予想通り接触していた。
よりにもよって口と口で!
「んぐっ!」
俺は慌てて起き上がろうとするが、この体勢からはどうにも難しい。
同じく事態に気付いた少女も、驚きに眼を見開くと、慌てて口を離して顔を浮かせる。俺の顔を見下ろして状況を確認すると、今度は顔を別の驚きに変えた。
「えっ、パパっ!? な、なんで下にいるの? あうぅ、まだパパに会う心の準備が……――ってぇそれより、こ、これって!?」
そこで少女は手を口元に当てると、
「パ、パパとキス……しちゃったってこと…………ふぁーすときす……」
一瞬で顔を茹で上がらせ、またもや瞳を潤ませる。
よく泣く子……いやまぁ、泣きたくもなるか。不慮の事故とはいえ、俺なんかと初めてのキスをする羽目になったとなればな。俺も初めてだが、男女のそれの価値は雲泥だろうさ。
自業自得とは言え、それでも多少は申し訳なく思って声をかけようとしたが……信じられないことにも少女は、
「よし、せっかくだしもっかい……」
先ほどのスロー逆再生のごとく、顔を俺の方へと下降させ始めたではないか!
「ちょぃまてまてぇぃ!」
しかし少女は俺の静止の声を無視して目を瞑ると、プルンとした小ぶりの唇を突き出して迫ってくる。
「こ、んの」
俺は寸でのところで少女の顔を掴むと、蛮行を阻止する。
「むがぁ?」
「どうしてそうなるんだ!」
全くもって理解不能! さっき泣いていたのはなんだというんだ!
「偶然にもパパを捕まえたから……ちゃんす?」
「意味わからんわぁ!」
俺はベンチプレスの要領で少女を持ち上げながら上体を起こし、お人形を座らせるようにして隣の芝生にぽふっと置くと、すかさず指を突きつけて詰問体勢をとる。
「お前なん――」
「うーん、事故ってのもちょっとロマンティックさが薄かった気がするけど……でも相手がパパだし、ぜんっぜんおっけーだわっ! そうよ、贅沢は敵よ、うん」
俺の声を無視し、なにやら満足げに頷いている。
「お前なんでこんな――」
「むしろ出会い頭で抱き止められてキスなんて運命じゃない!? いやぁぁん、どうしよう」
再度の問いかけにも、両腕で抱いた身体をくねくねさせて悶えるのみ……だめだこいつ、まるで聞いちゃいねぇ。
仕方がないので、こちらの世界に帰ってくるのをしばし待っていると、少女はデロンデロンに崩れた顔を澄まし顔に変えてこう言った。
「ふふっ、でも助かったわ。ありがとねパパ」
「……ありがと?」
もしやこいつは、受け止めに行った事を言ってるのかね。
「いや、落としたの俺だから感謝されても困る」
「あれっ、そうだよね? そうそう、そうだよぉ。なんで下にいるの? だって今は――」
少女は不思議そうに首を傾げつつ、明かりの漏れる二階の部屋とトイレを見上げて指差している。だがすぐに騙された事に気付いたようで、納得顔でパチンと手を打ち鳴らす。
「――あぁ! まんまとパパの小細工に引っかかっちゃったのかぁ……やるわねパパ? うん、でも、結局またパパに助けられちゃったのね……ふふふ、ありがと」
いやいやマッチポンプかよ、と言いかけるが、その嬉しそうな笑顔に喉を詰まらせる。涙に濡れた顔も綺麗だったが、それにも増して笑顔の似合う少女だ。
「あのな、もっかい言うぞ? 俺が、お前を、木から落としたの。理解してるか?」
交互に指差して、事実確認をする。オレ オマエ オトシタ オマエ オレ マルカジリ。
「もぉー、そんなの分かってるってば。でも不審者を見つけたら、そうしても咎められる言われはないでしょ? その上で危険を顧みず受け止めてくれたんだから、うんっ、やっぱりパパは優しいんだよ!」
そう、なのか? と納得しかける。あと最近の子は難しい言葉を知ってるなぁ。
そこで少女はぴょんこと立ち上がると、俺を起こそうと手を差し出してくる。掌を掴んでみると、これが信じられない程柔らかく、また頼りない。これでは力をかけると逆に倒れそうなので、結局俺はほとんど自力で立ち上がった。
二人で向き合ったところで、少女はこほんと可愛らしく咳払いをすると、
「はじめまして、かな? パパ」
にこやかに挨拶をしてきた。
これでこの少女は十回以上パパと発言した訳で、いい加減これは聞き間違いではなかろう。念のため後ろを振り返る……が当然誰も居らず、これで誠に残念ながらも、パパ=俺と確定してしまった。是非もないね。
「なぜ俺が、初めましてのお前に、パパと呼ばれるんだ。意味わからんわ!」
「えぇーだって、あたしはパパの娘だからパパはパパなんだよ?」
よくわからない事を、さも当然とばかりに仰る。もしやヘッドバットの衝撃で頭やっちまったか? それならば悪い事をした、今は反省している。ほんと二重に頭いてぇわ。
「それでね、何でこんな事したかというと、パパに一つお願いがあるからなの」
「ん? ……ああ」
なるほど、自分の世界に浸りながらも、先ほど俺が言いかけたことを聞いてはいたようだ。キスもしちゃったしもう今しか、などと呟いており、正しく意思疎通ができているかは甚だ疑問だが。
そこで少女は深呼吸すると、全身に気合を纏い、俺を真剣な眼差しで見つめて、こう言い放った。
「パパ、あたしと結婚して!!!」
「……」
「……」
今、コイツ何テ言ッタ?
パパアタシトケッコンシテ?
結婚、して? なんだよそれ、やっぱ意味わからん。そもそも日本で親子は結婚できんし、このセンテンスが使用される事ってありえないだろう。ケッコン……KEKKON……血痕? ……ははん、解ったぞ。幼少期に有りがちな、仲間うちのノリで新しい言葉作っちゃうアレね。うんうん、俺もあったなぁそんなころ。微笑ましいもんだ。となると、最近の子は人をシメル事を血痕すると言い、先ほどの俺の鮮やかな体捌きに感動したこの子は、誰かをシメに行きましょう的なお誘いをしてきたってとこか?
そうして名推理の末に俺は、
「悪いが、子供の喧嘩に手は貸せんな。すまないが他をあたってくれ」
大人として至極まっとうな答えを返した。
すると、顔を赤らめてモジプルしながら待っていた少女は、
「んんっとぉ……はいぃ!?」
驚いた顔を右に左に傾け、まるで意味が分からないと言った様子。
あれ? 俺はちゃんと真摯に答えたはずなのに反応がおかしいな。がっかりされるか、食い下がるか、まずなさそうだが実力行使にでるかだと思ったんだけど。
「え、えっとぉ、この段階で良いお返事なんて期待していなかったし、まず断られるとは思ってたけど……その断り方は想定外過ぎたわ。これはもう流石はパパとしか言いようがないわね!?」
そして少女は、フッと諦観の混じる子供らしくない顔をすると、こう尋ねてきた。
「とりあえずこれは、あたしフラれたって事……かな?」
「そういうことだな」
お互いに何か絶望的に噛みあってない気がしてならないが、なんにせよこんな危なそうなやつに付き合うかと言われたら、答えはNOだ。そう、例えそれが可愛らしい少女であってもだ。
「残念だわ。まぁでもいきなり上手くいったらそれはそれでつまんないわね。それに、求婚はやっぱりパパからしてもらわなきゃだし?」
笑顔に戻ってウンウンと頷く様子からして、どうやら納得してくれたようだ。
しかし、キュウコンとは俺に何をさせるつもりだったんだ……そうか、吸魂か! バトル物漫画とかによくあるやつ! あぶねぇ、それが現実の何を指してるかは知らないけど、断って正解だ。触らぬロリに事案なしである。
「そうか。納得したなら、もう俺を尾行したりするなよ?」
俺にとってはそこが一番重要なので、指差して言い含めておく。聞いてくれるかは怪しいが。
「はぁ~い。だってもうそんな必要ないもんね♪」
すると少女は、意外にすんなりと、元気良く手を挙げて応じてくれた。それを聞いて安心した俺は、踵を返して玄関口へと歩く。これで少女は門から出ていくだろうと思いきや、
すたすたすた てってって
俺の足音と少女の軽い足音がピッタリと重なり、それはすぐ後ろから聞こえてきたのだ。
俺は苦々しい思いで玄関の戸の前まで歩くと、振り向きざまに叫んでやった。
「いや待てぇぃ!」
「んえ?」
なになになぁにぃ? と小首を傾げながらくりくりの眼を丸くして見つめてくる。その愛らしい所作はまるで懐いた小動物のようで……これは実に叱りづれぇな、チキショウ!
「さも当然のように付いてくるな。三歩前の発言は何だったんだ。お前は鳥か? オレコノイエカエル、オマエデテイク、ワカタカ?」
理解が得られない子に、カタコトで言い聞かせる。
「え~、パパに付いてっていると言えば……そうなるけど、あたしはただ家に帰るだけだよ?」
少女がそのまま玄関に歩みを進めてきたので、すかさず左手を伸ばしてディーフェンス。
「待て待て待たれぃ! ナゼ当たり前の顔をして俺の家に入ろうとする。自分の家に帰れ」
「え、だってここあたしの家だよ?」
「ここは俺の家だ!」
「うん、もちろんパパの家だよ。でもあたしの家でもあるでしょ?」
少女は謎理論を展開した挙げ句、「何言ってるのよーパパったらぁー」と片手で扇いで呆れている。
「い・つ・か・らぁお前の家になった!」
「えぇっと……むつかしいわねぇ……定義次第かしら?」
「はあぁぁぁぁ…………そうか」
俺は溜息混じりにそう告げ、いそいそと中に入る。
ギギギ……バン! ガチャ!
戸締り大切。いやぁ最近物騒ってニュースで言ってたもんね。怖い怖い。
「ちょ、ちょっとぉぉ、なんで閉めるのさ!」
無視だ。この手の輩は話しても無駄だ。
「パパあーけーてぇぇー、締め出さないでぇー」
後ろで少女がドンドンと戸を叩いて騒いでいるが、俺は構わず廊下を進んで二階に上がった。
部屋に戻った後、少しして窓から玄関口を覗き見てみると……居ない。どうやら帰ったようだ。
「はぁ……」
実に面倒なのに絡まれてしまったもので、やはり通報が正解だったかもしれない。それにしても、来たのが悪ガキ小僧なら、今ごろ間違いなくブチ切れていただろう。うっかり手出てるね。美少女で命拾いしたな! 帰ったら親御さんに感謝しとけよ!
だがまぁ、これで諦めるだろう。数年後には、「あのときあたし何であんなことしちゃったんだろう、恥ずかしくて死にそう」と後悔と羞恥に苛まれる事請け合いだ。若気の至りとは、すなわち遅行性の猛毒である。その時に縁があれば謝罪でも何でも受け入れてやろうじゃないか、せめてもの介錯だ。そう未来の余計なお世話を想定しつつ、宿題の続きに取り掛かる。
そして月並みな表現ではあるが、それは実に甘すぎる考えであったと、すぐに俺は思い知るのであった。
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不思議少女の立ち絵と表情差分
私服姿(本編での登場をお楽しみに!)
1日目の区切りまでお読みいただきまして、誠にありがとうございます。
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もしみなさまの貴重な評価いただけましたら、作者達は感謝の正拳餅突きをしながら身を粉にして執筆・作画により一層励んで参ります。どうぞよろしくお願い申し上げます。